プチ習作シリーズ

衣谷一

落ちた子(120分:「翼の生えた少女」「屋上」「泥水」)

 つまりはいろんな経緯があったのだろうことはすぐに想像がついいたものだが、しかし学校の屋上に翼の生えた少女がいるというのは普通の出来事ではなかった。

 吉田だって午後の授業は退屈で仕方がないから、しかしクラスメイトと放課後の約束をしてしまった手前、一足先に街で遊び呆けているのも悪い思ってと屋上で暇つぶしをしようとしているのだから、同じようなことを考える人がいても別におかしいことではなかった。

 しかし、だ。

 屋上の、長い間雨風に晒されてザラザラな質感となっている地面に横たわることはないのではないか。目の前にベンチがあるのだから座って暇つぶしをしていればよいものを、どうして翼を広げてうつ伏せになっているのか。しかも翼は泥で汚れているし。

 常識で考えれば外れた子。声を変えても大丈夫なのかどうか。

 考えているうちに翼の子はガバリ体を起こしたのだった。

「ええ来ちゃったの、誰も来ないと思っていたのに」

「来たというか、あんた何者? その翼はいったい」

 白い、今は泥で汚れているが、その羽とは対象的な黒髪の女だった。一言で片付ければ田舎にいそうな感じだった。垢抜けない、今までずっと化粧したことありませんでした、って感じの顔だった。

「これは空を飛ぶためのものに決まっているじゃない。まあ、今は濡れちゃって汚れちゃってで乾かさないと飛べないけれど」

「そもそも翼を持っているような人間いないから、想像の世界だから」

「そりゃそうでしょう、ここの人じゃないもの私」

 翼の先から泥水が滴っていた。

「私はもっと高いところにあるところに住んでいるの。でもね、つまらない世界で、退屈で仕方がなくて、だから落ちてきちゃった」

 わざとらしくニコッと笑ってみせた女性だったが、目は全く笑っていなくて、むしろこらえているものがある雰囲気だった。いくら吉田が理解できない話が出てきても、本心で笑っていないことはすぐに分かった。

「いろいろ突っ込みたいところはたくさんあるけど、まずは名前を教えてくれよ」

「そうねえ、私の名前はここの人が言えるのかな。そうだ、これってなんていうの? あれかな、『つばさ』って言っているやつ?」

「そうだよ、翼だ」

「じゃあ私のことはツバサって呼んでよ」

 ツバサは立ち上がって吉田に近づこうとしたらしい。だがツバサの歩き方はひどいものだった。しこたま酒を飲んだサラリーマンよりもらしい千鳥足で、二、三歩歩くだけでも難儀しているのだ。最後にはもつれた足にもう一方の足を引っ掛けて倒れる始末。

 とっさに吉田はツバサの体を支えた。

「おいおい大丈夫かよ」

「ほら、私、翼があるでしょう。普段から歩くことをしていないからいざ歩こうとすると歩き方を忘れているのだよねえ」

「その理論はよく分からない」

 肩に伸ばしていた吉田の手首をツバサが掴んだ。

 その時に二人の視線が重なって、思いかけず見つめ合う格好となってしまった。自分のしたことを自覚した吉田の顔はゆでダコのように赤くなった。

「目を合わせただけで恥ずかしがるだなんて、吉田くんかわいいね」

「かわいいとか言うなし、というか、俺の名前教えてつもりないけど」

「いいじゃないいいじゃない。そうだ、こうやって腕組んでいるわけだし、遊びに連れて行ってよ。あれよあれ、歩行訓練ってつ」

「なんだよそれ、俺はこれからダチと遊ぶ約束が」

「お願い、今じゃなきゃだめなの」

  真剣だった。吉田を見る目も口を横一線にした口も、ノリノリで話をしている時とはまるで違っていた。

 これには吉田も気圧されて、「お、おう」と答えてしまうのだった。吉田自身、女性に誘われているからまんざらというわけでもなかった。男の熱い友情は、女性の誘いを前にはなんの障壁にもならなかった。

「ありがとう、私の王子様」

 ツバサのお礼の言葉はしかし吉田には聞こえていないのである。

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