第16話 夏至祭(1)

 天球をゆっくりと駆ける太陽が、ようやく西の地平線への進路を辿りはじめるころ、野花で飾られた柱が男たちによって立てられる。

 赤らみだした空を貫くように柱は高く伸び、結んだ飾り布が爽やかな夕風にひらひらとはためく。

 村の広場には、夏至祭のために用意した楢の薪が積まれ、その周囲に人だかりができていた。

 皆、とっておきの一張羅で着飾り、女性は花冠を、男性は胸に若枝を飾っている。花が咲き乱れる夏至ならではの習慣だ。

 押しこめられた興奮が広場を圧迫する。

 くすくすとささめく女たちの声、支度の調った料理の匂い、たいまつを片手に耳を澄ませる男たちの熱気。

 日没を告げる修道院の鐘が鳴り響いた。

 それを合図に、待機していた男たちが薪に火を入れた。

 炎はみるみると薪の山を舐め、やがて大きな火柱となって低く唸りながら夕暮れの広場を照らし出す。

 黄金色の菩提樹の花が熱せられた空気に揺れて、甘やかな芳香が一段と香った。歓声が沸き、誰かが竪笛を吹くと、盛装に身を包んだ人々は焚き火を囲って踊り出した。

 竪琴がかき鳴らされ、シャン、と鈴が拍子を取る。歌い手の女が加わると、村人の気分もますます高揚していく。

 早くも熱狂の渦に飲みこまれた彼らの興奮は、茜色の空に雷鳴のように轟いた。


「今年も賑やかなことですな」


 礼拝を終えて晩餐の席に着いた、とある領主が、小言のように呟いた。

 隣席する司教は「そうですな」と、気にした様子もなく相づちを打つ。

 会食の場となった参事会室は、外の喧騒に反して厳かな静寂の中にあった。隣りあった者同士の会話は葉ずれの音のようで、村の歓声にときおり紛れてしまうほどに潜められている。


 上座に着いたスペイギールは、たまにカールステット侯爵やエングラー大司教の会話にうなずく以外は、黙りこくって咀嚼をこなしていた。

 重要な祭祀の晩餐なだけはあって、献立は新年祭に匹敵するほど豪華だ。

 小麦のパンはスープにわざわざ浸す必要がないぐらいにやわらかくて、添えたバターにはくるみや干しぶどうが練りこんであった。スープは牛骨と野菜を数時間煮こみ、ていねいに灰汁と脂を取った上品な一品だ。玉ねぎとチーズ入りのオムレツには、茹でたかぶが添えてある。食卓の中央には豚の丸焼きやパイが大皿に盛られ、客の求めに応じて給仕が切り分けていた。

 今日は麦酒ではなく、侯爵領の南端でしか生産できないぶどう酒が饗された。生まれて初めて口にする香辛料入りのぶどう酒は奇妙な味で、スペイギールの口には合わなかった。

 パイの中身もあいにく川魚で、ひき肉のパイは村へ足を運ばなければ食べられないようだ。

 祭だというのに、室内には気分を盛りあげる音楽もない。

 耳に届くのは、アストルクスの情勢、来春と予想されている開戦についての会話で、夏至祭らしい心躍る話題は誰の口にも上らない。


 あらかたの料理が客人の胃袋に収められ、三時間近くにおよぶ退屈な晩餐もようやく終わりが見えてくると、食後の菓子が用意された。

 旬の果物の蜜煮を包んだクレープや、スパイスと木の実を生地に混ぜこんだケーキ、鮮やかな色が美しいゼリー、口直しのチーズなどが食卓を飾る。

 目当てのドーナツを見つけたスペイギールの顔が、ぱっ、と輝いたのは一瞬のことで、ドーナツの皿は席から遠い場所に置かれてしまった。

 給仕に頼んで取ってもらうものの、気の利かない彼は品よく二個のドーナツを盛ってくれただけだった。もっとほしい、と頼む間もなく、皿は空になってしまう。

 スペイギールはむっすりとしながら、貴重なドーナツをジャムと一緒にちまちまと味わったが、当然ながら二個ではまったくたりない。山盛り食べるために、豚の丸焼きも川魚のパイもひかえたというのに。

 くそっ、と舌打ちしたのが聞こえたのか。

 ぶどう酒とチーズを嗜んでいた侯爵が、ふとスペイギールへ視線を向けた。


「どうかなさいましたか?」


 まずい、とスペイギールは神妙な態度を取る。


「いいえ、何でもありません」

「そうですか? どこか顔色が悪いような……」

「いえ――、っ……」


 不意に、スペイギールの顔がぐしゃりと歪んだ。

 手のひらで口を押さえ、苦しげに眉を寄せる。


「……すみません、ぶどう酒に酔ったみたいで……」

「それはいけない。すぐに水を用意させましょう」

「ありがとうございます。平気です」


 そう答えて背を伸ばそうとするものの、眩暈がするのか身体がふらりと揺れる。


「……調子に乗って飲みすぎたみたいです」

「身体が慣れていないせいでしょう。よい頃合いですし、お部屋に戻ってお休みになってはいかがですか」

「……はい、そうします……」


 侯爵は、すぐにセインとイグナーツを呼びつけた。

 駆けつけた彼らに支えられながら立ちあがり、簡潔に退席のあいさつを済ませると、スペイギールは覚束ない足どりで参事会室を辞した。


 回廊へ出ると、涼やかな宵の風が、酒と人いきれに熱った頬を撫でていった。

 すう、と深く息を吸えば、新鮮な空気が清水のように肺に浸みわたる。

 薄雲が棚引く瞑色めいしょくの東の空には、十六夜の月がぽっかりとうかんでいた。

 大きな館の影が近づくにつれて、スペイギールの足どりも少しずつしっかりとしてくる。

 やがて、扉まで十歩ほどを残したところで、スペイギールは借りていた従者の肩からみずから離れた。うん、と大きく背伸びをして、呆気としている二人に笑顔を向ける。


「じゃあ、そういうことで。二人ともお疲れさま」


 笑ったまま踵を返す。セインとイグナーツが事態を飲みこめずにいる隙に逃げきれば、こちらのものだ。

 素早く駆け出したスペイギールだったが、我に返ったセインによって襟首を捕まえられてしまった。反動で、うしろへひっくり返りそうになる。


「ぅわっ、危ないだろ! 何するんだよ!?」

「それはこっちの台詞です! 抜け出すために嘘をついたんですか!!」


 眉をつりあげた鬼の形相のセインが、大声でがなった。

 いまだにぼうっとしていたイグナーツは、その言葉にようやく合点がいったようだった。


「……ぶどう酒に酔ったのは嘘だったんですか」

「そうです! そもそも麦酒さえ苦手なギール様が、調子に乗って気分が悪くなるまでぶどう酒を飲むわけがないんですよ」

「いいだろ、別に。もう料理も終わってたし。ほらセイン、放せよ」

「主催のヘリオス当主が、まっさきに席を立っていいわけないでしょう。ったく、さっさと戻りますよ」


 セインの手を振りはらい、スペイギールはつんとそっぽを向く。


「いやだ、戻らない」

「は?」

「いいじゃん、もうあいさつも済ませたし。セインのあほ」

「誰があほですって? ほら、戻るったら戻る!」

「戻るもんか! セインのばーか!」

「どっちがばかだ、このばか当主!」

「……何をやってるの」


 思いがけない人の声に、はっ、と二人そろって振りむく。

 参事会室で食卓に着いているはずのエオルゼが、呆れ顔でイグナーツの隣に立っていた。


「姉さん、ギール様は嘘をついて晩餐を抜け出してきたんだ。どうせ、今から村に遊びに行く魂胆で……」

「うるさい。義務は果たしたんだからいいだろ」

「まだ終わってないのに、途中で抜け出してきたじゃないですか!」

「わかったわ、もういいから」


 エオルゼの制止に、セインは続く怒声を押し止めた。


「晩餐はもう終わったから大丈夫よ。皆、部屋へ戻られたわ。セインとイグナーツも自由になさい」

「姉さん、でも……」

「スペイギール様は、わたしが責任を持って部屋までお送りするわ。あなたたちも村へ遊びに行ってもいいし、部屋へ戻ってもいい。ただし、明日のお役目に支障が出ないようにね」


 二人は顔を見合わせて、無言で互いの意思を確認しあった。

 そもそも、四晶家当主であるエオルゼに、スペイギールの従者である二人は逆らえる立場にいない。


「それでは、私は部屋へ下がらせていただきます」


 イグナーツに続けて、セインがため息混じりに言う。


「おれも部屋へ戻ります。こんな時間から騒ぐ体力なんか残ってないよ」


 怒りが通りすぎ、脱力したセインの顔には、疲労が一気に噴き出したようだった。

 去年まではスペイギールとともに騒ぎながら夜を明かしていたが、従者としての役割とエルー家の跡継ぎとしての立場を兼ねなければならなかった今日は、かなりの心労が溜まったのだろう。

 イグナーツはもともと村との交流を持たないので、会食が終われば夏至祭も終わりだった。

 二人はスペイギールとエオルゼに就寝のあいさつをして、とぼとぼと自室へ引きあげていった。


「……エオルゼ、あの」

「今日だけですからね。二度は通用しませんよ」

「はい。ごめんなさい」


 エオルゼに反抗するつもりは毛頭ない。

 それを知っているのか、しおらしく頭を下げるスペイギールに、エオルゼは苦笑していた。


「村へ行くんでしょう? 邪魔はしません。けれど、一応お供させてください」


 それから、エオルゼは抱えていた籠の覆いを開いてみせた。

 中には油紙に包まれた両手いっぱいのドーナツと、黒スグリのジャムを詰めた瓶があった。


「これ……!」

「多分食べられないと思って、別にしておいたんです。よかったらこれもどうぞ」


 スペイギールの胸の奥から奔流がこみあげてきて、つんと鼻を熱くした。

 エオルゼはドーナツを作るという約束だけではなく、確実にスペイギールの口に入るように心を砕いてくれたのだ。彼女も夏至祭の支度で忙しい合間をぬって、わざわざ。


「……ありがとう、エオルゼ。すごくうれしい」


 涙がにじみそうだった。

 受けとった籠からは揚げた砂糖の香りがして、甘露のように甘くやさしくスペイギールに沁みていった。


「せっかくだから、向こうで一緒に食べよう」

「いいんですか?」

「うん。エオルゼが作ったんだから」


 二人は回廊をはずれて草地へ踏みだした。

 わずかに欠けた月影と、夏至を惜しむ残照に導かれながら、並んで木立を目指す。

 木々の重なりあう隙間からは、月よりも明るい炎の光が見え隠れして、林にひときわ濃い影を落としていた。

 去年、手のひら半分ほどだった身長の差は、すでに倍になっている。

 背が伸びれば伸びるほどエオルゼの顔はスペイギールから遠のいた。けれども、それは幼いころから夢見てきた視界だ。

 見上げるしかなかった彼女をようやく見下ろせるようになったのは、スペイギールのささやかな喜びだった。

 小川を渡ってから適当な場所を見繕い、木の根を椅子がわりにして二人は腰を下ろした。


「村で食べないんですか?」

「みんなに取られそうだから、ここにする」


 食い意地が張っていると勘ちがいしたのだろうか。エオルゼのくちびるの端に笑みがにじむ。

 エオルゼは数個取っただけで、あとはすべてスペイギールに譲ってくれた。

 指が汚れるのも厭わずにドーナツをひとつ摘み、黒スグリのジャムをたっぷりとつけて口に放りこむ。

 昔のままの、懐かしい味だった。また涙がにじみそうになって、スペイギールはあわてて次のドーナツを腹へ納めた。


 村へ抜ける道の先からは、宵風が賑々しい合奏や人々の歌声を二人のもとへ運んでくる。覚えのない旋律はこの地方の歌だろうか。

 陽気に拍子を取る鈴の音、情緒的に旋律を紡ぐ笛の音。

 緑煌めく夏の森を歌う人々の歌声はやむことなく、夜が深まれば深まるほど、祭はますます熱狂していく。


「そういえば、エオルゼは花冠はしないの?」


 ドーナツを平らげ、指を油紙で拭いながら、スペイギールは尋ねた。

 尽きることのない彼の食欲に感心していたエオルゼは、唐突な質問に首を横に振って否定した。


「わたしはエルー家の当主ですから、お祭に浮かれるわけにはいきません。それに、こんな格好ではおかしいでしょう?」


 詰め襟の上衣も細身の脚衣も、普段より華美な盛装だが、まぎれもない男物だ。


「祭のときぐらいスカートを履けばいいのに。せっかく髪も伸びてきたんだから……」


 ――きっと似合う。きっと誰よりも綺麗だ。


 そのとき、スペイギールの頭の中で名案がひらめいた。

 膝に広げていた油紙をくしゃりと丸めて立ちあがる。

「ちょっと待ってて」と言い置いておもむろに走り出すと、木立を抜けて村道へ飛び出し、一直線に焚き火の設けられた広場を目指した。


「わっ、スペイギール様じゃないか。晩餐会は終わったのかい?」

「パイあるよ。食べる?」

「ほらほら、こっち来て踊りな!」

「ごめん、またあとで!」


 村人の誘いを振りはらって素早く目的を果たすと、ふたたび木立へ駆け戻る。

 エオルゼはスペイギールが戻ったことに気づくと、息を切らす少年の顔を訝しげに見上げた。


「……どうしたんですか、それ?」


 息を整えながら、スペイギールはエオルゼの隣に腰を落とした。走ったせいで崩れてしまったところを簡単に整えてから、笑顔とともにそれを差し出す。


「お菓子のお礼」


 エオルゼの双眸が大きく見開かれた。丸く細い肩に静かな動揺が走る。

 スペイギールが村で調達してきたのは、夏至祭のために編まれた花冠だった。女性なら子どもから老人まで、全員が必ず身につけるものだ。

 なのに、エオルゼは目の前に現れた花冠に戸惑いを隠せずにいた。ずっと触れてこなかったのだと、スペイギールは思った。

 長いあいだ、彼女はエルー家のために男装に徹してきた。夏至祭の盛装や花冠は、ずっと他人事で、ずっと傍から見るだけだったのだ。

 白い野バラとヒナギクで編まれた花冠に視線が注がれる。

 栗色の睫毛の陰で、瞳が水面のようにゆらめいている。

 膝の上に置かれていた手が、ゆっくりと、おそるおそる持ちあがった。

 指先が葉に触れる前に、スペイギールからエオルゼの手のひらに花冠を載せた。彼女はまるで黄金の冠をあつかうかのように、そっと受けとった。


「……ありがとう、ございます」

「かぶってみてよ」

「え?」

「花冠はかぶるものだろ?」


 エオルゼはためらいつつ、促されるままに花冠を頭に飾った。

 スペイギールが予想したとおり、栗色の髪に白い花はよく映えた。楚々とした野バラの愛らしさも、エオルゼにぴったりだと思ったのだ。

 目論見どおり、野バラは彼女の清楚さをそのまま花咲かせたように、月明かりの下で匂い立つ。


「……こんなことをするのは、家を出て以来です」


 こぼれた髪を耳にかけながら、エオルゼはくしゃりと笑った。照れくさそうにする笑顔は一転して少女のようで、途端にスペイギールの胸がざわつきだした。

 恥じらいからほんのりと赤く染まる滑らかな頬。そこに影を落とす、濃やかな睫毛。

 普段、髪の下に隠れている耳朶の皮膚は青い血管が透けるほど薄くて、触れた瞬間に壊れてしまいそうだ。

 それでも触ってみたい――衝動が腹の底から芽を出し、スペイギールの理性をつつく。少しだけでいいから、指先に感じてみたい。


「ギール様?」

「えっ、何?」

「村へ行かなくてもいいんですか」

「あー……、うん。ここでいい」


 そうですか、とうなずいて、エオルゼはそれきり口を噤んだ。

 スペイギールはこっそりと手のひらの汗を服の裾で拭った。エオルゼが声をかけてくれなかったら危なかった。

 護衛としてついてきたエオルゼには、自分が夏至祭を楽しむという発想はないのだろう。

 始めは、スペイギールも一目散に広場へ駆けていって踊りに加わり、ごちそうに舌鼓を打ちながら村の祭を満喫する予定だった。

 けれども、今はこのかごやかな木立の中で、エオルゼとふたりきりで過ごす空間がいとおしい。花冠をした姿を、誰にも邪魔されずにいつまでも眺めていたい。

 スペイギールは膝を抱え、そこに頬を載せた姿勢でエオルゼを見つめた。エオルゼは手持ちぶさたにしていたが、思うがままにさせてくれた。

 相変わらず腹の中では醜い衝動が芽を伸ばそうと抗っていたが、うたたねに浸るような穏やかな時間にやがて勢いを削がれ、なりを潜めていった。


 いつからか広場の歌は止み、酒宴の喧噪へと移っている。

 まぶたを閉じれば、酒杯を乾す男たちの真っ赤な顔に、女たちの開けっぴろげな笑顔がまなうらに広がる。木立の上を風が渡り、眠りに就こうとしている木々がほぅとあくびのように枝葉をそよがせる。

 すぐそばに、エオルゼの気配がする。


「……眠いんですか?」

「ううん。大丈夫」


 このまま眠れたら幸せだが、眠ってしまったらもったいない。

 きっと、こんな機会は二度とないのだから。

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