暗闘の夜6
朝が来た。
一晩の暗闘を終えたジークシルトは、体調に問題を残しながらも、確かな足取りで出仕した。
顔色は依然として青白く、どう見ても健康とは強弁し難い様相ではあった。やはり、後遺症を克服するには、時間が足りな過ぎたらしい。
彼はおう盛な食欲を発揮できず、父王に見咎められた。
「流感です」
「そなたがか。それは椿事だ」
バロートは、頑丈な長男の体調不良が相当に意外だったらしく、はっきりと目を瞠った。
その瞳のなかに、何かを疑う色があったかどうか。
ジークシルトは苦笑した。
「わたしも、風邪くらいひきます。
ここ数年は無かった事ゆえ、当人も驚いております。
大事は無いと思われます。御心配には及びませぬ」
「そなたがそう言うのならよいが」
父は無表情で息子の釈明を受け止めると、後は黙然と食事に励んだ。
クレスティルテは、申し訳程度に心配の表情を作った。
「体を冷やしてはならぬ。
夜は早く休むがよい」
「御高配ありがとう存じます、母上。そう致します」
ジークシルトもつらりと受け流し、澄まし顔で果汁水を口に含んだ。
謹慎中のパトリアルスが、この場に居合わせなかったのは、ジークシルトには有難かったであろう。
弟は、自分が看病するから屋敷に引き取るよう哀願して、兄の手を焼かせたに違いない。
三者三様の胸中が、それぞれの顔のしたでうずまいている。
バロートは、恒例の会議に先立って、老腹心ツァリース大剣将を執務室に呼んだ。
王は、参上した老腹心へ、硬い表情を見せていた。
「ジークシルトが、風邪を引いたと申しておる。
そなた、感づいておったか」
「若君が、お風邪を召されましたと」
ツァリースは、信じられないというように、目を見開いた。
「あの御健勝な若が。
臣の目には、そのような御兆候は映りませなんだ」
「さもあろう。
あれも困ったものだ。予の目が節穴だとでも思っておるのか。
あの様子。あれは、毒を飼われたのであろうよ」
「ど、毒」
老将は勢いよく腰を浮かせた。
バロートは、厳格な
「騒ぐな。
今朝の様子から察するに、大事あるまい。
生きておれば良いのだ」
「いったい、何者が」
「あのばか女の一派以外に、誰がある」
憎悪と軽蔑の二大悪感情が入り交じった険悪な声で、バロートは決めつけた。
「昨夜、典礼庁から王太子邸に薬師が派遣されたことが、記録によって判明しておる。
風邪を引いた者が、なぜ薬師を呼んで医師を呼ばぬ。
毒を飼われて、それを伏せようとしておるに相違あるまい。
ジークシルトめ、予を
そうそう容易く、出し抜かれたりはせぬ。
あれも、まだ若いわ」
王は低く喉を鳴らした。彼であれば、念を入れて医師も呼んだであろう。
王族の生活一切を取り仕切るのは典礼庁の役割であり、ラミュネス・ランドも、実父ともどもこちらに在籍している。
が、その彼らといえども、全てをジークシルト有利に計らうわけには行かなかった。
記録は、王の眼に止まっていたのだ。
ツァリースは、がっかりと肩を落とした。
この筆頭傅役には、我が子以上に情熱を注いで育てた若主君が、他の事なら万能と称して良い程、何事もそつなくこなせるというのに、弟にだけはからきし弱いのが、何とも残念なのだった。
珠に
「まこと、殿下の弟に対する御執着には、困じはてますな」
「いったい、何がそれ程に良くて、あの愚か者に肩入れするかな。
どうにも理解し難い。
よもやとは思うが、あやつ、衆道の気があるのではなかろうな」
バロートは大まじめに懸念を表明した。
ツァリースは、気の毒にもおろおろと取り乱した。
「しゅ、そ、それはあまりにもあまりな。
若君は、あの御年頃の男子にしては、女人に御関心をお向けになられませぬが、しかしその、まさかそんな」
「予も、我が嫡男に限ってとは思う。
だが、こればかりはな。余人には計れぬわ。
あれも、ヴァルバラスの姫と成婚を控えておる。
もし衆道の趣味に染まっておるなら、早めに直させねばならんな。
二、三人ばかり、麗妃を身繕ってあてがっておくか」
「はあ……さようでございますな」
「これ、ツァリース。
落ち着かぬか、そなたらしくもない」
「は」
大剣将は、何度も深呼吸を繰り返して、ようやく人心地着いたらしい。
首を振ってから
「改めまして、陛下。
麗妃については後刻の事と致しまして、きゃつらへの報復をいかがあそばしましょうか」
臣は、これ以上弟君が宮廷におわすのは、我がエルンチェアにとって宜しからずと考えまする」
「予に策はある」
ぎらりと、バロートの目が光った。
殺意と称するに足る剣呑な成分がふくまれていた。
バロート王もまた、クレスティルテとは異なる形ながらも、実子に対して抜き差しならぬ感情を、如何ともし難い人物だったのである。
先祖は旧帝国の主であり、創始に至っては
「剣聖帝」
との異称を奉られた武人だった。
その血を引く誇りと、強大な王権を一身に集中させる男は、常人の立つ位置から飛び抜けたところに身を置いていた。
でなければ、中央から遠い位置に国土を有し、天然の要害も無い平野を領地して、国民を従える施政者の道を歩み続ける苦行には、耐え切れぬであろう。
凡庸や円満といった、日常世界では不可欠な要素は、非日常的な世界においては役には立たない。
バロートも過酷な青春期を送り、しかも一国の最高責任者たる過重な地位に長くある。
彼は指導者であらねばならず、人格者であってはならなかった。
良き父にして優しい夫となる資格と権利を代償に、バロートは、政略結婚の効果を祖国にもたらす道具の立場を贖ったのである。
祖国の為に。
その酷烈さを持ってすれば、期待に応えぬ者を、血縁を理由とする愛情の対象から外す事くらい、造作もなかった。
外見だけが似ていて内面は似もつかぬ実子は、バロートには憎悪と失望の的でしかなかった。
あるいは、ジークシルトとパトリアルスの外見が入れ替わっていたなら。
長男こそが、外見内実ともに父の分身で、次男が母そのものの容貌であったとしたら。
バロートは次男の温厚さについて、こうも憎悪せずに居られたのかもしれない。
「あれは母似だ」
と、苦笑いしつつパトリアルスを認めたかもしれない。
不幸な事に、外見は、パトリアルスが彼の分身であった。
ジークシルトが母の容貌に酷薄な父の気性を備えて誕生し、恐らくはそれがゆえに母の忌避を被った。
同じ事が、パトリアルスの身にも起こっているのであろう。
第二王子にすれば、まことにもって理不尽な父の心情である。
だが、バロートは己の心境について、何ら不自然には思っていないのである。
王家に生まれた者が、王家にふさわしくないのなら、居てもらっては迷惑。乾いた思考が、王の内部にしっかりと根を張っている。
だがら、バロートは平然とこう言えるのだ。
「早急に、ジークシルトには麗妃をあてがえ。
そのうち、正室も来るのだ。幾らでも子は成せる。王位継承者をな。
パトリアルスはもう要らぬ。
ジークシルトの親征後、直ちに親王号を剥奪、臣籍へ蹴り込んでくれるわ。
何一つ、父の期待に応えられぬろくでなし、愛想はとうに尽き果てておる」
「親王殿下の御討伐を、お考えであらせられるか」
ツァリースは、武断王の非情な表情を注目した。
バロートは、何事もなさそうにに首肯した。
「あれを担いだ者どもが、親王の臣籍降下など認めるはずはない。
上手く煽れば、パトリアルスを象徴として必ず大同団結する。
そこを捉えて一挙に処断してくれよう」
バロートは、冷たく目を細めた。
「ジークシルトは、親征の勅許を求めた際、あれこれと理由を挙げて、パトリアルス同行を認めよと申し越して来た。
考えがあるのだろうが、あれの思考の基幹は、パトリアルスの助命にある。
これは、許さぬぞ」
「しかしながら、陛下。
若君が御納得あそばしましょうか。
こと弟君の為となれば、陛下に背き給いかねませぬ」
「言葉で却下する事は無い。
パトリアルスの出陣を、予が認めても妻が断じて認めぬて。
クレスティルテに、それとなく話を聞かせてやれば、あのばか女の事だ。
頼まずともパトリアルスを引き留めてくれよう」
「……御意」
ツァリースは、主君の策略を是とした。
地鳴りがする。
王都の中枢、エルンチェア宮廷の一角を震源とする激動は、今その第一が人々の足元につき上がりつつあった。
音も無く、だが確実に。
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