7 玉座

 目を開けると、そこは謁見の間だった。

 純白の大理石がふんだんに使われた壁を、夥しい金の装飾が彩っている。寄木細工の床と銅板装飾の高い天井に挟まれた広い空間は、冷たい空気に満たされて静まり返っていた。シャンデリアが等間隔に並び、その光を煌かせながら降り注ぐ。

 正面のきざはしの上に据えられた玉座の後には、この宮殿の主のものである紋章───双頭の鷲が畏怖を払っていた。


 そして。

 人の気配のない壮麗な大広間を見下ろすように、玉座に腰を下ろしていたのは───

 何の変哲もない白いシャツと黒いスラックスで、堂々と足を組み、こちらを睥睨しているその姿は、煌びやかなこの場所に、けれど奇妙に溶け込んでいる。


 大広間の中央に立ち、正面からそれを見据える、眉間に皺を寄せた。

 不本意そうな表情を浮かべる仁尾に、玉座に座るうり二つの男は、面白そうに、にやりと笑った。

「よう」

「……アキ」

 苦々しげな仁尾の声に、アキと名乗る仁尾の虚像……彼の中に同化しているモスキートは、にやにやと笑みを深めた。


 この謁見の間は、アキが仁尾と相対する時に設定するの過去の記憶だ。

 ここではコルドゥーンに捕らえられたと、すでに仁尾も知っているのだが、それでもここは、アキにとってお気に入りの場所だということなのだろう。


 ───ここが一番、面白いものが長く見られた場所だからな。


 この宮殿では、キリスト教徒であるこの国の人間のみではなく、南西部のイスラム教徒、南東部のチベット仏教徒、北部のシャーマニズム信者やアニミズム信者などが盛んに出入りをしていたという。

 それが、どういう目的のもので、どのような思惑が交差していたのか知る由はないが、決して平穏なものばかりではなかったのは事実だろう。

 の言う『面白いもの』が、ろくでもないモノであることだけは確かだったからだ。

 アキのお気に入りのひとつに、この宮殿から眺めたという『血の日曜日事件』があるのだから、推して知るべしというものである。


 だが今は、そんな昔話のためにいるわけではない。

 対面するということは、現実において、仁尾が不覚を取ったということにほかならなかった。


「また、ドジを踏んだもんだよなあ」

 案の定、揶揄うようにアキが言った。

「現実のテメエは、セイングラディード島とやらに運び込まれている。内臓破裂の瀕死状態でな」

「……そうか」

「運び込んだのは、『セオドア王子の呪い』の機関の奴らだ。

 テメエを生かしておくつもりは最初からねえだろうが、あわよくば、ガキ共の行方を吐かせられねえかって思惑があったんだろうぜ」

「それだけではないだろう? 私に利用価値を見出すとしたら、それはトゥームセラの人間ではない」

「わかってんじゃねえか。

 しかし、ま、俺がちょいとばかり医療機械を騙してやってるから、おまえが快復しつつあるなんて、奴らは気付きもしねえだろう。

 連中の中に混じっているコルドゥーンも、不自然にテメエの傍に張り付いているわけにもいかねえだろうしな」

 面白そうに、アキが仁尾の顔で笑う。


 アキと完全に融合している仁尾の体は、たとえ四肢を引き千切られようと、さほど時間をかけずに再生する。瀕死の状態であったとしても、アキにその気がない限りは決して死ぬことはない。

 この体は、仁尾の物であると同時に、アキの物でもあるからだ。


「予期せずあっさりモスキートの本拠地に潜り込めちまったが、どうするよ? 相棒」

「………」


 本来なら、セイングラディード島への侵入路を見つけ出し、次のサクリファイスが来るまで休眠して波動を全く止めているモスキートの、その憑代が安置されている場所の見当をつけてから、侵入するはずだった。

 準備もなく内部に連れ込まれて、見当も何もない状態で隠されているであろうモスキートの潜む宝物ほうもつをこの島全域から探し出すのは、容易ではない。

 ましてやそれは、トゥームセラという国家の重要な機密だ。この島に常駐する守衛……国の秘密機関の人間の数も質も決して侮れないものであるのは、明白だった。


 彼らを皆殺しにしてからモスキートを探す、という選択は、最初から除外されている。

 いかに憑代の中で休眠していようとも、食い尽くすサクリファイスの波動が無かろうとも───すぐ傍で次々と絶命していく生き物の気配に、モスキートが目覚めないはずがない。

 こちらへと攻撃を仕掛けてくるのならばまだしも、逃げ去られてしまっては元も子もない。

 モスキートが目覚める時、その前に仁尾が立ちはだかっていなければ、意味はないのである。


「……斥候は出しているのか? アキ」

「まあな」

 仁尾のが戻るまで、この悪霊がぼんやりと時間を潰しているわけがなかった。

 今もの力の一部が、休眠中のモスキートの琴線に触れぬほどに薄められて、島中に広げられているのだろう。

「だが、休眠中のモスキートときたら、そこらの石っころ同然に気配がねえ。よくわかってるだろうがな。

 俺に調べられるのは、ここの状態と敵の人員配置ぐらいのもんだ。……見るか?」

「ああ」


 仁尾の返答と共に、突然、闇が降りた。

 彼らが対峙していた謁見の間が消える。

 そして一瞬のうちに、彼らの周りを凄まじいスピードで光と色彩が駆け抜けていった。

 そのひとつひとつを視認することも出来ないような激流を、しかし、仁尾は確実に見分けていく。

 最初に彼らの前に現れたのは、医療機械に繋がれた彼自身の体であることを、仁尾はもちろん見て取っている。

 そしてベッドに横たわる仁尾を中心に、波紋のように三百六十度突き進んでいく全ての状況を───この島の全領域を、一瞬にして仁尾は見渡していたのである。


 次の瞬間、彼らは再び謁見の間に対峙していた。

「駐在人数は、三百人に満たないか……。思ったより多くはないな」

 仁尾の呟きに、うり二つの男が肩を竦める。

「この島への侵入は、海か、陸地との間に唯一架けられた橋しかねえわけだからな。

 守りを立てる配置が限られているうえに、要のサクリファイスが揃っていねえ。

 まだこんなもんだろうぜ」

「まだ、か……。コルドゥーンは、ひとりだけだったな」

「だいぶ古い時点で、この機関に入り込んだ野郎だろう。味方側じゃあなさそうだな」

 仁尾も頷いた。

「特に警備が厳重だという部屋もなかった。片っ端から調べていくしか、方法はなさそうだが……」

「ああ。

 その前に、テメエの身柄を手に入れてえ野郎が動き出しちまうだろうぜ。手詰まりだな?」

 にやにや、とアキが両手を挙げてみせる。そして、片目を閉じた。

「まあ、あの坊主がテメエに関することで手を拱いているわきゃあないわな。

 さすがにテメエに俺にゃあ見えねえが、何かしら動いている気配は感じるぜ?

 ……ふむ。坊主があの嬢ちゃんを丸め込んじまえれば、一番ラクなんだが。

 今なら、あいつも腹を括るかな?」

「アキ」

 険しい顔で、仁尾は口を開いた。

「おまえ、またエレに余計な事を言ったな?」

「別に、余計な事を言った覚えはねえな。

 せいぜい、単なる、事実ぐらいだ」

 わざわざ文節を区切ってまで強調された言葉に、仁尾は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 調子に乗ったように、にんまりとアキが口角を上げた。

「健気なもんじゃねえか。あの子供は、おまえが地獄に落ちるのだけはどうしても我慢が出来ないんだとよ」

「アキ」

「あいつは、ニイオには言わねえよって言った俺の言葉を、表面上は信じたふりをしてるけどよ。本当のところは、どうだかわかんねえよな。

 サクリファイスだったあの坊主にとっちゃ、俺だって奴の天敵であるモスキートに違いはないんだしな」

「………」

「まあ実際、こうしてテメエにべらべら密告チクっちまってるわけだが。

 案外、それも坊主には織り込み済みなんじゃねえ?

 テメエが全てのモスキートを食い終わる前に、テメエがする前に、今まで封印してきたモスキートごと俺を自分の体に乗り移らせる……全て継承するって、俺の口からテメエに聞かせようって腹ぐらいはありそうだ。

 まったく、えらく遠回しな宣言だよな?」


 アキが面白そうに、エレとの密談の内容を語るようになったのは、一年ほど前からだった。

 初めて聞かされた時は、全くの不意打ちに、仁尾は唖然とせざるを得なかったものである。


 仁尾の一部をされて生き延びたエレは、つまり、アキに対する拒絶反応を持たない。


 だから。


 この身をくれてやるから、代わりにニーオを解放しろ、と。

 少年に持ちかけられたと、アキがそれはそれは楽しそうに報告するのを、仁尾は言葉もなく見つめるしかなかったのである。


 エレが何を思ってそんな取引を持ちかけたか、わからないはずがなかった。

 だから───胸が詰まった。


 激痛と絶望に取り囲まれ責め苛まされた死への恐怖を、彼が未だ克服出来ていないのは、明らかだった。……人が、生き物が、そんなものを克服出来るわけがない。

 理不尽な、他人の思惑のみのために与えられた拷問が、抵抗する術も持たない子供にどれほど深く癒えない傷を負わせたのか。

 死の淵に指先一本でしがみついているような、そんな極限を、どうして顧みることなく忘れることが出来ようか。

 エレの内には、今も、あの頃の恐怖が息づいている。モスキートと混じり合う、その恐怖が息づいている。


 それでも。


「そんなことよりも、テメエが生きながら食い潰されて破滅することの方が、もっとずっと嫌なんだとよ」

 しかも面白がったアキが、そうなったらその時は仁尾を無傷で解放してやる、と確約したものだから、少年は考え直すという選択を完全に捨て去ってしまった。

 仁尾のための犠牲サクリファイスに、エレは自らを選んでしまったのだ。


 ───この一年、直接エレにその話をしたことはない。

 ただアキに叛意させないよう……エレを犠牲になどさせないよう、仁尾もまた密かに手をまわし続けている。

 水面下で互いに思惑を探り合いながら、けれど、互いに自らの意志を曲げるつもりがないことを感じながら、共にいる。


 共に、いる。


「別に、俺は構わないがな?

 おまえもあの坊主も、どちらも気に入ってる。連れ合いとしちゃ、どちらでも文句はねえぞ?」

「私はそんなつもりで、あいつを助け出したんじゃない」

「へえ?」

 唸るような仁尾の言葉に、にいっ、と笑みを作った。

「そうかあ?

 あの坊主がうまく適合すれば、おまえは晴れて自由の身になるんだぜ?

 坊主だって言ってたじゃねえか。もともと不可抗力で俺と共生する羽目になっただけで、おまえじゃなきゃ駄目ってわけじゃねえんだぜ?

 あいつに肩代わりさせたからって、誰が文句を言うよ?

 坊主自身だって、それを望んでるってえのに」

「アキ」

 きっぱりと、仁尾は言った。

「これは、私が負うべき責だ。ましてやエレは、ただ私への想いだけで身代わりになろうとしている。エレの罪ではないその責を、あいつに負わせる謂れはない」


「……本気で言ってやがるんだからなあ、おまえ」

 呆れたように、アキが首を振る。

「なあ。弱い者を守るってえ、テメエの信念は面白いけどよ。

 おまえだけが、この世で一番強いってわけでもねえだろうが? 本当に、おまえの責か?」

「では、言い方を変えよう。弱い者ではなく、大切な者だ」

 玉座の仁尾が、わざとらしく眉を上げる。

「サクリファイスにされるガキ共が?」

「子供達も───エレもだ」

 即答した後、うっすらと仁尾は微笑んだ。

「おまえは天使を、神に隷属する概念と言うが、私にとっては罪人を救う概念だと思っているよ」

「………」

「全ての子供に、そんな概念を押しつけるつもりはない。

 だが、今まで助けることが出来たあの子らの存在は、少なくとも私にとっては救いになっている。彼らは、私に僅かであれ罪を償えた喜びを与えてくれた」


 その背後に、助けることの出来なかった数多の子供達の影を見てしまうからなお、その存在は尊く、大切とくべつ存在ものと映る。

 だから。


 ───そんなに必死にならなくていいんだ、エレ。


 守るべき小さな子供そんざいだった少年は、時に揺らぎ、時に我が身の至らなさに焦燥を浮かべながら、それでも仁尾の傍から離れようとはしなかった。

 それが、どれだけ仁尾を救っているのか、きっと少年は気付いてもいないだろう。


 自分が正義などではないと、仁尾にはよくわかっていた。

 モスキートの所有者が、己の望みのためにサクリファイスを殺すように。

 自分もまた、サクリファイスを救いたいという望みのために、所有者達を殺すことさえ是とするのだ。

 罪滅ぼしという名のエゴ、幼い罪なき者を、自分のような罪深い者の贖罪の贄になど絶対にしてなるものかという、なけなしの矜持だけでモスキートを封印している自分は、根本的にモスキートの所有者達と何ら違いはない。

 己の望みだけのために、聖も邪も顧みはしない。

 その認識は、ずっと仁尾の中に在る。


 ただの自己満足。ただの偽善でしかない己の行為を唾棄したくなる瞬間が、どれだけあったか。


 けれど。傍らには、いつもエレがいた。


 ───あんたは、俺を救ってくれたんだから。

 そう言って、差し出されるぬくもりが、いつでも傍にあった。それがどれほど己を支えていたか。

 正義ではなくとも、誰かの救いにはなれた、と信じることが出来る。その赦しのようなぬくもりが、どれほど温かなものであるか。

 きっとエレは気付きもしない。


 だから、もういい。

 もう十分なんだ。


「……仕様がねえなあ」

 面倒くさそうに、アキが頭を掻く。もっとも、その口元は相変わらず弧を描いてはいたけれど。

「じゃあ、まあ。もちろん、いつでも逃げられるよう、準備は出来てるんだろうな?

 相棒?」



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