7日目「髪」

 意識が浮上して、ラムネを口に放り、手首に時計をつける。

 ルーティンの中で意識を覚醒させ、最後に彼女におはようを告げる。

「莉緒ちゃん。おはよ」

「おはようございます。ちょっとずつ起きる時間が早くなってきてますね」

「寝るのも早いからね。莉緒ちゃんと生活してると嫌でもリズムが整うから」

 毎日三食に軽い運動。人と会話も行い、早めに寝る。なんて理想的な生活。

 昨日からは朝に散歩まで行うようになった。公園を歩くと夏休みの子供たちがラジオ体操を行っていて、私は自分が子供たちと同じ時間に起床していることに驚く。

 ちょっと前まで休日は午前中に起きれば良い方だった私にとって、これは劇的な進歩だった。

 ふと気になって壁にかかったカレンダーを見る。今日の日付の右上には終業式を祝わんばかりに大きく赤のマジックで丸が書かれている。彼女と出会って七日目の朝だった。

「あぁ、丁度一週間なんだ……」

「早いですね」

「もう慣れた?」

「はい。実はもう結構前から慣れていました」

「そうだったね」

 彼女と出会って一週間。仲は確実に良くなったけれど、根本的な問題を何一つ解決していない。私と仲良くなったから彼女は自殺を辞める? そんな筈はない。このままでは彼女は私の部屋を出ていくと同時に命を捨ててしまう。そう考えることが強くなってしまったことだけが、この一週間で得られた進歩だった。

 タイムリミットは一か月を切った。始業式が八月の二十六日だから今日を含めて残り丁度三十日。それまでに彼女の抱えている物を少しでも知り、問題を解決しなければならない。

 詮索をしてはいけないと決めてしまったから、なるべく慎重に。

 依然として私に出来ることは、彼女と会話をすることだけ。

「とりあえず、散歩行こっか」

「はい。すぐに準備しますね」

 夏は本番。空は青く高い。

 蝉時雨と入道雲の下、私達は生活をする。


「麻里さんの部屋は窓を開けるだけで風が通るので涼しいですね」

「六階だからね。風が強すぎて外で洗濯物干せないけど」

「そのための乾燥機じゃないですか」

「でも布団とかは外干ししたいじゃん?」

「まぁ、それはそうですね」

 散歩を終えシャワーを浴びた私達は、窓から入り込む風に涼みながら何もしない時間を満喫していた。

「ずっと気になってたんですけど」

「ん?」

「麻里さんて部屋の中でもずっと腕時計つけてますよね」

「……あぁ、これ?」

「邪魔じゃないですか? 私、腕時計苦手で。締め付けられてる感じがして落ち着かないんですよ」

 私は返答を少し考える。身に着けるのが普通になっていて不便さなど感じたことが無かった。

「私は逆……かな。この締め付けがないと落ち着かないというか。何か手首に圧迫感がないと駄目なんだ」

「じゃあリストバンドとかの方が室内だと楽じゃないです? あとは、シュシュとか。女子高生が良くやってたじゃないですか。最近はあまり見ないですけど」

「私にシュシュが似合うと思う?」

「似合いませんね……」

 私がシュシュをつける姿を想像したのか、沈黙の後に彼女は笑いだす。

「そもそもあれはなんで手首にシュシュをつけてるの?」

「オシャレなんじゃないですか?」

「実用性無いじゃん」

「私が言える立場じゃないですけど、オシャレに実用性求めちゃ駄目じゃないですか? そういう事言っちゃうのが麻里さんって感じはしますけど」

「そう? あ、でも髪が邪魔になった時にすぐ纏められるのは便利かも」

「あとはリストカット痕を隠したり?」

「……これからそういう風に見ちゃうじゃん」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 悪びれる様子もなくぺこぺこと儀式的に頭を下げる莉緒ちゃんに目を向けつつ、私は机の上の麦茶を手に取り、会話に区切りを入れる。

「麻里さん。そう言えばなんですけど、髪長いのってどうですか? 邪魔じゃないですか?」

「え? 髪?」

「はい。私、髪の毛を伸ばしたことが無くて」

「ずっと短いの?」

「肩より下に伸びたことは一度もないですね」

「伸ばしたいの?」

「……分かりません。これで慣れちゃった自分がいるので、今更伸ばしても違和感が出るかも」

「私はそこまで髪の毛に気を使ってないけど、大きくなってからはあまり短くしてないかも」

「なんでですか? 麻里さんなら邪魔だって言ってすぐに切りそうなのに」

「なんでだろ。それこそ小学生の頃は邪魔で短かくしてたけどね。理由かぁ……」

 いつから私は髪を伸ばし始めたんだろう。中学の卒業アルバムは短かった気がする。高校のアルバムは……そうだ。あの時にはもう伸ばし始めていたっけ。じゃあ、その間か。

 記憶の断片が次々集まってくる。パズルのピースが揃うにつれて、鮮明に声が聞こえてくる。

 あぁ、そうだ。思い出した。あの言葉が始まりだった。

『まーちゃんは絶対に髪を伸ばした方が似合うよ』

 目の前には私に笑顔を向ける人がいて……。

「――っ」

 ……思い出してしまった。

『だって、まーちゃんは、綺麗な――』

 脳内に響いた声に体が跳ねる。まるで夜道で驚かされた時のように、動悸が激しくなり、口から出る息が感じられる。

「……大丈夫ですか?」

「あ、うん。……大丈夫。ちょっと昔の事を思い出しちゃって」

 こんなにすぐに思い出してしまう物なのか。これまで故意的に目を逸らしてきた記憶。見ないうちに風化していると思っていた記憶は久しぶりに振り返ってみても、まだ綺麗なままそこにあった。

「どうして思い出してそんな反応になるんですか?」

「……ちょっとね」

「良くない思い出とか?」

「ううん。ただ昔、私は髪が長い方が似合うって言われたんだよ。それから伸ばし始めたんだと思う」

「青春じゃないですか。彼氏ですか?」

「違うって」

「えぇ、でもそれ絶対、男の人じゃないですか。あれですか、片思いしてた部活の先輩とか、そんな甘酸っぱい話ですか?」

 違う。そんなんじゃない。

 あれはもっと。

「……違う、かな」

 なんとか否定の言葉だけを口に出す。年相応にはしゃぐ彼女はそれ以上何も言及してこない。私の顔を見て話題から足を引いてくれたのだろうか。それならば正直ありがたい。

「でも、その人はいいことを言いますね」

「なにが?」

「だって、麻里さん、髪長い方が似合ってますもん。短くてもかっこいいですけど、髪が長いかっこよさの方が麻里さんには合ってます」

 言葉にされるとやっぱり照れてしまう。それにしても髪の長い格好良さとはどんなものだろう。仕事を熟すキャリアウーマンの様な姿を思い描くが、私とは似ても似つかない。

 連想をしながら彼女を見ていると、またその口から誉め言葉が飛んでくる。

 しかし、その言葉に私は目を見開くことしかできなかった。

「それに麻里さん。綺麗な黒髪してますもん」

 あぁ、あの時と同じだ。あの人と同じだ。

 どうしてだろう。彼女と一緒にいると、こんなにも記憶を掘り起こしてしまう。

 それがどうしようもなく、胸を抉った。





 

 まただ。

 またこの夢だ。

 ここ数日、この夢を見続けている気がする。

 それは彼女があの頃の――に似ているからだろうか。それとも――に似ているからだろうか。

 いいや。似てはないか。

 だって莉緒ちゃんは。

 

 私は何かを聞いている。

 手にはお下がりの参考書。

 勉強しなきゃと私が私に言う。

「勉強は嫌い」

 でもやらなきゃ。

「どうしてやらなきゃならいの」

 そうしなきゃ、浮かばれない。

 前を向くとあの人が笑っている。

 手を伸ばすけど届かない。

「どうして」

 伸ばした手が霞むのは涙か夢の終わりなのか。

「どうして」

 視界は真白になり、嫌な匂いだけが鼻に残った。

 





 また、この夢……。

 そっと目を開けると、暗い天井が映る。

 ここ数日はこの夢を見る機会が増えた。

 前までは月に何度か見る程度だったのにな。

 仕事が休みになって空白の時間が増えたからかもしれない。

 空白を餌に過去の記憶は脳内で膨らんでいく。

 そして記憶は私をあの時間に引き戻そうとする。

 これだったら仕事があった方がよかった。忙しさにすべてを忘れることができれば心が穏やかなままだった。

 ふと耳に何かが聞こえる。

 風の音?

 いや、これは息の音?

 ハァ ハァ ハァ

 私の呼吸?

 いや、違う。私の呼吸は小さく別の音を出している。

 じゃあ、これは何の音?

 断続的な息の音が聞こえる。

 それはまるで喘息患者のようだった。

「莉緒ちゃん……?」

「――っ!」

 返ってきたのは短い悲鳴のような息と、何か金属のようなものが落ちる甲高い音。

 音はキッチンから聞こえた。だから彼女の姿は私から見えない。

 ただ、耳に入る息の音から彼女が通常な状態でないことは容易に察する事が出来た。

「……大丈夫?」

 私はベッドから降り、足を進める。

 喘息の対処は教師ならある程度は知っている。もし喘息じゃないなら救急車? でもどうやって私達の関係性を説明する?

 脳内はパンク気味に加速する。

「来ないで!」

 もう一歩を踏み出そうとした瞬間、彼女の鋭い声に体が硬直する。

「今は駄目。……駄目です」

 私はまるで、だるまさんが転んだをしている時のように足を軽く浮かせたまま固まる。

「大丈夫ですから。こっちに来ないでください……」

 彼女の息はやはり上がっていて、大丈夫だからと言われてすぐに引き下がれる物ではなかった。

 私は浮かせていた足をゆっくり前に下ろし、体を少しだけ前に傾ける。

 そうして。

 彼女と目が合った。

「――っ」

 私と合った目が大きく見開かれた。月光でほんのりと照らされる彼女の額には汗が光る。

 そして目にはあの日と同じ色が映っていた。

 それは命を燃やすように激しくぎらついた眼。

 私はあの時のように冷や汗をかきながら、その目に吸い込まれていた。

「大丈夫なので。心配しないでください。ちょっと……。気分が悪くなっただけです」

 キッチンに両手をつきながら、肩で息をする。見上げた顔からは、切羽詰まった何かを感じた。

「……今、何をしてたの?」

「関係ないです」

「教えて。だって……今」

 私の言葉にピクリと体が動く。その時、彼女の手の中で何かが光った。

「大丈夫です。麻里さんの考えてることじゃないと思います」

 彼女は息を整えながら片手をそっと上げ、私に見せる。

「ほら。手首も腕も傷一つないでしょ?」

「――」

「大丈夫です。本当に。だからもう寝ましょう」

 動けない私を見ながら彼女はコップに水を汲み、それを飲み干す。大きな深呼吸をしてもう一度こちらを見る彼女の目は普段の少女の目になっていた。

「おやすみなさい。麻里さん」

 私の意識はそこで途切れた。

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