18.隣の少女との、ほんの些細な約束事
2021年8月16日月曜日。神奈川県川崎市、私立新川学園前。
「一人で学校に来るのは4月ぶりか……」
呟くと、少し早いが校内へ。
1年1組の教室の中には俺以外の誰もおらず、それこそ隣人荘の周辺みたいな静けさが一面に充満している。今の自分の状況を顧みて、この静寂がひどく心地よく、自分自身が渇望しているものだと気付いた。
しかし本当に、日和の誘いを断ってしまって良かったのだろうか。
今朝方、目覚ましが鳴った直後に俺の部屋を訪れた少女は――すでに日常になっていたことは確かだが、なぜか日和とマイの二人だった。彼女たちが目的ありきで俺を起こしに来たとは最初に考えなかったが、やはり昨日のことを思い出すと気恥ずかしい気持ちになってしまい……その結果、彼女らを撒く形でエコービル経由のルートで登校してしまった。
今さら思い出したけど、二人は同じクラスだ。いや、だからといって彼女らを意識して避けたりはしないつもりだし、必要以上に怯える行為も、ただ彼女たちを不快にするだけだと重々理解している。
「というか、忘れてたけど江洲さんや暁月も、あっちなんだよな」
「あ、あの、楠森くん……?」
「――うおっ⁉
急に背後から響いたのは、淡い緊張と羞恥を孕んだ、甘やかな少女の声だった。
振り返ると、マイと同じ色だけど髪質の異なる黒髪を弄る、華奢な小軀のクラスメートの姿が眼下に映る。
彼女――郷愛理との接触が、今の俺にとっては逃避行動になっていた。現に昨日から、学校に行く口実として友人一歩手前くらいの関係にある彼女との交流が、一番に思いついた程だ。
「楠森くん、今日は日和ちゃんと一緒じゃないんだ……何かあった?」
「えっ、いや、さあ……?」
「だ、大丈夫だよ。わたしは、あの、誰にも言わないから……」
「いや、本当になんでもないよ。事実無根だって」
「使い方間違ってるよぉ……。や、やっぱり、その……」
妙に詮索してくるな。彼女の言動に、迷いが全く見えないのが恐怖だ。
愛理はもじもじと緊張しながらも、俺への追及は一切妥協してくれない。これが彼女なりの厚意なんだと思うと、上手く説明できない自分の惨めさが際立って、胃がキリキリと痛む。
そのもどかしさが表情に出ないよう気を張ると、再び愛理の顔も不安げに強張った。
「あの、楠森くん。えっと、その……」
「郷さん。俺と日和は大丈夫だよ。心配させたみたいで、悪かったね」
「わっ、わたしこそ! 無駄に聞き出そうとしてごめんなさいっ!」
謝罪なんてしなくていい、そんな生半な心遣いが俺にはできなかった。その言葉をかけたほうが雰囲気的にはいいのかもしれないけど、できるだけ本心を語りたい自分のプライドが許してくれなかったので、ひとまず愛想笑いでその場を収める。
俺たちが挨拶をし終えたところで、続々と同級の男女が教室内に入ってきた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「はーい、オハシャーっス」
普段どおりの軽口で教室に担任がやって来た。すると今までグループを作ってたわいない世間話に花を咲かせていたクラスメートたちは急に沈黙して、逃げるように自身の座席へと帰っていく。この光景に慣れていた俺だけど、最近になってこのクラスがどれ程優秀なのかを良く理解した。
尊敬の眼差しではないが、担任の女性に何気なく目線を送っていると、
「……おいおい。朝っぱらから色気づいてる野郎がいるけどぉ、勘弁しろよ。わたしは別に、ション便小僧とか微塵も関心ねぇからな? ……ハッ!」
自惚れが過ぎるうえに、最後は鼻で笑いやがった……。
しかしこれも想定の範疇。彼女の言動など、入学からずっと付き合っていれば大体は把握できるようになる。全然嬉しくないけど。
女性は失言もとい皮肉を言ったのち、多分俺のほうを一瞥した。そして小さく嫌味な笑みを浮かべたのち、唐突に本題へと移行する。
「早速だが、アンタらの中から、今年の体育祭のクラス代表を決めたいと思うッ」
……ひどく憂鬱な宣言だったにも関わらず、クラス内は静まり返っている。さすが、彼女の教育の賜物だと感動さえ覚えてしまった。
要するにこれから、8月28日に学園全体を挙げて行われる体育祭のクラス代表『役員』を決めようというのだ。
この役職はその名のとおり、中高それぞれのクラスから競技に出場する選手を決める際の司会進行役を務めたり、大会運営についての会議にクラス代表として出席したり、挙句の果てに当日の会場整備や道具等の準備・片付けなど、いわゆる雑用全般を任される役どころである。
こんなもの、一体誰がやりたいというのだろうか。誰がやっても途中で挫折してしまいそうなこの業務を、最後まで完璧にこなせる人種はあまりいないと思われる。
「まーぁ当然、やりてぇ奴なんている訳ねえよな? 居たら居たで気色悪いけど」
担任が言ってよい台詞ではない気もするが、いちクラスを抱えた教師でさえそう思うのだ。まだ精神面であどけなさの残る高校生たちがそう思っていないはずがない。
――ということで、結局はくじ引きが敢行された。結果は
大きな行事の役員は、大抵男女でやるものだと決まっているが、一人目の普段内向的な少女が「女の子とじゃなかったらやりません」と強気な抵抗を見せたお蔭で、二人目として決まっていた男子が急きょ推薦で阿室という女子に変わったのだ。その彼が可哀想でならない。
「全く、これだからガキぁ嫌いなんだよ……」
なんて言っていた担任も、終極的には早めに決まったことに安堵していた。
「あーぁ、次が長えなぁ……わたしは寝るから、役員よろしくぅ」
次に、各種目の競技に参加するクラス代表を決める会議が始まった。司会進行役は、前述のとおり先ほど決まったクラス代表役員の二人だ。
そのスタイルは至極単純に、競技の名前を挙げてそれに参加したい者が、挙手をするだけ。競技種目の量から見て、恐らくはクラス全員参加のはずだ。
つまり俺も、本番には何かしらの競技に出場しなければならない。
正直面倒だけど、そもそも以前は残りものを押し付けられる形でしか競技に出場したことがなかったので、自ら決められるチャンスはむしろありがたい。特に出場してみたいと思うものは今のところないけど、クラスの一員だと実感できるものが望ましい。
「――次は……『男女二人三脚』です。来年から男女別になるそうなので、男女が一緒に走るのは今年が最後になります。……では、出場したい人は挙手してくださいっ」
キュートな笑顔と詳細な説明ののち、阿室は挙手を促した。
この現代に、男子と女子が一緒に走る二人三脚が催されているというのは、かなり由々しき問題だと思われる。いや、それは観念的な意見であって本心ではないけど、高校生の男女が共に二人三脚をする光景はあまり想像したくない。何か間違いがあってもおかしくないだろう。
それにこの競技の場合、選手決めは多分出来レースだ。俺はクラス内の関係図を全くと言って差し支えない程知らないので断言はできないけど、現在交際中の男女があらかじめ「俺たち二人三脚出るから」と予告しておけば、容易く選手として競技に出場することができる。普段から担任への戦略的被支配、もとい弁えを理解しているこのクラスの生徒ならば、そういった申告を快く受け入れてくれるだろう。
だから俺は、ないとは思うけど玉入れみたいに地味な競技を選んで、
「じゃあえっと、男子は……楠森くんで決定ねっ」
「あとは女子だけど――あれ、郷さんやるの?」
「――はぁ……?」
「――ふぇ……?」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「はっ、はっ、うっ……!」
「はぁ、ぁ、ふうぅ……!」
乱れる息、震える肩、迸る汗。
やはりこの行為は羞恥心と疲労感が凄まじく、俺と愛理の体力はすでに限界値に達していた。それでもなお、ゴールが見えるまで継続する。
二人で息を合わせ、ペアの自覚を持ちながら、一心不乱に身体を使った。まだ2時間しか経過していないけど、やはり初体験なので双方ともに作法がわからず、余計に体力を消耗してしまう。こういうことは、何度も繰り返すことで身体が相手に馴染んでいくのだと自覚した。
「あっ、あの、楠森くん……ふぅっ、肩がちょっと……」
「手に力入りすぎたかな。何分初めてだから、ごめんね」
「いやっ……ふぅ、別に、怒ってないよ。はぁ……」
会話の中に時折、愛理の呼吸が混ざるから耳に悪い。妙に声や表情も婀娜っぽくて、そしてすぐ近くにいるからこそ変に意識してしまう。
最近になって格段に女子との交流が増えたけど、ここまで至近距離でふれあうことはまずなかった。男女の機微というものがあるだろうし、当然と言えば当然である。それでも今、自分の体温と愛理の体温が直接触れ合っているのを感じると、殊更に彼女のそれを求めてしまう。
双方が初めてだから、自分の身体を相手に委ねることができず、もどかしい気持ちが溢れそうになる。もはや初々しさなどかなぐり捨てて、精一杯の力で励むことができたなら、どれ程嬉しいのだろうか。
――午後17時。開始から3時間が経過した。
「き、今日はこれで終わろう……はぁ」
「そっ、そう、だね。うん……ふぅ」
「郷さん、ため息が語尾みたいになってるよ」
「そ、それはっ……! 楠森くんだって……」
本日のノルマを達成したことで得られる昂奮感、それに意識を支配された俺と愛理は柄にもなく甘い会話を繰り広げる。先ほどからずっとこの調子で、傍からだともはや不快だろうな。
俺と彼女が今までナニをしていたのか――当然、二人三脚の練習だ。
本来ならどこぞのカップルがやっていただろう行為を、恋愛感情が一切ない男女が代わりに行っている。字面的になんとなく優越感を覚える。
なぜ俺と愛理が二人三脚の選手になったのか……当事者の立場で言わせて貰うと、全く覚えていない。現に二人とも、最初は押し付けられたのだと思って納得がいかなかった。
しかし朝のホームルームが終わった段階で、愛理の代わりに俺が担任に訊ねたところ、
「よぉ、この色男。そんなに女を侍らせて、どうしたいってんだよ……えぇ?」
返答の真意はわからなかったけど、選手決めの際に俺と愛理が揃って挙手した、というのが真相らしい。勿論、俺の記憶にはそんな事実など存在しないので、最初は耳を疑ったけど、結局は揺るぎようもない過去の出来事だった。
別に愛理と一緒に走るのが嫌ということはないけど、とにかく目立つのが嫌なのだ。
そうして、しばらく一人回想に耽っていると、愛理が、
「く、楠森くん。わたし、今日はもう帰るね……?」
「もう暗いし、お母さんとかに送迎頼んだほうがいいよ」
俺は愛理に親への連絡を勧めると、彼女は携帯を持っていないというので、俺はポケットに入っていたスマートフォンを彼女に差し出す。
「あー、なんか当たってるなって思ってたけど、これなんだ……」
「ああ、ごめん。次回からはロッカーに預けておくから」
「ありがとう……」
彼女は小さく微笑むと、俺の手から携帯を受け取って、少し向こうへ駆けて行く。そういう一つの小さな行動が女の子らしくて可愛いと気付くと、つい頬が緩んでしまう。
僅か1分後、こちらへポテポテと戻ってくると、はにかみながら携帯を返却された。
「あの、ホントに今日は……ありがとう」
「俺こそ、今日はありがとね。えっと、郷さんは……明日、空いてる?」
予定を聞くのが恥ずかしくて、俺が頬を掻きながら訊ねると、愛理は嬉しそうにぴょこんと跳ねる。
「あ、明日も、いいの……?」
「いいのかって……郷さんがいいなら、毎日お願いしたいよ。俺が言うのもなんだけど、俺も郷さんもまだ素人だし、本番でヘマやらかさない保証もないからね。ダメかな?」
「ううん、ううんっ! 明日も明後日もその先も、大丈夫だよっ」
愛理は激しく首を振ったあと、少し髪をセットし直しながら練習を了承してくれた。
俺と彼女は、本番の28日まで毎日練習することを約束して、それぞれ帰路についた。
ちなみにその練習場所は、いつぞやの『あの場所』だ。
「夏の終わりは、夜の涼風で風邪ひきそうだ……」
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