第2話 砂の城(2)

「貴殿らの信仰の篤さはよくわかりました。が、ここは信仰告白の場ではありませんのでそのあたりで。では――次はホッジズ伯爵のお話をうかがいましょう」


 カールステット侯爵に指名されたホッジズ伯爵は、折り目正しく上座へ会釈をしたが、夏至祭までの上機嫌さはすでに失われていた。


「先日もうかがいましたが、スペイギール様は総大司教位を正式にエウル=ヘリオスへ譲渡するおつもりなのですね?」


 喉を掠れさせながらも、スペイギールははっきりとうなずいた。


「そうだ。そして国王に和議を申しこむ」

「甘いですね。国王はヘリオスの血を絶やすことに躍起になっているのです。和議など受けるはずがありません」

「それは、ヘリオスが王家の地位を揺るがしかねないからだろう? たしかに、始祖の時代には我々は王座に即いていたし、総大司教位にあったときも国政への影響力は大きかったと聞いている。けれど……遺憾ながら、ヘリオスの血を継ぐのはおれと甥しか残っていない。今さら王権を揺るがすほどの力はない」

「そのような妄言をスペイギール様みずからがおっしゃるとは……。まったく、なんと嘆かわしい」


 ホッジズ伯爵は額に手を当て、大げさに落胆を表現した。彼は感情的に怒鳴り散らしはしない分、身振り手振りでおのれの意思を訴えることが多い。


「それで、カールステット侯爵はどのようにお考えで?」


 侯爵の冷静な双眸が、ホッジズ伯を見やる。


「先日も申しましたが、私は、スペイギール様のお考えにも一理あると思っております」

「それはいまだにお変わりなく?」

「変わりません」


 何度もくりかえされた問いに、侯爵は毅然とした姿勢を崩さない。


「国王軍が戦闘再開に向けて調整に入っているとの情報は、すでに掴んでいます。反対していた枢密院や議会の同意を、形なりとも得たのでしょう。となれば、軍費の目処も、ある程度立ったはず。長引く戦闘に疲弊していた兵も士気を回復したでしょうし、欠けていた装備も充填したにちがいありません。しかし、スペイギール様がご指摘なさったとおり、我らの財政は王のように芳しくない。おそらく、次の戦は我々にとって難しい戦いになる」

「それゆえ、侯はこちらから積極的に戦端を開く必要はない、とおっしゃりましたが、いずれにせよ国王がその気ならば、近々戦は始まります。干戈を交えるのは避けられません」

「私も伯のおっしゃるとおり、戦は避けられないと考えております。だが、我らは国王軍に敵う戦力も方策も得られていない。このまま正面からぶつかれば、一敗地に塗れるでしょう。だからこそ、スペイギール様の案は有効です。こちらから和議を提示すれば王宮に波風を立たせることができます。来春早々に戦端が開かれるのを、まずは回避できる」

「なるほど……、たしかに、それは一理ございます。ですが、ただの時間稼ぎにしかならないのでは?」

「夏まで長引かせれば、麦の収穫がある。さすがに、収穫時の畑を踏みにじるような愚行を王も犯しますまい。一年あれば、新たな一手も打てましょう」


「国王が和議に応じる可能性は?」


 スペイギールが横から口を挟んだ。上座を一瞥したホッジズ伯爵は、樽のような腹をなでながら嘆息した。


「あくまで和議の申し出は形のみ、宮廷に波紋を起こせればいいのです。我らが膝を折る道理はございません」


 スペイギールに好意的な侯爵も、渋面を浮かべて否定する。


「たしかに、宮廷には反戦派がいるのも事実です。しかし彼らは、ヘリオスと和解したいのではなく、軍事費を減らし税を軽くしたいだけです。ゆえに、王が軍費削減と減税に肯んじれば、反戦の理由もなくなります。もともと、ジャン=ジャック王は即位時にヘリオス殲滅を宣言したほどの執着ぶりですから、和議に応じるぐらいなら軍費削減を採るでしょう」

「……おれは、形だけの和平を望んでいるんじゃない。これ以上、命を落とす者を出したくないんだ。そのためなら、アストルクスや総大司教位を捨ててもいい」

「お言葉ですが、そのお考えは甘すぎます」


 ぴしゃりとホッジズ伯爵は言い放った。侯爵も同意見らしく、こればかりは取りつく島がない。


 その後も同様の応酬が続いたが、結局スペイギールの言葉に真剣に耳を傾ける者は現れず、夜が更けてから評議は散会した。支援者たちはぞろぞろと席を立ち、宛がわれた宿坊へ戻っていった。

 夕餉の時間はすでに回っているが、彼らはこれから厨房係を遠慮なくこき使うのだろう。参事会室でスペイギールを詰り、食堂で食い散らかせば、さぞ快いにちがいない。


 人々が立ち去る中、スペイギールは背もたれに身体を沈めたまま、しばらく動こうとしなかった。

 力なく落ちた肩と、うなだれたうなじが、蜜蝋の灯火に赤く染まる。その影は暗く、底のない闇の色をしている。

 壁際で立っているだけでもかなりの精神力が削られるのだから、一人で矢面に立つスペイギールの疲労は、エオルゼにはとても計り知れなかった。

 食事もエオルゼが用意しておいた夜食を休憩時に取っただけで、このまま部屋へ戻り寝入ってしまう。夕食を摂る気力も体力も残っていないのだ。

 強ばった足を軋ませながら、エオルゼは落胆するスペイギールへ近寄ろうとした。

 籠に干し果物を残してある。甘い物で一息ついて、寝る前に温かいりんご酒を飲めば、少しは心も安まるだろう。


「エオルゼ」


 突然名を呼ばれて、エオルゼは進めかけた足を止めた。

 ひそやかに嘆息してから、声のした方へ顔を向ける。

 想像どおり、視線の先には夏至祭のあとも滞在を続けているオーヘンがいた。赤銅色の髪はゆったりとひとつにまとめられ、整った面立ちはやわらかな笑みに綻んでいた。


「ずいぶんと白熱していましたね」


 甘やかな低音が鼓膜に響く。年頃の女なら浮かれるのだろうが、エオルゼの心は沈む一方だった。


 イエフ伯爵家の次男であるオーヘンは、継嗣ではない立場を生かしてか、ふらりとゲルツハルト修道院を訪れてはふらりと姿を消すのが得意だった。

 中立派で富饒なイエフ家に対し、ヘリオス家もカールステット侯爵も様々な交渉を試みてきたが、イエフ伯は頑としておのれの立場を変えようとしない。オーヘンも我が物顔で修道院に現れるわりには、実家とヘリオスの仲介役になる気はさらさらなく、情勢がきな臭くなるとどこかへ消えてしまうのも特技のひとつだ。

 イエフ伯本人や跡継ぎの長男とは、エオルゼは一度しか会ったことはない。

 重要な大祭である夏至祭でも、伯爵からはあいさつも書状もない。ただ、オーヘンが古くからの友人のような顔でやってきて、エオルゼにさくらんぼのパイを要求する。

 一方、イエフ伯が領内で産出する貴重な大理石を、アストルクスの大聖堂の改修のために寄進しているのを、四晶家は把握していた。

 バラ色の大理石は伯爵領の主な収入源だ。それを都へ献上する事実こそ、伯爵の本音だろう。

 にもかかわらず、オーヘンの出入りを許しているのは、裕福な隣人との繋がりを失いたくないからだ。

 国王派に囲まれているカールステット侯領において、イエフ伯領が国王軍の通行を拒んでいるのは、防衛上大きな意味を持つ。伯領との物資の行き来や人の流れも、侯爵領が陸の孤島とならないために肝要だ。


 つまり、たとえ腹の底がうかがえない厄介者でも、オーヘンはヘリオスにとって大切な客人だった。

 彼も自分の価値を充分理解しているので、ヘリオス当主がいる上座に平気な顔で寄ってきては、スペイギールに会釈のひとつもしない。その横柄さがエオルゼを憂鬱にさせる。


 足止めを食らったエオルゼを置いて、スペイギールたちは参事会室を出ていってしまった。

 回廊に繋がる扉が完全に閉まったのを見届けると、オーヘンはあからさまに嘆息した。


「スペイギール様も、突然何を言い出すのやら……。理念としてはご立派ですが、現実的ではないですね」


 オーヘンの肩越しに室内をうかがう。離れてはいるものの、まだ何人か残っている。

 彼と二人きりになるのは避けたかった。


「ご用件は? 特にないのでしたら、わたしは失礼させていただきます」

「つれないな。用事がなければ婚約者に話しかけてはいけないのですか?」

「正式に婚約した覚えはありません」

「まだ、ね。ですが、父の許可さえあれば私の妻になると、あなたも約束したはずです」


 眉根を寄せるエオルゼにオーヘンは気づかない。むしろ、形のいいくちびるに戸惑いの笑みを浮かべて、エオルゼの冷淡さを批難する。


「それにしても、三世代に渡りヘリオス家に仕えてきた者たちに対して、いきなり『戦争は嫌だからアストルクスは諦める』とは。若さゆえの無謀か、あるいは無邪気と言うべきか……。どちらにしろ、命を捧げてきた身としては、裏切りに等しいでしょう。やはり、アダール様のおそばで当主のふるまいをお教えすべきだったのではないでしょうか。いえ、今さら言っても詮無いことだと私も理解しています。ですがやはり、寒村で育った少年がいきなりこのような場に立たされても――」

「立ち話をする時間はありませんので、失礼させていただきます」


 こんな夜更けにオーヘンの無駄話につきあうほど、エオルゼも暇ではない。

 最低限のあいさつを済ませて足早に出口を目指す。


「夕食はまだでしょう? よかったら一緒にどうですか?」


 オーヘンの声が諦めずに追ってくる。


「遠慮します。あいにく、すでに済ませました」


 重厚な扉へ手を伸ばす。その手首を捕らえる気配に、エオルゼはとっさに腕を引いた。

 目標を失ったオーヘンの手は、扉の把手に蛇のようにまとわりついた。真鍮のそれはたやすく男の手中に隠される。

 目の前に立たれると、オーヘンの体躯はエオルゼには大きな障壁でしかなかった。

 絵画に描かれる英雄のようにうつくしい顔立ちであっても、剣を握る以上、肉体はたくましく鍛えられている。目線もエオルゼよりずっと高い。

 うろたえる彼女を、オーヘンは距離を詰めて見下ろした。

 近づいてきた灰色の双眸に、こくりと喉が鳴る。


「そういえば、夏至祭でさくらんぼのパイがありませんでしたね。楽しみにしていたのに残念です」

「……今年はさくらんぼが手に入らなかったので」


 視線をそらしてオーヘンの瞳から逃げる。

 香水をまとっているのだろうか、身近では聞いたことのない匂いがする。


「言ってくだされば用意したのに。糖蜜に漬けたものをなんとか手に入れますので、今度作ってくれませんか?」

「お断りします。とてもそんな時間は……」

「髪、伸びましたね」


 低く、つややかな響きだった。

 頬をかすめたぬくもりに、はっと顔を上げる。オーヘンはするりとエオルゼの髪を一房掬うと、感触をたしかめるように指の腹を滑らせた。


「っ」


 こみあげてきた嫌悪に、エオルゼの背中が粟立つ。

 素早く身を引くと、絡めとられていた髪は音もなく頬に落ちた。


「長い方がよく似合います」


 エオルゼの拒絶に気づいているのかいないのか――端正な笑みを浮かべる青年に、ますます嫌悪感が募る。

 勝手に女の髪を触るなんて非常識だ。なのに、オーヘンは悪びれた様子もなく微笑んでいる。

 ぞくり、と背筋が震えた。距離を置いたのに、まるでオーヘンにうなじを撫でられているようだった。


「エオルゼ、どうした?」


 そのとき、壁になっていたオーヘンの陰からダシュナが顔を出した。

 すぐに扉を塞いでいる男に気づいて眉間が険しくなる。

 突然の闖入者にオーヘンの顔からは笑顔が消えたものの、立ち去る気配は見られない。


「こんなところで何してるんだ。スペイギール様は部屋へ戻られたぞ」

「ごめんなさい。すぐ行くわ」


 オーヘンを押し退けるように外から扉が開かれる。その隙間にエオルゼはさっと飛びこんだ。

 すれちがいざま、「また明日」とささやく吐息が耳朶をかすめた。

 きつくくちびるを結ぶエオルゼの背後で、秘めごとを断つように扉が閉められる。

 いくら横柄なオーヘンでも、通行を制限されている大扉を突破してまでは追ってこない。ダシュナがいればなおさらだ。

 降りしきる雨音とひんやりとした闇に肩の力を抜いて、エオルゼはダシュナの背中を追った。

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