第17話 天井
目が醒めた時視界に入ってきたのは、見たことのない天井だった。
白い天井だった。いくつものシミが見える。ひ、ふ、み、よ。無意識のうちに数えていたがそこで断念した。頭が痛いことに気づいたのだ。
そこでやっと自分が硬いベッドの上で仰向けに寝ていることに気づいた。
頭がずきずき痛むのを我慢しながら横を向く。水色のカーテンが降りており、視線を再び天井に戻すとカーテンレールが見えた。
そこでやっと、自分の左腕に点滴が繋がれていることに気づいた。
点滴が繋がれているということは結論は一つしかない。ここは病院だ。どこだかわからないが、自分は今どこかの病院で治療を受けている。
なんだ、そういうことか。私は納得し、安堵した。何かの拍子に私は頭を打ったのだ。そしてここに運び込まれた。さっきまでの、新王朝の成立などといったことは、全てきっと悪い夢なのだ……。
その時、カーテンがめくられ、長身の女性が姿を表した。年齢は三十歳に満たないほどと思った。コート型の白衣を着ており、髪は黒い長髪を後ろでポニーテールのようにまとめている。おそらく女医さんである。
「おはようございます。目が醒めましたか」ドクターは言った。
「ええ」私は起き上がりながら答えた「ありがとうございます。悪い夢をみていたようです」
「悪い夢ならいいのですがね」ドクターは表情も変えずに言った。
カーテンが再びめくられ、もうひとり入ってきた。私は失望した。
ああ、やはりあれは夢ではなかったわけか。
入ってきたのは赤縁の眼鏡を掛けた女性だった。私の記憶が正しければ、ぷちれもん先生その人である。彼女は恥ずかしげに俯いている。
絶句している私に、ドクターは話しかける「ここがどこであるかわかりますか?」
「いいえ」我に戻った私は答える「どこかの病院であることはわかります。丹生谷村…‥」私は一瞬言葉をつまらせた「……の病院ですか?」
「正解です」ドクターは言った「ここは丹生谷診療所。わたしは所長の上野原皐月です」
やはりである。私の抱いていた嫌な予感は的中した。私はやはりいま丹生谷にいるのである。
上野原先生はさらに尋ねる「どうやってここに来たか、覚えていないですか?」
「いいえ」私は頭を振った「まったく」
するとドクターはぷちれもん先生にアイコンタクトを送った。ぷちれもん先生はかぶりを振る。
はあ、とドクターはため息をついた「仕方ないですね、私が話しましょう」
「お願いします」
「ここが、阿波国の丹生谷であり、さきほど正統な皇位を宣言したことは覚えていますね」
残念ながらそれは覚えている。全ての元凶だ。
「そこであなたは左近衛中将を拝命しました」
それも嫌なことだが事実なのだ。覚えている。
「そしてその後、水澤さんはさきほど十二社神社で敵と戦いました。その折に、首を絞められ気絶した」
「なるほど!」私は声を上げた。道理で首も痛むわけである「名誉の戦傷を負って、ここへ運ばれたわけですね!」
だが上野原先生の私を見る目は冷たい。彼女は抑揚なく続けた。「違います」
「え?」
「あなたは首を絞められ気絶した後、一旦目を覚ましました。酸素が足りなかったのでしょう、あなたは耄碌としながら、あなたの命の恩人であるぷちれもん先生の生足に頬ずりを始めたのです」
全身から血の気が引くのがわかった。おずおずとぷちれもん先生の方を見る。何故か両手で顔を覆っている。
これは実にまずい。今私は東京政府に反逆している。そしてさらにセクハラをしており、せっかく得た官位を失う危機にある。セクハラによる失脚は流行りとはいえ乗りたくない流行だ。冷や汗が止まらない。
追い打ちをかけるように上野原先生は続ける。
「それを咎めたのはすぐそばにいた浅葱みどり殿下です。殿下の顔をみるとあなたは頬ずりをやめました。そして聞くところによれば『みどりたぁん』と言いながら殿下に抱きつこうとしたそうです。殿下は持っていた杖で思わずあなたの頭を殴ったそうです」
思ったよりも条件は悪かった。セクハラにセクハラを重ね、殴られ気絶していたのである。たしか彼女はあの時刀を持っていた。斬り殺さねなかっただけマシだろうか。
そのとき奥でキィ…とドアが開く音がした。
ぷちれもん先生と、上野原先生の後ろに、見知っている顔が見えた。
やはり先程と同じく法衣に身を包んでいる。彼女は私のベッドの方に歩み寄る。そばにいた二人は後ろに下る。
「みどりさん……」私は起き上がるとベッド脇まで来た彼女に視線をやる「ごめ……」
私がその時謝罪の言葉を言い終わることはなかった。
それより早く、彼女が思いっきり私の顔面に平手打ちを食らわせたのだ。
左の頬がヒリヒリとする。突然のことに戸惑いながらも。おずおずと彼女を見上げる。
彼女は呼吸が荒く、紅潮し、肩で呼吸している様に見えた。語気荒く彼女は言った。
「貴方はいったい、どういうつもりですか。わたしにあのように言ったのに! 嘘だったのですか!?」
そういった後俯いて、数度深呼吸した。そしてふたたび目を見開いて、続けた。
「……まあそれについて追求するのはいまはやめておきましょう。それよりもなんですか。間諜を取り逃がしておいて、自分だけ気を失っている、それでも近衛中将ですか」
そればかりは面目ないが、いきなり要職を任されても務められるわけではない。指名責任……任命というと丹生谷では任命権は主上にあり、日本国憲法下でも要職の任命は国家元首の職分であり、不敬であるためこう呼ぶ……はわたしを推薦した検非違使別当にもあるのではないか?
いやまて、そもそもこの顛末を、検非違使別当は知っているのだろうか?
「薫姐様には、まだ伝えていません。伝えれば、貴方を物理的にクビにするでしょうから」
全身がすくみ上がる思いがした。たしかに彼女なら、そうしかねない。
「いまはとにかく、貴方にも働いてもらいます。処罰するのは、その後です」
そこまで彼女が言った時、遠くから聞いたことのあるメロディが聞こえてきた。右を向くと、やや薄暗くなりつつある山々が見える。メロディは山々に木霊しつつエコーして聞こえたが、その旋律は理解できた。ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」第2楽章、もしくは「遠き山に日は落ちて」である。恐らくは防災無線から流れている。
「五時です」みどりさんは言った「夕刻が迫りつつある。いまから間諜を探すため、山狩りが始まります。日が長いので我々が有利です」
ならば私も汚名返上のために、とベッドから起き上がろうとしたが、彼女は制止した。
「兵部卿命令です。貴方は沙汰あるまで謹慎です。姐様には怪我の療養と伝えます」
そう言うと、彼女は踵を返し、病室から退室した。
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