9日目「怖がり」

 いつもよりも平和な夢を見た。

 悪夢には変わりないけど、ここ数日のと比べたらただ懐かしいだけの平坦な夢。

 どうしてこんなに過去を思い起こしてしまうのかは我が脳ながら分からない。日を跨ぐ毎に長い年月をかけて作ってきたダムが壊れていくのを感じる。これが決壊した時、私はどうなるんだろう。

 目を瞑りながら長い息を吐く。

 体が重い。感覚が怠い。どれだけ長い時間寝ていたんだろう。四肢は動かず、まるで金縛りの様に意識だけが身体から覚醒していた。

「……あ」

 口を開けてみると喉は乾燥しきっていて、唇を割るように動かしながら声を無理やり出してみる。

「麻里さん……? あぁ、良かった。起きたんですね」

 その小さな音に反応して彼女が駆け寄ってくる。

「……今、何時?」

「朝の六時です。多分麻里さんが考えている次の日の朝です」

「丸一日寝てたってこと?」

「何度か起きてましたけど、意識も朦朧って感じだったので、記憶はないと思います。大丈夫ですか? とりあえず水持ってきますね」

 私はベッドに張り付く背中を無理やり剥がして上体を起こす。節々が痛むが、起きてみると案外頭はすっきりとしていた。

「起きて大丈夫ですか?」

「うん。ありがと」

 彼女からコップを受取りゆっくり体に流し入れる。乾いたスポンジの様に体が喜んで吸収しているのが分かった。

「朝、早いんだね」

「ちょっと眠れなくて」

「ごめん。私のせいだよね」

「……まぁ、心配したのは本当なのでその謝罪は受け取っておきます」

 体を九十度回転させ、足を床に下ろす。右足の脛が痛み視線をやると青い痣が出来ていた。

「私……。昨日の朝、何かあった?」

 何か大切なことがあったような、なかったような。思い出そうとするとそれを拒むように側頭部がズキンと痛んだ。

「先生、少し寝ぼけてたんですよ。ただそれだけです」

「寝ぼけてた?」

「はい。私、朝ご飯作ろうとしたら卵がなくて、朝コンビニに買いに行ってたんです。それから帰ってきたら、麻里さんに話しかけられて」

「えっと……私、廊下に出た? なんか階段で……」

「いいえ」

 私の言葉に首を振る。

「そんなに寝ぼけてた訳じゃないですよ。ただ部屋で何かぶつぶつと言ってただけです。熱で夢見が悪かったんですかね」

 淡々と話すその顔が綺麗すぎて逆に何か引っかかる。まるで詐欺師の笑顔みたい。

「あ、でも麻里さん、もう一つありました!」

「……ん?」

「麻里さん寝ぼけながら私の名前呼んだんですよ」

「いつも呼んでるじゃん。莉緒ちゃんって」

「違います! 莉緒って! 呼び捨てで」

 興奮したように私ににじり寄り、ベッドに座る私を下から見上げる。

「せっかくなのでこれからは呼び捨てで行きましょう!」

「行きましょうってなに……」

「良いじゃないですか」

「嫌だよ恥ずかしい」

「今更じゃないですか。ほら。リピートアフターミー。りーお」

 生徒と距離感が近くなり過ぎないように呼び捨てはこれまで避けてきたから、人を呼び捨てにすることに抵抗がある。まぁ、ちゃんづけで呼んでる時点で距離もクソも無いけど。でも、やっぱり抵抗が……。

「えっと……」

「ほら! り、お」

「……莉緒」

「はい!」

 抵抗がある筈だった。しかし私の口からは案外するりとその名前が出る。既に何度か呼んだ後のような、初めてではない響きだった。本当に夢の中で私は口に出していたのかもしれない。それだったら心底恥ずかしい。

「じゃあ、朝ご飯にしましょうか」

 彼女は満足げにほくほくと私の元を離れ、背伸びをする。

 外はまだ雨。激しい風と雨粒が窓を叩いている。あとでテレビを見て知ったことだが、昨日の朝から関東には台風が直撃していた。


「麻里さん。もう一度名前を呼んでくれませんか?」

「……なんで?」

「ちょっと、勢いと言いますか」

「意味わからないんだけど……」

 莉緒は何故か緊張した面持ちで私の前に正座する。一体何か始まるというのだろうか。

 窓の外は激しい風。雨脚は弱まる気配はなく、買い物にも行けない。鈍色の空を見やってから、もう一度真面目な顔をする彼女を見ると、僅かに嫌な予感がした。

「ごめんなさい。本当はもっと早くにやっておかないといけなかったんですけど」

 部屋の隅に纏めてあった荷物の中から袋を取り出し、私の前に置く。それは数日前買い出しの時に彼女の袋の一つにあったホームセンターの袋だった。

「多分麻里さんがうなされてたのは、私が心配させたせいでもあると思うから……」

 彼女はぼそぼそと口籠るように独り言を放つ。

 チラチラと私を覗く目からは、罪悪感と緊張感が感じられた。

「何言ってるのか分からないよ。……莉緒」

「――!」

 名前を呼ぶとその表情も壊れ、明るくなる。そしてすぐに悲しい色に落ちる。

 莉緒は大きく深呼吸をして、口を開いた。

「本当は隠し通そうと思ってたんです。でも、少しずつバレちゃって。だからこれは名前を呼んでくれたお礼です。等価交換としての情報開示ってことで。……あと、私のせいで麻里さんが苦しむのは、嫌なので……」

 莉緒のせいで私が苦しむ。心配をしているのは事実だけど、苦しんではいない。それとも何だろうか。私が最近悪夢を見るのは莉緒のせいだというのだろうか。

「そんな、莉――」

 瞬間。窓の外が激しい光に包まれる。雷だと知覚する間もなく、私は咄嗟に目を瞑ってしまう。

「麻里さん。可愛いですね」

「な――」

 怖がってなどいないと言い訳するつもりで目を開いた。しかしそこにいたのはさっきまでの可愛らしい莉緒ではない。私の背中を凍らす鋭い視線を持つあの日の彼女だった。

 私は言いかけた文句を喉に引っ掛けたまま、その燃え盛る炎の目を見ている。

 その眼球に溺れる夢を見た。

 その眼球に焦がれる夢を見た。

 やはり私は彼女の命に惹かれていた。

「この間、私が深夜にキッチンで何をしていたか教えようと思って……」

 彼女の息は次第に荒くなっていく。

 一度にぃと口角を上げ、どこからともなくカッターナイフを取り出し、机の上に置く。学生が使うような一般的な物ではなく、シャープな形状をした銀色の物。機能性を重視した見た目のそれは、素人目でも切れ味が高いのだろうと予想が付く。

 ハァ ハァ ハァ

 一定の周期で息が漏れる音が聞こえる。あの夜に聞いた音と同じ。やはりあれは夢ではなかった。夢と現実の境界線が曖昧になってきている。…

 …あれ、まだ忘れている何かがあったはず。

 脳に綺麗な朝焼けが広がり、何かが浮上しかけるが、それは二度目の雷光に掻き消された。

 莉緒は机の上に置いてあったカッターナイフを右手に取り、カチカチと刃を出していく。

 頭が揺れた。

 ――。

 雨の音。

 ――。

 風の音。

 ――。

 息の音。

 ――。

 刃の音。

 すべてが頭を揺らす。

 気が付けば彼女の息遣いにも負けない程に私から漏れる音も大きくなっていく。これじゃまるで私が喘息患者だ。

 息が出来ずに苦しい。

 胸を膨らませても、胸を潰しても、肺に酸素が入っていかない。

 穴の開いた浮き輪に空気を入れていくような、虚しい音が聞こえる気がする。

 莉緒はその刃をゆっくりと手首に近づけた。その真白な肌に銀が近づく。

 でも変だ。彼女の肌はあの日の夜に見た通り絹のように美しい。カットの痕なんでどこにも見当たらない。彼女が何度もカットを行っているのなら、もっと醜く肌の色が変色していてもおかしくないのに。

 私の口からやめろという言葉は出なかった。

 極度の緊張で声が出せずに、私は彼女の肌に刃が近づいていく一部始終を見つめることしかできない。

 そして最後に。

 ガチャン。という音を立てて、剥き出しのカッターナイフは机の上に転がった。

 残るのは彼女と私の息の音。暫くそれらを鳴らし、ゆっくりと息を整えた莉緒は私に向かって情けない微笑を向ける。

「……ほら。……私はリストカットすら、できないんですよ」

 肩で息をしながらカッターの刃を戻す額には汗が滲んでいた。

「……なにそれ」

 彼女の行動やその理由、様々な疑問が掻き混ざり、的を得ない抽象的な疑問が口に出る。

「私は自分の体すら傷つけられない小心者なので、心配することは無いですよって言いたくて……。あとはこれです」

 莉緒はホームセンターの袋を開け、その中身をひとつづつ机の上に並べていく。

 カッターナイフにしっかりとした縄、業務用のガスライター。そして練炭。安直に考えられた自殺道具の数々が並んでいく光景に私は言葉を失う。

「流石にこれで本気で死のうとなんて思ってません。リスカだって人は死なないし、練炭も首吊りも苦しいだけでよく失敗するって聞きますもん」

「……じゃあ、なんで」

 なんでそんな物を持っている必要があるの。縄だって練炭だって見る限り、買ってから一度も触ってない。綺麗に巻かれた縄にはビニールの留め具が付いたままだし、練炭にも厚紙で包装がされている。

 ふと私の頭に希望がよぎった。もしかしてこの子は死という物に憧れるだけのただの思春期なのかもしれない。本当に死ぬ気なんてなくて、ファッションのように生き死にを考えるだけの子供なのかもしれない。

 しかし、私の質問に答える莉緒の声色に、そんな幻想は壊される。

「安心するんですよ」

 冷ややかな場所でほんのりと温かい場所に手を伸ばすような、切ない音。

「近くにあるだけで心が落ち着くんです。私はその気になればすぐにでも逝けるんだって思うと、怖くて怖くて。それが今日を生きる活力になるんです」

 それは大学で履修した授業に出てきた自傷患者の行動原理の一つに近しい物があった。

「リストカットって押さえられない衝動を逃がすための行為じゃないですか。昔調べたことがあるんです。傷口から血液が流れることで高まった心拍が落ち着くらしくて。血圧の低下に安らぎを感じるとか、なんとかって」

 莉緒は説明しながら自分の左手首をそっと右手の人差し指で撫でる。それを見下ろす彼女の目はその光景をどこか見下すような冷ややかさがあった。

「正直分かりません。だってそれってストレスを一時的に解消して、他の人達と同じ日常に戻るための行為じゃないですか。そんな、目の前だけを明るくするような逃げ道はいらない。……私にはできない」

 静かながらも強い口調で言葉を吐く。

 自分に言い聞かせているようにも見える言葉には強い熱がこもっていた。

「私にはそんな生き方出来ない。日常に溶け込むなんて怖くてできない。それだったらおかしなままでいいんです。私は必死に生きて、必死に生きて。生きて生きて、生きて生きて。そうして全力で死にたい」

 まるで初日の夜と同じだ。

 私には彼女の言葉が理解できない。莉緒が抱えている物を私が知らないからなのだろうか。それを知ればこの考えに頷けるのだろうか。それだったら私は彼女を知らないままでいいとまで思える。

「カッターを手首に当てると怖いんです。どんどん心拍数が上がって汗が滲んで。ただただ、怖いんです。でも、それでいい。だって怖いってことは生きてるってことじゃないですか」

 自身にストレスを与える為に行動を起こしているとでもいうのだろうか。

 結局は莉緒の行動だってその場しのぎの感情の処理じゃないか。

 やはり彼女の行動は自傷行為そのものだった。少数派ながら自分の無感情に恐怖しストレスを与えることで安息を得る行為者がいると、私の頭には残っている。大学の授業もあながち無駄ではない。

 そうして既存のケースで当てはめることで彼女を理解するのは間違っているのかもしれない。でも、私にはこれしかできない。

「自分の体に傷をつけたことはないの?」

「ないですよ。だって、大切な体ですもん。傷一つつけたくない」

 彼女は死に恐怖し過ぎている。何があったらそこまで深く考える時間があったのだろう。普通の人間が日々の生活の慌ただしさに考えることを放棄してしまっている本当の恐怖という物を、彼女はいつも抱いている。だから必死に生にしがみつく。

 あぁ、ようやく彼女が見えてきた。

 彼女の形が少しだけ、見えるようになった。

 だからもう、目の前の少女に恐怖は抱かない。私が彼女に恐怖を抱いたのは理解が及ばなかったから。

 誰だって得体の知れないものは怖い。それは彼女だって同じ。

 でも今なら私は、彼女に歩み寄れる。

「ごめんね。莉緒。私勘違いしてた」

「今更私がおかしな人だって、気づきました?」

「ちがうよ」

 私はそっと笑う。初対面の小さな子供と話すように、笑顔を浮かべて、私は怖い人間ではないと訴えるように、そっと口を開く。

「莉緒は死にたがってるんだと思ってた」

「――」

「ごめんね。私が間違ってた」

 彼女の目を見つめたまま言葉を続ける。

 ずっとおかしいと思っていたんだ。彼女の目は死を望んでいる色をしていない。それがようやく理解できた。

 彼女は単純で。多分どんな人間よりも正しい。純粋過ぎて、異端に見えるだけ。

「莉緒は必死に生きたがってるんだよね」

 莉緒は大きく目を見開く。

 その目は炎を灯していたが、その火に私が怯えることはもう無かった。

「死ぬのが怖くて、必死に生きようって。何もおかしな考えじゃないじゃん」

「――っ……」

 だから私は彼女を肯定する。ここに来てようやく、莉緒の味方になれる。

「私だって死ぬのは怖いよ? だから莉緒は何も間違ってない。方法が少しズレちゃってるだけ」

「……麻里さんは私の事を知らないだけですよ」

「莉緒が何を抱えているのかは知らない。……うん。今の私は何も知らない。だからね。知らない私の目には、莉緒はただの女の子に見える」

「…………麻里さんは、優しいですね」

「そう?」

「おかしいくらい優しいです……」

 莉緒は空気の抜けていく風船のように体を縮こませていく。

 だから私はそっと腕を広げた。「怖がり」の女の子に対して精一杯の優しさを見せる。

 こんな表現は間違っているかもしれないけれど、今の彼女にはそれでいい。難しいレッテルなんて彼女には張りたくない。単純に考えるだけでいい。クラスに一人はいる怖がりな少女。彼女はたったそれだけでいい。

「莉緒」

 名前を呼ぶと、彼女は顔を上げ、腕を広げる私に首を傾げる。

「おいで」

「そんな子供みたいな扱いしないでください」

 私は莉緒に微笑み、もう一度精一杯の優しさで彼女を呼ぶ。

「……なんでそんな」

 莉緒は私の行動に小さく不満を募らせながら、ゆっくりと私に近づく。

「麻里さんはやっぱり変です……。鈍感かと思えば、急に察しが良くなって」

 照れ隠しのように口から様々な言葉を吐きながら、莉緒は私の胸に顔を埋める。そっと背中に手を回しゆっくりと力を入れていくと、彼女の体温が確かに感じられた。

「明日からはさ。沢山楽しいことをしよう?」

「楽しいこと?」

「うん。ちょっとの勘違いで三分の一を無駄にしちゃったけど。……まだ夏休みは終わらない」

 これまでは彼女を外に出すのが怖かった。危険の多い場所に彼女を晒すことで、ふとした瞬間に消えてしまうような気がしていたから。

 でも今ならば違う。

 やっと私がするべきことが分かった。

 彼女に必要なのは楽しい生活。ただただ楽しい、小学生の夏休みのような。毎日ワクワクできる日々。

 遊んで疲れて堕落して。恐怖なんて感じる間もなく人生を謳歌する。

 それが彼女に必要な夏休み。

「でも麻里さん。夏っぽいこと苦手そう」

「だから一緒にやるんだよ。莉緒とだったら楽しめる」

「そっか」

 私の背中に回った手に力が籠められる。

 私は雷に怯える子供を相手するように、優しく優しく莉緒の頭を撫でた。

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