ある王の死5
エルンチェア王国においても、春の息吹は確実に万民の感じるところとなっている。
冬の間は、まず目にすることのなかった日差しが、あえかながらも時折り差しこんで来、銀に染まった路肩や街角を淡く照らす。
日の光は雪に覆われた地面をほのかに温め、ゆるやかに川の流れのような雪解けの水を形作る。
まだ花が咲く声は聞こえずとも、水の音が春の到来を囁き、この国特有の寒白が、葉の彩りに深緑の筋を加え始める。
人々は沸き立っていた。
「イレーネ季おめでとう」
「今年も、無事にヴェレーネ季を乗り切れたなあ。
ユピテア大神に感謝を捧げよう」
喜びの声は、街中にあふれている。
雪は徐々に姿を消していき、路面の湿りもゆるゆると狭まっていきつつある。
風は暖気をはらんで、人々の髪をそよがせる。
もう一月待てば、市民達が渇望している雪下ろしの大祭が執り行われるのだった。
バロート王と王太子ジークシルトは、寄せられる報告を聞いて、長い冬の終わりを実感していた。
「やっと春か。
いよいよ、タンバー・ゲルトマの両峠について、考えねばならんな」
「はい、陛下。
つきましては、わたくしから陛下に対し奉り、お願いがございます」
「何か。
峠に関する事以外は聞かぬぞ、よいな」
「むろん。
タンバー峠は、雪解けまでいま少しの時間が必要と思われます。
例年通りであれば、イレーネ季二月になってから、雪が解け始めますゆえ。
神務庁における暦法役人の見解も、ほぼ例年に同じくとの傾向と見られる旨、報告が来ております」
「すなわち、タンバー峠は雪解けまでの猶予で、ブレステリスに何らかの働きかけをすべし。
こういうわけだな」
王は、鋭い洞察力を発揮した。
ジークシルトは頷いた。
いま急いだとしても、雪が道を塞いでいて、思い通りには通れないのだ。
この時間を使って、ブレステリスに交渉する。
決して焦りを見せない。
そこが重要だというジークシルトの考えを、父王は聞かずして理解しているらしい。
「交渉にあたっての当方より提示する条件、二つございます。
ひとつ。先の国境戦争にまつわる、東との軍事同盟締結は不問に付す。
これは通達済みです。
いまひとつ。クレスティルテどの殺害事件について、一切の責めを問わない。
あくまで、手を下したのはパトリアルスであると主張し、ブレステリスは単に巻き込まれただけ、被害者である旨を明示する」
「うむ、よかろう」
「クレスティルテどの殺害は、どのみちブレステリスは、大して働いておらぬ事でしょう。
強いて落ち度といえば、国から出してしまった事。拉致をみすみす見逃した点ですが、我がエルンチェアに直接の関わりなし。
よって、問責には及ばずと考えます」
「グライアスは、そうでもないようだがな」
バロートは、くっくと喉を鳴らした。
ジークシルトも苦笑した。
パトリアルスが悲劇の主人公として名を知られ、東では戯曲から歌謡、絵画に詩歌と、さまざまな題材にされている事を、彼ら親子はすでに知っている。
あらすじによれば、パトリアルスは実母殺害の濡れ衣を着せられた、真犯人はブレステリスの手の者だという。
もちろん、バロートもジークシルトも、信じていない。
「どうせ国内向けの宣伝であろう。
見方を変えれば、グライアスは国の奥深くにまでブレステリスに入り込まれた、警護が実に雑なる国と、自ら喧伝しているようなものなのだがな。
たとえ他国からそう見られても、国内の一致団結を図る方が重要だと考えたに違いない。
ジークシルト、そなたはどう見る」
「戦の再開を望むがゆえ、と考えます」
父の問いかけに、ジークシルトは厳しく微笑んだ。
敗戦の衝撃に打ちのめされ、とても戦争を続行という気分にはなれないはずの国民を、劇的な印象で持ち直させる目的といえば、他にはないと思われた。
バロートも小さくあごを引いた。
「同感だな。
国民にやる気を出させるのが、この際は最も肝要と考えたのだろうて。
付き合わされるこちらは、たまらぬ話だ」
「御意。
ときに、和睦の見込みはいかがでしょうか」
「予が突き付けた条件か。
何も返答してこない。
黙殺とは、つまりは戦を望むという意味よ」
「我らに勝てる気でいるのかと思うと、笑止千万ですな」
ジークシルトは失笑を禁じ得なかった。
敵塁の陥落後、停戦のおりに先方へ出した和睦の条件は、あまりにも厳しいものだった。
逆の立場で考えたら、確かに容易に服せるものではなかった。
当方は、突っぱねてくる事を想定して、より厳しい条件を出すという方向になっていたのだが、どうやら東も察していたと見える。
拒否したら、一挙に服属を要求される事を考え、徹底抗戦を選んだもの、ジークシルトはそう予測しており、恐らくは父もそうだろうと思っている。
「何度やっても、結果は同じだと思うのですが」
「そうは思わぬゆえ、戦う気になっておるのだろう。
まあよい。
やりたいなら、つきあって進ぜるまでの事。
ヴァルバラスとも、縁談を通じてよしみを結んでもおる。
前回は、ブレステリスに対して威嚇的な演習をしてくれたようだが、今回は思い切って出兵を促してもよいかもしれんな」
バロートは機嫌よく言った。
ジークシルトは、軽く「御意」とだけ答えてから
「そのヴァルバラスなのですが。
西峠は騒動が決着し、一応の落ち着きを見せた様子です。
かの国は、ヴェールトとは事を構えたいとは思っておらぬと、さる筋から聞き及んでおります」
「さる筋ではあるまい。
おまえの嫁だろう、その話の出どころは」
バロートは上機嫌のまま指摘し、息子の顔を赤らめさせた。
「まだ南に手を出すのは早い、そう言いたいのか」
「ご明察、恐れ入ります」
ジークシルトは、胸中で舌を巻いている。
妻ヴェリスティルテに依頼をされ、南に何らかの交渉を持ちかける、あるいは強気に出て薪の売却を優位にしようと試みる、こういった動きは好ましくない。王を諫める事になっていた。
難しい駆け引きになると、彼は内心で覚悟を決めていた。
一喝される、さらには手をあげられる。可能性は否定できなかった。
パトリアルスの一件で、食い下がった結果、したたかに頬を張り飛ばされた経験が、彼を慎重にさせていた。
だが、まだ南に手出しをしない方が良いとは、ほかならぬ彼自身の考えでもある。
情報も含めて、準備が足りないと思うのだ。
ヴェリスティルテの望みだから、というだけの理由ではない。
が、バロートは
「夫婦仲が睦まじいようで、何よりである」
笑って、息子をからかった。
ジークシルトの方は、冷や汗をかいている。
「ち、父上。
そういうわけではございませぬ」
「これ、執務室だ。
父はよせ」
「失礼しました、陛下」
「おまえでも、そんなにうろたえる事があるのだな。
面白い。
あれほどに女嫌いだったおまえがな。変われば変わるものよ」
王は、感慨深げに目を細めた。
かつて、股肱の臣であるつぁリース大剣将を捕まえて
「まさか
まじめに心配していた当時から見れば、いまのジークシルトは年齢相応で、女性の好みについてはやや首をかしげたくなる父親の心境ではあるが、取りも直さず女性に関心を見せているのは結構な話だった。
夫婦がうまくいっているのなら、後は
「そろそろ、世継ぎの顔を見せてはくれんか。
男児の誕生は、我がエルンチェア第八代王太子の誕生でもある。
盛大に祝いたい」
これだけが希望だった。
息子はいっそう赤くなった。
「ぎょ、御意」
「励めよ」
とんだ檄を飛ばされたものだった。
ジークシルトは、彼にすれば恐らく、これまでの人生で初めてといっていいだろう。まごついた。
バロートは大笑した。
「まあ、人の身であまり無粋を言い立てるのも宜しくないな。
すべてはユピテア大神のご意志に導かれるものだ。
それがこの世の決まりというもの。
おまえは、とんでもない不信心者だ。予はよく存じている。
しかし、この件ばかりは、我がエルンチェアの運命を左右する一大事なのだ。
嫌々申さず、諸神礼賛の儀において、精一杯の祈願をするように」
「は、はい」
「うろたえすぎだぞ。しっかりせよ。
ともかく、南の件は承知した。
部屋に戻ったら、嫁を安心させてやるがよい」
最後はさんざんにからかわれ、ジークシルトはほうほうの体で執務室を逃げ出した。
(父上にも困ったものだな。
なんでああ、面白がっておられるやら)
やれやれといった心境で、彼は廊下を歩きだした。
が。
即座に引き返す事になった。
「殿下ッ。
申し上げますッ。
ただちに陛下の御許へ参らせ給う。
陛下、ご不例にございますッ」
「何だとっ」
廊下に、凶報が轟いたのだった。
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