8-2 反攻2

「……サミー。ちゃんと夕飯、食べてるかな……?」


 何だか息苦しくて、何か───何か吐き出してしまいたくて開いた唇は、全く現状に脈絡のない言葉を紡いでいた。

 僅かに首を巡らせて、エレがジェイの顔を覗き込んでくる。

「アンジェリカにサミーを預けてるのが、不安?」

 唐突に呟かれた意味もない言葉に、けれど全く不審そうな顔もせず、少年は微かに笑ってみせさえした。宥めるようにジェイの手を軽く叩くエレは、彼女の状態を完全に把握しているのだろう。


「嫌なものを見ることになるよ? それでも?」

 そう、最初にエレはジェイに忠告していたのだ。

 覚悟を決めていたつもりでいても───現実にはそう簡単に、ジェイがこの状況を受け入れられるものではないと、少年にはわかっていたのだろう。


 乗り込んだ後部座席のふたりの両サイドには、麻のスーツを着込んだ男達が座っている。彼らがドアを閉めた瞬間、ジェイは、思わずエレの腕を握りしめてしまった。

 その手を、未だ彼の腕から放せずにいるのだから、少年に彼女の気持ちがわからないはずはないのかもしれなかった。


 覚悟など、何の意味もない。

 自分で自分を律する、そんな次元の話ではなかったのだ。

 自分が怯えていることを、ジェイは、エレのぬくもりに縋る自分自身に思い知らされずにはいられなかったのである。


 小柄な子供ふたりを挟んで座る体格の良い男ふたり。そして、運転席と助手席を占める、やはり大柄な男達。セダンの車中にジェイとエレを囲んで座る男達は、彼らをこの密室に連れ込んで以来、ずっと沈黙を続けている。

 当然の話だ。

 彼らのいずれもが、言葉を発するために唇を動かすことはもとより、サングラスに隠された瞼が瞬くことすらもない。


 その呼吸はおろか、心臓も脳波も停止して、もはや二度と動くことはない。

 閉ざされた車内で自分達を取り囲んで座っているのは───四体の死体にほかならないと、ジェイは知っていたのである。



 ボルガ・ストリートの路地裏に蹲ったあの時。

 少年の冷たい言葉に、返る声はなかった。

 それでも、言葉を……声を発しないだけで、不規則な呼吸と共に声にならない呻きが、見えずとも、ジェイの肌に大気の震えとなって触れていた。

 周囲から伝わるその不穏な気配から庇うように、彼女の前に立ちはだかっているエレの、その気配だけを頼りにそろそろとジェイは顔を上げ、目を開けた。


 反射的に両手が口元を覆う。

 それでも唇を突いて迸った悲鳴が、押しつけられた自らの手に無様な響きとなってくぐもることだけは、どうしようもなかった。


 鮮血が、視界を占めていた。

 生々しい惨劇のその結末が、電灯の光の下に照らし出されていたのである。


 大量の血飛沫が、両際の建物の壁を彩っている。まさに激しい勢いでぶちまけられた、というに相応しい、それは様相だった。

 その前に、くずおれた男達が転がっていた。

 横たわる者。壁に叩きつけられ、その勢いに首を落とした状態のまま座り込んでいる者。そのいずれもが即死、というわけではないのは、短く早い息遣いに揺れる体躯からも明らかだった。

 時折、その体が痙攣する度に、ごぼり、と口元から不穏な水音が響く。

 しかし、その唇から吐き出される物はない。


 それ以前に、倒れ伏す男達のどこにも血の痕跡などありはしなかった。


 ───エレに、予め聞いてはいた。

「俺はニーオとは違って、アキのはそれほど強くない。だから、たいしたことは出来ないんだ。俺に出来るのは、本当に限定的なことだけなんだよ」

 そして今、実際にエレの言う「たいしたことは出来ない」状況を目の当たりにしたジェイは、その異様さに、生々しい惨状とは違う意味合いで戦慄せずにはいられなかった。


 ジェイが路地に追手を誘い出すのと同時に、エレが、潜んでいた建物の屋上から飛び降りざまに、追手の男達に襲いかかる。作戦自体は、そういう単純なものだった。

 そしてエレは、ジェイに説明した通りに事を運んだのだ。

 身を低くしたジェイの前に飛び降り、己が得物で追手の男達の首を……脳へと直結する急所を一瞬にして切り裂いたのである。

 その首筋から噴き出した夥しい血は、全て壁面に受け止められた。それをジェイはこうして眼前にしたのだ。


 しかし、ジェイの前に広がる惨状は───エレに聞いていたとはいえ───あまりにも異様な……不可思議なものだった。

 壁にぶちまけられた血は、しかし滴り落ちることもなく、まるでその場に張り付いたかのよう固定されていた。ヘモグロビンによる色素だけが壁に沁み込んで、すっかり気化してしまったかのように、液体としての血液が数分と経たずにその姿を変えていたのである。

 凝固したわけではない。いくらなんでも、こんなにも早く大量の血液が凝固するわけがない。


 地に降り立つなり投擲したエレの刃……低い位置から男達の首筋を狙って放たれた凶器は、確実にその柔らかな急所を切り裂き、その勢いによって彼らを弾き飛ばした。

 だから、頸動脈から噴き出した大量の血は、壁に叩きつけられた男達よりも高い位置にぶちまけられ、その持ち主の上に降り注ぐはずだった。

 しかし。

 叩きつけられた鮮血に染まる壁面の下。そこに転がる男達は、

 本来、血に塗れていなければおかしいスーツの、その襟元にすら赤の痕跡はなかった。

 それどころか、

 失血に蒼白になる顔色とは裏腹に、一見すれば男達の体に外傷はないように見える。

 その首筋にあるのは……ジェイの目に見えるのは、遠目に淡い燐の輝きだけだったのである。


 ゆらゆらと揺れる首を、それでもなんとか擡げた正面の男が、加害者である少年を見上げた。

 ごぼり、とその唇の狭間から音だけが零れる。

 裂けた頸動脈から溢れる血が、気道を塞いでいる、その音だ。

 切断箇所であり、同時に噴出口でもあるはずの損傷部を無理矢理に封じられた男達の、体の中で荒れ狂っている血の奔流の音だ。

 激痛に歪む焦点の合わない瞳が、しかし、驚愕とそれを上回る怨念の籠った……少なくとも、ジェイにはそうとしか言いようのない、恐ろしい眼差しを向けてくる。

「き、さ……ま……」

 切れ切れに地の底から沸き上がるような声は掠れ、怨嗟の響きによって大気を僅かに震わせた。

 ぞっと、身を縮こまらせたジェイの傍らに立つエレは、表情ひとつ変えずそれを見下ろしていた。

 男の壮絶な眼差しが、徐々にその力を失っていく。死の淵に引きずり込まれていく、その過程のように眼球が制御を失って、ゆらゆらと揺らぐ。

 がくり、と男達の頭が次々に落ちていく。───命が死へと落ちていくのを、我が身を支える力すら抜けて地面にへたり込んでしまいながら、呆然とジェイは眺めていた。


 風の中に立っているかのように。あるいは水の流れの中に立っているかのように。

 その耳に、肌に、そして頭の奥に───ジェイの傍らを、ジェイの中を、絶え間なく触れては流れ去っていくの気配を否応なく感じながら。


「俺に出来るのは、本当に限定的なことだけ。呪いで対象を穿ち、そのを奪うぐらいだ。アキのように、わけじゃない」

 作戦を説明するに当たって、エレはそう話してくれた。


 エレが放った刃によって切り裂かれた男達の体は、その傷口から刃に籠められた呪いちからに瞬く間に侵食される。物理的に破られた皮膚の内部から噴き出した血潮は、次の瞬間には、その体内に押し込められ、魔力のろいと共に本来の持ち主の内で奔流と化すのだ、と。

 その暴虐は、決して対象者を殺すためのものではない。

 簡単に、対象者を死なせたりはしない。死なせてしまっては、意味がないのだ。

 凶器と化した血流と共に、生と死の狭間に突き落とされた男達の内部から全てを魔力は、そして対象者が絶命するその前に、まだかろうじて生の領域に踏み止まっているうちに、その意志───自律性を奪う。

 そのためのなのだと、エレは説明した。


 それが、どういうことであるのか。ジェイは初めて直面する絶命の瞬間、その意味する現実を目撃することになったのである。


 毅然と立つエレと、へたり込んだままのジェイの周りで……四体の死体の周りで、やがて大気そのものが逆巻き始める。

 というジェイには、どこか覚えのある感覚。先程から彼女が感じている気配の流れが、ついにこの世界に影響を及ぼし始めたのだと、ぼんやりとジェイは思った。

 特異な形に大気を揺るがせ、力を織り込んでいくの、それは波動であり。人の目にさえ見えるほどに強大になっていくその力が引き起こす現象であることを、少年は予め教えてくれていた。


 まるで別世界の物のように籠って響くボルガ・ストリートの喧騒が、遠くから聞こえてくる。血に彩られた狭い路地を満たす静寂に、薄く薄く混ざり込んでくるようなそれを、聞くともなしに耳に入れながら、周りに転がる骸の沈黙に、ジェイは身を固くしたまま、ただ時を待つ。

 呆気なく命が失われた後の、現実味の無いその光景の中で、ただそれだけがジェイに出来る全てだった。

 己に宿ったモスキートのを躊躇いなく行使する少年と、少年の魔力に食われた屍の周りで、

 少年の放つ魔力が、男達へと届くその過程で変質していく世界の歪みを……本来なら見えないであろうそれを、『セオドア王子の呪い』の欠片を抱えたジェイの目は捉えていた。

 呪いが───魔力が、世界を侵食していくのを、ジェイは固唾を吞んで見つめていた。

 逆巻く

 魔力に呑まれ、世界が変化していくその過程が、ジェイには───人の眼球、それを処理する脳には、光として見えていたのである。


 そして。

 二度と動かないはずの死体が、ぴくり、と小さく身じろいだ。

 わかっていてもそれを目にした刹那、ジェイは悲鳴を呑み込まずにはいられなかった。


 ぎこちなく、まるで壊れた操り人形のように、ずるり、ずるり、と四肢が大地を這う。痛覚の無い者の無造作さで、生物のそれでは全く有り得ない動きを。ヒトのカタチをしているからこそ、尚更に不気味に見えるその存在を、身を固くしてジェイは見つめていた。

 ゆっくりと、四体の骸が、彼女の周りで立ち上がる。それは、ぞっとするような光景だった。


 死者の使役。人としての尊厳を踏み躙り、神のことわりを外れた外法。


 しかし、それを承認したのは確かにジェイ自身なのだ。

 ニーオを助け出すために。これからのジェイ自身を、自力救済するために。

 手段を選んでいられる立場ではない。

 そう自分に言い聞かせて、ジェイはエレがを行使するのを認めたのだ。


 ひとりの男が、のろのろと胸元から携帯端末を取り出した。

 未だゆっくりとした動きは、しかし、立ち上がった直後のそれに比べると随分と滑らかなものになってきていた。

 彼らの行動は、エレの支配下にある。しかし、エレがその行動の全てをいちいち制御する必要はないのだという。


「死の間際……生と死の狭間のその瞬間に、のろいを打ち込むわけだから。大雑把に言えば、しばらくはそれまでの記憶が、俺の意向に沿って、行動を選ぶ。一種の催眠術みたいなものだよ」

 ずいぶんと皮肉な文言で説明されたその言葉の通り、男が、携帯端末に向かって言葉を発した。

「───こちら、キャシディ。対象を確保した。現時点をもって、プランBに移行する」


 四人の男達に取り囲まれながら、ジェイはゆっくりと立ち上がった。

 がくがくと震える足を見かねて……あるいは最初から見越して、エレが手を貸してくれる。

 沈黙したまま、男達はそれを見下ろしている。

 否、サングラスの下の瞳は、決して自分達を見てなどいないだろう。

 ただ生前の記憶のままに───エレの意向に従いつつも───己のすべき行動をなぞっているに過ぎない。


 死んでいるのに。

 この世界の理から外れているのに。


 酸素が脳へと至らなければ、脳細胞はすぐに死滅する。血液の循環を司る心臓の制御も叶わなくなり、供給されない血液に、体細胞も次々に壊死する。

 それが、ジェイの知る常識だった。

 死後、どのくらい経ってから起こるものなのかは知らなくとも、その肉体に硬直が始まるものだということも。


 けれど、すでに骸と化した男達は、何時の間にやら生者のそれと全く変わらなくなった滑らかな動きで、自発的にエレとジェイを中心にフォーメーションを組んでいた。

 おそらくは生きていたら、そのまま同じことをしたのだろう。四方を囲み、犠牲者ジェイの逃亡を許さぬ態勢を固めて、歩きだす。

 そして、小柄なジェイとエレは、男達の強靭な体躯に隠されるように路地を出て、表通りに止められていたこのセダンに連行されたのである。



 男達は沈黙を続けている。

 当然だ。死んでいるのだから。


 しかし、同時にエレの支配下にあるとはいえ、彼らは彼らの規範で動いている。

 それが、恐ろしかった。

 絶命と共に魂───あるいは、そうと呼ばれるべきもの───を失った、ある意味別次元の存在となったはずの者達が、エレの意志と生前の己の記憶とに司られたによって、動いている。

 それは、世界の理から外れたものであるはずだ。

 人間の領域から外れたものであるはずだ。


 エレの支配下にあるとはいえ、この亡者達が突然、思いもよらない行動に……死者に相応しいに駆られたとしても、何ら不思議はない。

 駆られても、おかしくはない気がした。


 生きている人間も、それはそれで怖いものであるが。

 考えもつかない何かに変貌しそうな死者に周りを囲まれているという事態は、それとは違って対処の仕様もない恐ろしさを、本能的に感じさせずにはいられなかった。


 どこからともなく血の臭いに怯えるジェイに、エレは宥めるように笑顔を向けた。

「大丈夫。少なくとも俺達が戻るまで、アンジェリカは、サミーを泣かせるようなことは絶対にしないから」

 何か話していないと、忍び寄ってくる恐怖に呑み込まれてしまいそうな気がして、彼女が口を開いたのだと、きっとエレはわかっている。

 今は、その優しさに縋らずにはいられなかった。


 だから───返した言葉が直接の返答ではなかったのは、一種の現実逃避であると、ジェイにもわかっていたのだ。


「……と言うより、どうしてエレが彼女をそこまで信用出来るのかが、わからないのよ」

「別に、信用はしてないけどね」

 エレは肩を竦めた。


 標準サイズの黒いセダンの後部座席は、大柄な男に挟まれたふたりの子供にとっても決して快適な場所ではない。小柄な彼らだからこそ、互いに身を寄せ合うようにして座れているようなものだった。

 囁き合う声は、すぐ傍らの子供に届く。

 ───互いの不安も、互いへの気遣いも、遮るものなく伝わってしまう。


 それでも、エレは笑って言うのだ。


「アンジェリカは、まだニーオに死なれたら困るんだろうから。ニーオを助けに行く俺達の邪魔はしないし……サミーを傷つけて、ニーオの不興を買うつもりはないよ、きっと。

 だから……大丈夫」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る