◆◆◆ Take Five ②

 俺と親父さんはカウンター席に並んで座り、マスターが淹れてくれたホットコーヒーを飲んでいる。

 もう一度言う。

 ここはバーだ。

 その証拠にマスターはさっきからひっきりなしにシェイカーを振っている。

 出来上がった美しい色のカクテルは、アルバイトらしいウェイターによってテーブル席の若いカップルの元へと運ばれていく。


 Take Five の看板の通り、店内に流れているのは誰もが一度は聞いたことがあるようなジャズナンバーだった。親父さんは時折目を細め、その心地よい音楽に耳を傾けている。

 俺ももちろんジャズは好きだし(危うく嫌いになりかけたが)、こういう雰囲気も嫌いじゃない。やはり親父さんくらいの年齢の人には、ロックなんてものは小うるさいだけなのかもしれないなんて思ってしまい、やりきれない気持ちになる。


 しかし、どうして親父さんは俺をここに連れて来たのだろう。

 

 マスターに俺を紹介したかった?

 いや、それは違うんじゃないのか、さすがに。


「……健次君」


 来たか? 本題か?


「はい」


 親父さんは意を決したような顔をして俺の名前を呼んだが、その後の言葉がなかなか出ないようで「あぁ、その……」と呟き、また黙ってしまった。


 何だ? どうしたんだ?

 何か言い難いことでも言う感じか?

 やっぱりウチの娘は~、みたいな?

 まぁ、有り得る話だわな。

 何ならここまでが順調すぎたんだ。

 一応俺だって2、3発は殴られんのかななんて覚悟はしてたんだけど。


「咲はね、『咲』なんて名前だけれども、その頃私達は北海道にいてね、その年は特に寒さが厳しかったもんだから、まぁ、蕾くらいはあったんだろうが、花なんか咲く気配もなかった」

「……はぁ」


 親父さんはカップに視線を落としてぽつぽつと語り始めた。話すのを躊躇っていた割には、何てことのない内容のように思えた。でも、恐らくここからへヴィな内容になっていくのだろう。

 そう思ってぐっと気持ちを引き締める。


「その頃の私は助教授だった。学内の派閥抗争ってものに負けた、というのかね、出世はかなり遅くなるだろうって言われててね。こういう仕事というのは、忙しさと報酬が必ずしも比例するわけではなくて、家内にも随分苦労をかけた」


 何、食うや食わずというわけではなかったんだが、と言って、親父さんは力なく笑った。


「そんな時に出来たのが咲だった。私はとてもじゃないが育児を手伝うなんてことは出来そうにもなかったし、正直、子どもというのも苦手だったから怖かったよ。普段相手にしているのは未成年だからまぁカテゴリ的には『子ども』なんだろうが、意思疎通は立派に図れるわけだ。言語によるコミュニケーションがとれる。これは大きい」

「そうですね」

「けれど、だからといって諦めてくれなんて言えるわけもない。命なんだから。しかしとにかく余裕がなかった。身重の家内の身体を労わることもろくにしなかった。私の頭の中はどうにか結果を出して何としても教授にならねばと、そればっかりだった。ただ、言い訳をさせてもらえば、それももちろん家族のためだったのだが」

「わかります」

「慣れない土地だったが、家内は立派に咲を産んだ。お互いの実家も頼れない状況だったんだが、隣近所に世話焼きのお婆さんがいてね、恥ずかしながらその人の厚意に甘えながら産褥期を乗り切ったよ」

「そうなんですね」

「私は、どうにか出産には間に合ったものの、咲の顔を見て、家内に労いの言葉をかけたらすぐに大学に戻らなければならなくてね。我が子は確かに可愛いと思ったし、妻には感謝してもしきれないくらいだったんだが、それをきちんと伝えられないまま、後ろ髪引かれる思いで病室を出たよ」


 そこで親父さんは小さくため息をついて残りのコーヒーを啜った。


「それから3日ほど家に戻れなくてね。徹夜明けでやっと帰宅すると、テーブルの上に出生届が置いてあったんだ。『不備が無ければ、出勤のついでに出して行ってください』なんて書き置きと共に。それには『咲』という名前が書いてあった。そっと隣の部屋を覗いてみると、同じ顔で寝てるんだよ、家内と咲が。その日もかなり冷え込んでいたからね、私はどうして『咲』なんて名前にしたのだろうと思った。まぁ、3月の終わりだからね、季節的にはおかしくはないわけだが」

「確かに、春ですからね」

「あぁ。でもその年の北海道はね、まだまだ冬が居座っているような寒さだったんだ。雪もかなり降っててね。――でもね、まぁ家内が決めたのだから、と思って、忘れないようにその届を鞄の中にしまおうとした時、咲が目を覚ました。泣いたりはせず、ただ、瞼が開いてしまった、というような感じだった。目が――合ったんだ。たまたま目を開いたら、私がいた、というだけかもしれないが。それで――これは、そんなことは有り得ない、と何度も言われるのだが――」


 親父さんはそこで再び口をつぐみ、鼻の頭をぽりぽりと掻いた。恐らくこれは彼の癖なのだろう。


「――笑ったんだ。まぁ、厳密には、そうってだけなんだがね。さすがに生後数日で笑うわけがないと誰からも言われるんだが、私にはそう見えた。もしかしたら寝不足から来る幻覚かもしれないが。でもね、その時に『あぁ、この子はだ』と思ったんだよ。何の花かはわからないが、ぱぁっと花が咲いた気がしたんだ」

「わかる気がします。彼女の笑顔は満開の花のようです」

「わかるかね。親の欲目かもしれないが、咲の笑顔は本当に良い。――まぁ、家内の次にだが」

「ご馳走様です」


 そろそろ俺はわかってきた。この人を。――この高町直矢という人を。

 咲の話だと『冗談も通じないような堅物』であり、『笑ったり泣いたりという人間らしい感情に乏しいロボットのような人物』らしいのだが、恐らく、ただひたすらに不器用なだけなのだ。

 本当の彼は、結構おしゃべりで、家族思いで、それで、かなりの愛妻家だ。


「それから先はね、何だか色々上手くいった。吹っ切れたってやつなのかもしれない。少しずつ良い方に良い方に回り出した。私の研究が認められて、東京コッチに来てくれないか、なんて有難い話もあってね。光が出来たのもその頃だ。希望の光だと思って、そのまま付けたんだ。花咲き、光溢る、そんな家庭をね、築かせてもらったよ、家内には。だから――」


 畜生、何だか良い話過ぎる。

 そう思って俺はほんの少し涙を堪えていた。


 すると、だ。


 親父さんはいきなり深く頭を下げたのだ。

 俺に。


「咲を幸せにしてやってくれ」


 少しだけ震えた声でそう言って。


「もちろんです。必ず」


 だから俺もそう返したさ、負けないくらいに声を震わせて。



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