祖国のために6

 マクダレア囚われる。

 正確な一報が入るより早く、主だった東の指揮官達には察しがついた。


 グライアス右方隊の足並みが足並みが揃わなくなり、猛烈と言ってよい速さで壊乱してゆくのが、誰の目にも明らかだったのである。

 最も衝撃を受けた人物について、説明の必要は無いに違いない。


「だから言ったではないか。

 おれを殿軍しんがりにしておけば、こんな事にはならなんだものを」


 激昂のあまり落馬しかねないツィンレーだった。

 彼は塁内に撤収を終えていたが、傭兵が無秩序な有様で逃げ惑う様子を見て状況を察し、大いに荒れ狂ってひとり前線へ駆け戻ろうとした。


 慌てた左右が必死に止め、それだけは阻止したが、しかし上官の収まりはつかない。

 補佐役がそっと耳打ちの姿勢を取った。


 ぼそぼそと囁かれ、始めは苛立った表情をつくったツィンレーだったが、それは一瞬の事だった。

 急に顔色を変え、俄然、乗り気の態度に改まった。

 一通り聞き終えると、大きく頷く。


「よし、その案を容れる。

 直ちに準備せよ」

「は」


 副官の反応も迅速であった。

 マクダレアが敵の手中に落ちた事に対して、彼女を呼んだ本人としては、やはり忸怩たる思いを禁じ得なかったようだ。


 多分に罪滅ぼしの気持ちがあったと見え、司令官を無視して奔走を始めている。

 撤収は大騒動であり、門付近のごった返すさまは、たいそう凄まじい。


 西方は、勝利を確信しているのだろう。快調に進軍している。

 指揮をとるジークシルトも、三度めの出撃を敢行している。


 自軍へ戻って慌しく軽食をとり、すぐさま幕僚へ出撃を指令したのだ。

 幕営本部には最低人数だけを残し、ツァリース大剣将までも伴っての出撃である。


 もっとも、今回は悠然と軍の最後尾について来ている、という姿勢だった。

 勝敗の帰趨は決した。

 ジークシルトはそう考えている。

 東は中央と右方隊に相当な痛撃を被っているらしく、陣容も痛ましい程に崩れて、はっきり後退している。


 もはや塁内に立てこもり、一夜をやり過ごして明日に望みをつなぐ以外には、東は手を打てない。

 当然、ジークシルトには、敵に時間の余裕を与える積もりは毛頭無かった。

 目標は一つ。門が閉ざされるより早く、塁へ進入を果たす。


「全軍突撃。

 グライアス塁を占拠せよ」

 西方の兵士は早くも勝ち鬨をあげて、敵の塁へ殺到していく。



「予定通り、今日中に決着はつきそうだな」


 ジークシルトは、右に従うツァリース大剣将へ声をかけた。老将軍も若主君へ頷き返した。


「御意にございましょう。

 グライアスめ、己で墓穴を掘った模様。

 あの体たらくでは、立ち直れますまいて」


「ああ。

 つまらぬ小細工をせず、堂々と押してくればまだしもだっただろうに」


 小気味よさげに、ジークシルトは笑声をたてた。腹心ダオカルヤンは、左横で苦笑をもらした。

 そこへ


「敵襲ッ」

 鋭い警告の声が重なった。



 不意打ちだった。

 グライアス塁の方向から、黒い一団が砂塵を巻き上げつつ流れに逆らって突進してきたのだ。


 王太子を守る旗本隊の誰もが、その逆進してくる集団が何者なのか、敵襲の警告を受けていながらもとっさに判断し損なった。


 東の騎馬隊が奇襲をかけてきたのだと理解した時、彼らはエルンチェア軍総司令官とその幕僚集団へ斬り込んでいた。


「近衛、迎撃せよ。

 殿下の御身を守りまいらせい」


 ツァリース大剣将が血相を変えてどなった。

 ジークシルトも血相を変えた。


「無用っ」


 一言で却下すると、即座に柔剣を抜き放ち、自ら迎撃する姿勢をとった。

 大剣将は盛大に首を振った。


「若、なりませぬ。

 御自ら太刀をおとりになるなど。お下がりあそばせ」

「黙れ、ツァリース。

 おれに意見するなと、何度言えば判るっ」


 諫言を大喝で退け、たまたま目前に現れた若い敵剣士を睨み据える。


「わたしの首級をとれば、劣勢は覆せると思ったのか」

 グライアス剣士――いや、ツィンレーは無言で報いた。


 問答無用とばかりに斬りかかる。

 ジークシルトも応戦した。


 互いの放った一撃が激突し、金属音が各自の鼓膜を叩く。

 旗本隊は乱戦に突入した。


 これが、ツィンレーの補佐役が上司へ耳打ちした策だった。

 再三に渡って戦場へ足を運んだ王太子の気性からすれば、いざ追撃となった今、悠々と最後方に陣取って勝利の報告を待つとは思いにくい。


 進んで追撃戦に参加して、グライアス塁の陥落を見届けようとする可能性が高い。

 その混乱に乗じ、王太子部隊へ奇襲をかける。


 ツィンレーはこの案を受けて、臨時の騎馬隊を募ったのである。

 追撃と撤収で混乱の極みに達し、あちこちで集団がもみあっている、その合間を縫うようにして戦場を駆け抜けて来た。


 ジークシルトも、興奮している集団に紛れ込む愚を避けて、故意に最後方部隊からも少々距離をとっていた。

 それが、東の騎馬突撃隊にとっては幸いした。

 後方に控える整然とした一団が、王太子の直轄する旗本隊であるとは、まさに一目瞭然であった。


「ジークシルト殿下。

 御首級みしるし頂戴仕る」

 

 何度目かの斬り合いを経て叫ぶが早いか、ツィンレーは馬ごと体当たりして来た。

 大きく振りかぶり、柔剣を叩きつけるようにして、ジークシルトの頭上に攻撃を仕掛ける。渾身の一撃だった。


 が、それは攻撃目標にとって、恐怖に値する攻撃ではなかった。

 彼は微笑すると馬腹を軽く蹴り、すいと避けたのである。


「な、なにっ」


 ツィンレーはぼう然となった。

 可能な限りの迅速さで斬りかかったはずが、相手には笑うゆとりすらあったのだ。


 愛用の柔剣が空しく空を切るさまを、茫然自失寸前の表情で眺める羽目になっていた。

 ジークシルトは明瞭な笑声をたてた。


「どうした、それで終わりか」

「ぬう」


 鉄の鞭で打ち据えられたかのような痛みが、ツィンレーを襲った。

 彼はいっそう逆上し、突進と斬撃を繰り返した。


 その悉くが、しかし届かなかった。

 ジークシルトは、あるいは切っ先をかろやかに受け流し、またあるいは巧みに手綱をさばいて左右に身をかわしと、ツィンレーを翻弄したのである。


 ともすれば自信を失って鈍りがちになる戦闘意欲を、マクダレア奪還の希望でもって補い、執拗に敵王太子の首を狙う。


「ええい。これでもかぁっ」


 避けられて体が泳いだが、振り下ろした刀を強引に跳ね上げた。

 鋭い白刃が、ジークシルトの頚椎めがけて迫ってくる。


 だが、やはり不発に終わった。

 王太子は逃げなかった。逆に馬を前進させて、敵の身近へ踏み込み、弧を描くようにして太刀を振り下ろしたのである。


 ツィンレーの右手首が、ごきりと嫌な音をたてた。

 剣が草原に転がった。

 血が飛び散り、滴る。腕が垂れ下がり、自由は効かないと思われる。


「ほう、まだ諦めないのか。

 その意気は佳し」


 にも関わらず、敵の眼つきには明確な殺意が宿っているのを見て、感心したらしい。


「その闘志に免じて、選ばせて遣わす。

 我が手にかかって華々しく散るがよいか、潔く降伏するのが望みか。

 好きな方を言え」


 その途端、ツィンレーは負傷の痛みも忘れたように勢いよく身を乗り出して


「おれの望みは、殿下、あなたの首級をとる事だ」


 怒鳴った。

 ジークシルトは鞍上で大笑した。


 武器を取り落とし、予備も無さそうに見える。利き手は恐らく折れているだろう。それでも戦うと言い張る敵に、いっそ痛快さを覚えたのだろう。


「面白い男だ。

 で、どうやってわたしを討ち取る。

 喉笛に喰らいつくか」

「それがしをお弄りあそばすか」


 ツィンレーは、本気で噛みつきかねない形相である。

 呻いた彼の背後から


「引け、ツィンレー剣将」


 声がとんだ。

 誰何する暇も無かった。

 突然、ツィンレーの馬が派手にいなないて、駆け出したのだ。


 何が起こったのか、当人にも不明なまま、彼はあらぬ方向へと姿を消した。馬に連れ去られたといった体だった。


 引けと叫んだ人物が、問答無用で剣の切っ先を馬の尻に突き刺したのだ、と知ったのは、残された人々だけである。


 朋輩の悲壮な姿を見かねたらしい壮年剣士が、代わって王太子を討つ役を買って出た。

 ものも言わず、名乗りすらあげず、彼は突撃して来た。


 今なら討てる。そう確信したのであろう。

 だが。


 ジークシルトには、相手の計算に付き合う気は少しも無かった。

 ツィンレーが姿をくらましたとほぼ同時に、乗り馬へ一鞭をくれて、その場を離れたのだ。敵の動きを予期していたと見える。


 結果、ダオカルヤンが男を討った。


「大儀」


 腹心の手柄を簡単に労うと、彼は新たな相手を求めてすばやく四方を見渡した。

 しかし、敵と戦う機会には巡り合わなかった。


 東の塁門方向から、雄たけびと悲憤の響きが沸き上がったのだ。

 そのどよめきが、ジークシルトの動きを停止させた。


 むろん、死闘を演じていたグライアス突撃隊、エルンチェア旗本隊全員も、同様に手を止めて東へ視線を転じていた。


「おお――あれを見よ」


 誰かが叫んだ。

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