記憶の世界で

 シャワーを浴びて寝間着に着替えてしまう。医師の言うようにやはり丈は短くて。心労も多いが少しだけ解放された時間だった。しかし、追いかけたあの少年には、不気味で仕方がない。

 ぼんやりと一点を見つめていた。夕食はもうすぐ来るだろう。何もすることがないので、腹を減らすくらいしかなかった。つらつらと、考え、やがて、うとうと……

 

 知らぬ間に寝込んでいた、しっかり布団にもぐって。夕食はもう据えられていた、冷めた病院食であったが、眺めていると腹は減るので。

 小さなテーブルに乗せられた食事のほうへと向かおうと立ち上がる。

「ねえ」

 突然の声に私は驚き声をあげた。振り返る、のけぞり不覚にも悲鳴をあげてしまい。

 にやにやと笑っている。あの、素早すぎる作業服姿の少年。私と反比例するかのように、合っていない丈のせいで袖はだらりと垂れてしまっている。もうなにがなんだかわからないが、しかし、よくその姿であんなに素早く動けたものだ、と。

「ぼくがだれだかわかる」

 突然襲いかかったあまりに多くの情報のせいで驚異も通り越してなぜだか受けいれる以外なかった。

「知らないよ」

 またにやにやと。ずいぶんと馴れ馴れしいやろうだ。

「しっているはずだよ」

「知るわけないだろ」

 そう言い放ったはいいが、じっくりと見すえて考えてみる、しかし、まったく記憶にない、あるわけがないのだ。突然部屋を横切って、追いかけてみても大人の足で追いつかなかった、あの時がこの少年の最初の記憶である以外何ひとつ考えられるはずもない。

 にやにやにやにやと笑うだけだった。わずかに、首を左右に動かしておどけているようにすら見えた。あまりの明るさに巻きこまれそうになったが、しかしふと我に帰る、この見覚えのない少年が、とても不気味な存在に思えてならなくなった、とても、大きな、大きな、不気味。

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

 この世のものとは思えない感覚がする。

「君」

「ん。なに」

「君は、もしかして、その、この世のものじゃなくて、なんというか」

「ううん、僕は君だよ」

 はっ。どういうことだ、やっぱり、怖い。

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

 僕は君? 裏を返せばコイツは私だってことになる。なんなんだ、コイツ、幼いくせに狂っているのか。

「おい、君はまともじゃないんだよな」

「ちがうよ、まともだよ」

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

 なんなんだ、やっぱり怖すぎる。まともじゃないヤロウがじぶんのことをまともだなんて言っているのがイチバン怖いんだよ。

「どういう意味だ。君は私だ、なんて言っているわけではないんだろう」

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

「ちがうよ。そういったんだよ」

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。どういうことだ、もしかして狂ったのか、私のほうが狂っていて、わけのわからないものを見てしまっているのだろうか。

「おい、もしかして、君はここにはいないのかい……?」

「えへへへへへ」

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。どういうことだ、そういうことなのか。

「よくわかったね」

 はぁぁぁぁぁぁ……どういうことなんだ……とうとう私は狂ってしまったのか……

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

 ダメだ。コイツ以上に、私自身が怖いよ。もう、自分に自身がない……

「ねえ」

「……なんだよ」

「さっきの意味わかる」

「はっ、なにが。ああ、あれか、あれのことか」

「そうそう……」

「あれだろ。お前が私でってヤツ」

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

「おい、にやにやしてないでこたえてみろよ、あってんのか、まちがってんのか、どっちなんだよ」

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

「あってるよ……」

 にやにやにやにやにやにやにやにや……

「あってんだな。もう笑うなよ、にやにやしてんじゃねえ」

 うわぁぅ、急に無表情になりやがった、やっぱ怖ええ……

にやにやにやにやにやにやにやにや……

「もういいよ、ずっと笑っていろよ」

にやにやにやにやにやにやにやにや……

「はぁぁ、それより、意味わかるってしつもんだったな。もうわかってしまったよ」

にやにやにやにやにやにやにやにや……

「あれだろ、どうせ、私がもう狂ってしまっていて、お前が、私の作りあげた妄想だって言ってるんだろ」

にやにやにやにやにやにやにやにや……ピタ、

「おい、笑えよ」

にやにやにやにやにやにやにやにや……

「いいんだよ、それでいい」

「ちがうよ」

「はっ」

「ちがうよ、でもおしい」

にやにやにやにやにやにやにやにや……

「どういうことだよ、おしいってさ」

「だってね、ぼくを作りだしたのはきみだけれど、だけどそこにいるきみではないっていうことさ」

「はっ。ここにいない私がいて、お前を作りだしたっていうのか」

にやにやにやにやにやにやにやにや……ピタ、

「うん」

「どういうことだ。ここにいない私が作りだしたお前。ってことは、お前は誰かの妄想で、というかもうひとりの私の妄想で……はっ」

「ねえ、わかった」

「おい、もしかして、私は、妄想なのか」

「はははぁぁ」

「こたえろよ」

「ねえ、わかるでしょ」

「なにが」

「ぼくはね、作業服をきているよね」

「はぁ? だからどうしたってんだ」

「なんかみにおぼえがないの」

にやにやにやにやにやにやにやにや……

 身に覚えと言えば……コイツが今着ている作業服はあの工場のもので。ということは、どういうことだ……

「あああぁ」

「どうしたの、おおごえだして、もしかしたらきがついた」

「お前、その作業服、私が着用していたものじゃないか、ほら、よく見たら胸ポケットに『瀬下』と刺繍があるじゃないか」

にやにやにやにやにやにやにやにや……

「ようやく核心に気づいたね、僕は君が作り出した妄想で君だって君が作り出した妄想さ、君とはここに居ない君のことで始めから回想を続けている君なんだよね。ちょっと難しいし記憶がこんがらがってしまうかもしれないけれどすべてはここに居ない君が作りあげた記憶の中の世界だから作りものと言ってしまえばそうなるし、でもすべてが起こってしまった事実である以上はすべては本当なのだとも言えると思うし難しいところだよね、まあ難しいことは抜きにして一番大切なことは僕にも君にも命があるわけだし運命だってあるわけ…………

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