一瞬で燃え尽きる激しさで

卯月樹

1日目「出会い」

 そう。今思えば、この結末は当然だった。

 彼女とは出会いの瞬間から、別れまで、それによって繋がれていたのだから。

 だから私は命一杯の笑顔を作った。

 一度空になった頭の中に、じわじわと感情が溢れ始める。

 そうしてすぐに、喪失感と悲壮感と。愛おしさで満たされた。

「行ってらっしゃい」

 私はもう一度静かに呟いた。


 これは私と彼女が出会い、そして別れるまでの、ひと夏。三十日間と少しの話。

 この話には、湿度にまみれてねっとりと纏わりつく空気と、断続的に脳を揺らす激しい蝉の音が、よく似合う。




 出会いの日も、例外なく空は湿度と蝉の音で充満していた。

 上半期の仕事に一つの区切りが付いた私は、思考が纏まらない頭で今年の夏の予定を考える。

 夏は嫌いだ。学生の頃は、それなりに心も踊ったけれど、はしゃげる元気も無くなってしまった今ではただ暑いだけの日々。

 海にも川にも行く予定はないし、行く友達もいない。ただ漫然と耐えるように今年の夏も過ぎていくんだろう。あ、でも一つだけ。ビールが美味しいのは嫌いじゃない。

 いつもより遅いテンポでコツコツと、まるで映画の中のゾンビの様にヒールの先を帰路に鳴らす。疲労と日差しが全身に圧し掛かる今は先の事なんて考えていられない。とりあえずは、脚を引き摺ってでも家に帰り、泥の様に眠りたい。

「あっつ……。ほんと死ぬよ……これ」

 シャツに滲む汗に嫌悪感を抱きながら、水分不足と疲労でくたくたの身体をふらふらと前に進める。

 明日からは夏の日差しの下に出ることも無い。エアコンの効いた天国で怠惰の限りを尽くす。そんな非生産的な幸せが待っている。

 日々背中にピッタリと張り付く具体性のない焦燥感からも逃れられるかもしれない。

 そう考えると、夏もまぁ、悪くはない。

 私立高校の非常勤講師として契約して三年目。一昨年、去年と二年連続で取り損ねた教員採用試験も今年は順調。一次試験を終え、結果を待つばかり。それで受かっていたらあとは二次試験を受けるだけ。まだ一次の結果すら出ていないけれど、恐らく今年は合格できるだろうと謎の自信が胸の中に巣食っている。

 しかし、非常勤講師という立場も案外気楽なもので、こうして他の教員が喉から手を出してでも欲しがるであろう長期休暇を楽に取ることだって出来る。

 その分、職員室での肩身が狭いのと、日々背中に刺さる白い眼差しには、多少応えるものがあるが、それを差し引いても現状に満足してしまっている私がいる。

 贅沢をするような性格でもないし、今更大きな部屋に引っ越す欲望もない。金銭面ではもう十分に満足している。

 まぁ、それでも、なんだかんだ言って、どうせ私は周囲の流れに合わせるように教員試験に合格し、めでたく今の学校からおさらばするんだろうな。なんて思う。

 向上心なんてものは無いが、流れに逆らう気力も持ち合わせていない。

 汗で額に張り付いた前髪を払い、ふとそのまま左手首の時計を見る。

 十九時半。最後の仕事の片付けに手間取ったせいか、それとも死体の様にゆっくりと歩いていたせいか。いつものバスの時間はとうに過ぎ、数本後の発車時刻まであと少し。記憶ではこれを逃すと次は三十分後。この暑さの中それだけの時間を待つなんて、それこそ地獄もいいところだ。

 慌てて足を速め、川を渡す大きな橋に足をかける。百メートル程の橋を渡り切った先がゴールのバス停。さながら真夏の百メートル走。

 意気揚々とスタートを決めたつもりだったが、残念ながら私の下半身は言うことを聞かなかった。終業式中ずっと立ちっぱなしだったからだろう。パンパンに張った脹脛は悲鳴を上げていて持ち上げることすら億劫だった。

 結局、愉快に自分の体と格闘している私の隣をバスは無慈悲に通り過ぎていく。

 橋に足を掛けたばかりの私と橋を渡り切ったバス。到底追いつけない距離を引き離され、次のバスを待つまでの地獄を甘んじて受け入れた。

 田舎とも都会とも言えない中途半端なこの町で考えれば、バスが三十分の間隔で来るのはむしろありがたい話なのかもしれない。遥か遠くのバス停で乗り降りする人間を数えても片手で十分に足りる程。そもそも、学生以外にこの辺を利用する人間が少ないのだから、下校時間を過ぎた後はバスの本数が少なくなるのも仕方がない。その証拠に私が歩く道に車通りは少なく、バス以降私を追い抜いていく車は無かった。

 次のバスがあることに感謝しよう。きっとこれは不幸中の幸いというやつだ。そう考えることにしよう。

 軽く数歩を走っただけで息切れを起こした私は、膝に手を付くようにして息を整える。これでも学生時代は球技とか長距離走とか結構得だった筈なんだけどな。

 二十歳を超えてから急激に体力が衰えると聞いていたけれど、今まさにそれを実感している。まだ二十代も折り返し地点なのにこの有様だ。自分の老いを自覚ことが結構メンタルに来るという事を最近学んだ。

 この橋を歩ききらなきゃならない事への絶望。次のバスまでの三十分間この暑さを耐えることへの絶望。そして体力が落ちたことへの絶望。

 我ながら安い絶望感たちだ。絶望の意味を一度調べた方がいいかもしれない。

 その証拠に次の瞬間。息を整え歩き始めようと顔を上げた時。私の脳内にあった様々な感情は目の前に広がる光景に塗り潰され、開いた口からは感嘆の息を漏らしていた。

 視界に広がったのは夕暮れに相応しい真赤な空。

 少し黒を混ぜたような、重い赤。

 その中に、雑に千切られた雲が真っ黒な影を落として、浮かんでいる。

 どうしようもなく綺麗な景色だった。

 でもそれだけではない。

 私が目を奪われたのは、そのすべてを背負う少女。

 橋の中央で手すりの向こう側に立ち、頭上の夕暮れを仰ぐ少女。彼女の立つ場所の後ろには、綺麗に靴が揃えられている。

 幼い体形を見るに中学生だろうか。小柄な体躯に短い髪。そしてこの季節には不釣り合いなニット帽。

 袖口から露わになる肌はあまりに白く、そしてニット帽から覗く髪は空の黒にも負けない黒。

 背景の夕暮れをバックにする少女の立ち姿はまるで一枚の絵画のようで。

 釘付けになる私はそれに美しさを感じると同時に、恐怖を抱いていた。

 夕焼けを反射するように光る彼女の眼には刃物のような剥き出しの鋭さがあった。まるで野生動物が獲物を狩る瞬間のような。張り詰めた空気の中に生と死が渦巻いていた。

 それは平和な生活を送る人間には絶対に縁のない雰囲気。

 全身からその気迫を漂わせる彼女を見て、私の身体は小動物のように震えていた。

 さっきまの暑苦しい汗とは違い、背中に冷たい汗が流れるのを感じる。

 その時、私の視界の中で静止画の様に佇んでいた少女が、私の気配を察知したかのように振り向く。

 蛇に睨まれた蛙のごとく体を固める私をじっと見ながら、少女は微笑む。そしてゆっくりと口を開いた。

「大丈夫ですよ。飛び降りたりなんかしません」

「……え?」

 そうしてようやく、少女が今にも橋から飛び降りることができる体勢であることに気が付いた。橋はかなりの高さがあり、自殺するには十分。彼女がその身を投げ出す映像が脳内に浮かび全身に悪寒が走った。

 慌てた私の足は気づけば動くようになっていて、思考を回すよりも先に少女の元へ駆け寄る。

「いやいや、むしろ勢いよく来られた方が危ないですって。今戻るんで落ち着いてください」

 パニック状態で少女との距離を詰める私に、彼女は穏やかな落ち着きを見せながら静止の言葉を掛ける。

 そして死の淵に立つ少女はまるで机の上にでも座るかのように、ひょいと手すりに一度腰を掛けると、そのまま体を回転させ私の目の前に着地する。

 私はその光景を唖然として見ていたが、彼女が橋に足をつけた瞬間、咄嗟に少女の肩をつかんだ。

「早まっちゃだめ! そりゃ、辛いことだってあるかもしれないけど!」

 焦りに任せて言葉を投げかける私にまた少女は笑う。

「落ち着いてください」

「……飛び降りるなんて駄目!」

「だから大丈夫ですって。ほら。もう私は手すりのこっち側にいるでしょ?」

 半ばパニックになる私を宥めるように優しい声色を投げかける。

 私は震える手で彼女の肩を掴んだまま、不規則に跳ねる自分の呼吸に戸惑う。

「安心してください。今日は死にませんから」

 自殺なんてしていいわけがない。どんな理由があったって、死んだら全部終わっちゃうんだから。

「結構いい景色だったから、ふと死にたくなっちゃっただけなんです。でも、これじゃまだ足りないかなって」

「……なに……何言って」

 私は呼吸の乱れから来る眩暈と、少女が無事なことへの安心感で、その場に膝をつく。ストッキング越しに肌に小石が刺さり、じんじんと痛みが波打った。

 私は橋の手すりに背中をつけ、深呼吸をする。視界を上げると夕暮れをバックにした少女の顔が中央に映った。

「落ち着きました?」

「……だいぶ」

「よかった」

 彼女は私に微笑むと手を差し出す。

「とりあえず、バス停まで行きません? こんな所に座ってると、変に見られちゃいますよ?」

 今の私よりも奇異な行動を取っていた少女の手を恐る恐る取り、私は立ち上がる。少女は小走りで私が落としたバックを拾ってくると、行きましょうとバス停に向かって歩き出した。

 この少女が分からない。さっきまであれ程死の気配を漂わせていたのに、今じゃこんなに普通の女の子の顔をしている。全く別の少女を見ている感覚だった。

 ひょこひょこと歩く少女の背中を追いかけながら考える。これは学校に連絡するべきだろう。少し会話をして学校とかを聞き出して、連絡……。いや、まずは慎重に話をしないと。さっきの雰囲気はふざけて手すりを超えたなんて物ではなかった。あまり焦ってこの子のスイッチを押してしまうことだけは避けなくてはならない。

 最悪の場合、私がこの子を家なり学校なりに送り届けなくちゃ。この子がどんな問題を抱えているか分からないけど、この子を一人にしてはいけない。そう確信めいた胸騒ぎがした。

 バス停に着き腕時計を見ると、次のバスまではあと十五分。彼女は何故かバス停のベンチに座っている。どんな言葉で彼女を引き留めようか迷っていたから都合がいい。

 さて、どうしたものかと考えながら私もベンチに腰を下ろす。

「それで」

「え?」

 私から会話を始めようと、開口一番の言葉を探していると、彼女が口が先に開く。

「生徒の自殺未遂を見つけた訳ですが、どうします? 先生」

「……先生? なんで私が先生だって……」

 首を傾け聞いてくる彼女の言葉を理解するのには時間が必要だった。

「だって校内で見たことありますし」

 この小柄な少女がまさか高校生だなんて。体つきは勿論、顔つきだって幼い。それに加えて、私の学校の生徒だなんて。だってそもそも見覚えがない。そこそこ大きい学校ではあるが全校朝会の髪型チェックを担当したこともあるし、校内で一度は見ていてもいい筈なのに。それこそ、こんな小柄な子がいれば目を引くだろう。

「え……? 先生、もしかして気付いてなかったんですか?」

「……ええ」

 少女はあからさまに失敗したという顔をして笑う。

「校内では結構有名人だと思ってたんですけど。…………言わなきゃよかった」

 笑顔を見せられて今更、彼女の顔がとても整っていることに気が付く。

 幼さと肌の白さが相まって人形の様だ。これではクラスでは目立つ方だろうし、彼女の言う通り男子の中では有名人にでもなるだろう。

 しかし、そうなると一層、顔に見覚えのないのはおかしい。

「名前、聞いてもいい?」

「はい。三年の藍原です。分かりませんか? 藍原莉緒」

 まず、学年に驚く。新入生だとばかり思っていたが、まさかの三年生。まるで、成長しない呪いにでも掛けられたのかと疑ってしまう。

 三年生というと、私と同じ時期に学校に入った学年だ。生憎その学年の授業は担当したことがない。だから知らないという可能性も捨てきれない。

「あいはら、あいはら……」

 口に出しながら必死に記憶をたどるが、ピンと来ない。そこまで多い苗字ではないけど、少ない苗字でもない。私が思いつく限り学校でこの子以外に二人は「あいはら」という苗字に覚えがある。

「知りません?」

 聞いた覚えがあるような、ないような。

 職員室でその名前を聞いた気もするけれど、それがこの子だという確証はない。

 失礼だが、もしかしたら不登校なのかも。それだったら、見覚えのないことにも、職員室で名前を聞いたかもしれないことにも説明がつくし、今こうして彼女が私服なことにも納得がいく。

 つまりは結局、彼女に覚えがないという事。

「……ごめんなさい。分からないかも」

「へぇ……。知らないんだ。そっか……」

 少女は顔を逸らすので、私からは表情が見えない。ただその言葉には読み取れない含みのようなものを感じた。

「……ねぇ先生。急な話なんですけど、お願いを聞いてくれませんか」

「お願い?」

「はい。一つ……。いや、二つ」

 少女は真っすぐ私の目を見る。その目からはもう恐怖を感じることはなかった。

 お願いとは何だろうか。想像はできないが、彼女を刺激しないように動くのなら、ここは頷くしかない。

「言ってみて」

「まず一つ目なんですけど。私の自殺未遂はどこにも報告しないでください」

「……」

 見事に先手を打たれた。

「報告って、そんな」

「学校とかそういう団体とか。面倒臭くなるので」

「面倒臭くって……。あなた自分がどれだけ」

「わかってますよ。でも、これは私の問題なので。……勿論先生の責任になるようなことには一切しません。先生はさっきなにも見なかった。それだけです」

「そんなことでき――」

「できるわけない、ですか?」

 まるで彼女に会話をコントロールされている気分だった。言葉の頭を抑えられ何も言えなくなる私を、少女は真面目な顔で静かに見つめ続ける。

 気が付けば、私の視線は彼女の目から離せなくなっている。黒い瞳の奥に広がる大きな何かに吸い込まれるように、私は釘付けになる。

「じゃあ、先生が私を助けてくれますか?」

「――っ」

 その言葉は切なく私の鼓膜を揺らした。きっとここで私は頷かなければならない。それが大人の役割。でも、私の首も私の喉も動かない。

「冗談ですよ。……優しいですね。先生」

 そして限界まで張り詰めた糸を彼女は一気に緩める。皮膚からは今まで忘れていた分の汗が流れ出し、心臓が五月蠅くなり始める。そうしてようやく喉から声が出るようになったことに気付いた私は、今、彼女に私が言うべき言葉を伝える。

「でも、話を聞くことはできるよ」

「そう言ってくれる人は、本当に優しい人か、狡い大人かのどっちかです」

「私じゃ駄目かな? 悩みがあるなら何でも相談に乗るよ? 私にできることなら力を貸すから」

 カウンセリングのテンプレートの様なセリフを吐く。

 彼女の言う通り、私はきっと狡い大人だ。

 少女は私の言葉に小さく俯くと、次の瞬間には表情を変えて明るい顔を私に見せた。

「じゃあ、今日、家に泊めてください」

「え?」

「私、今日、家出してきたんです」

 さっきまでの静かな彼女はどこへ行ったのか、今度は年相応の少女と会話をしているようだ。まるで何人もの彼女と入れ替わりながら話しているような感覚。

「これが二つ目のお願いです。先生の事を信用するので泊めてください」

「……何言ってるの? そんなのダメに決まって――」

「話を聞いてくれるって言うのは?」

「それはもっと別の、カフェとかファミレスとか」

「それ本気で言ってます? 自殺しようとしていた人間が、心の内を公共の場で曝け出す訳ないじゃないですか」

 調子が狂う。今目の前にいる少女はクラスの生徒と同じだ。親しく接してくる女子高生と話している感覚。この子がさっきまで死の淵にいたことすら忘れてしまう。

「あぁ、えっと、じゃあ……」

「それに私、今日泊まる所ないんですよ」

「でも、教師が生徒を家に上げるのも、倫理的に」

「じゃあ、駅前でナンパされるのを待つか、潔く死ぬことにします」

 女子生徒が休み時間に見せるような、何でもない笑顔を浮かべながら少女はそんなことを口に出す。

 これはお願いじゃなくて脅迫だ。一生のお願いを軽々しく口に出す人間は山ほどいるけれど、ここまでの重みを孕んだお願いは始めて聞くかもしれない。だって彼女は下手をすれば本当に死んでしまう。彼女の目には冗談の色なんて全くなく、見つめられる私は細い平均台の上に立っているかのような緊張感を覚える。

「親御さんだって心配するでしょ? ちゃんと帰った方がいい」

「それ、私じゃなかったらアウトですよ。学生の自殺志願者なんて数割は家庭環境が原因なんですから。家出してきた人間に帰れなんて、死ねって言ってるのと同じです」

「ごめんなさい……そんなつもりじゃ」

「私は大丈夫ですよ。そんな理由で死のうとなんて思いませんし」

「でも家に帰りたくないの?」

「はい。こうして家出しているくらいですからね。でも、虐待とかではないですよ? 親は私に優しいですし、大切にされています」

「じゃあどうして……」

「色々あるんですよ。女子高生ですもん。多感な時期なんですよ」

 ヘラヘラと他人事のように会話を進める。そこから彼女の内面は全く見えない。

「あ、じゃあ先生が泊めてくれるなら親に連絡してもいいですよ。私が家に帰らないことが伝わってれば全然問題ないですよね。お友達の家に泊るとでも言っておきます。彼氏の家に泊る学生みたいでいいじゃないですか」

 退路はもうない。彼女を家に招き話を聞かなければ、今後彼女がどうなってしまうか予想はつく。

 他人にそこまで興味を持たない私でも、命を投げ出そうとしている子供を見逃すわけにはいかない。

 それだけは、絶対にできない。

「で、先生。どうなんですか? 次のバス。来ちゃいますよ?」

 時計を見ると、次のバスまであと数分。

「一つだけ聞いていいかな?」

「なんですか?」

 なぜ死に急ぐのか? なぜ家出をしたのか? なぜ学校で有名なのか? その他にも沢山聞きたいことはあったけれど、私の口から出たのはそのどれでもなかった。

「信用する大人が、私でいいの?」

 きっと私は狡い人間で、彼女が信用していいような人間ではない。それでもいいなら、私は彼女の話を聞く。それで彼女が少しでも明日を生きることができるなら、彼女の抱えている物を少しだけ持ってあげてもいい。

 私の言葉を聞いて少女は少し顔を明るくして、考える。

「……こうして。こうして偶然会っただけですけど、なんだか運命を感じたんです。それだけで私はいいんです」

 そう言ってまた彼女は無邪気に笑う。目には明るい命の輝きを宿しながら。体からは生の激しさを漂わせながら。

 そして私は、どうしようもなくそれに惹かれていた。

「話は聞くからさ。死んじゃうなんて勿体ないよ。それで明日になったら今後どうするか一緒に考えよう? 家に帰るか、それが無理なら助けてくれる場所だって沢山あるし。私が間に入ってもいいからさ」

「……はい。ありがとうございます。これからのことは、そうですね。はい」

 この歳の子が自殺なんてしてはいけない。話を聞いて、分かち合って、彼女に圧し掛かる物を軽くしてあげれば、きっと死ぬなんて馬鹿な考えはしなくなる。

 こんな私でも、彼女を救える。


 しかし、後から思い返せば、この時すでに私は彼女の命の激しさに見惚れていたのだと思う。

 それは、どうしようもなく尊くて、どうしようもなく儚い。

 一瞬で燃え尽きてしまいそうな程、激しく輝く炎に、釘付けになっていたのだろう。

 藍原莉緒。

 彼女は残りの命、全てに炎を灯して生きていた。




 私の家に着くや否や、彼女はテレビの前にちょこんと座った。

 私もそこに座れと言われている気がして、エアコンのリモコンを拾いながら、テーブルを挟むようにして彼女の向かいに座る。

 汗でべた付くシャツを脱ぎたい気持ちを押さえながら、彼女を見ると、私の心中を察したかのように口を開く。

「まずは自己紹介をしたいんですが、時間貰っていいですか?」

「ええ。大丈夫だけど?」

「あ、いや。先生、顔にシャワー浴びたいって書いてあったので」

「流石にお客さんが来てるのに、帰宅早々服脱ぐ訳にもいかないでしょ」

「別に私は構いませんよ? 適当に待ってますし」

「いや、本当に大丈夫。自己紹介しちゃおうか」

「了解です。先生」

 彼女の言葉に居心地の悪さを感じながら、私は自己紹介を始める為に軽く座り直す。

「私は長瀬。学校で私の事見かけたことあるんだよね? だから名前くらいは聞いたことあるかもしれないけど」

「はい。実は最初から知ってました。長瀬先生」

 悪戯っぽく笑う彼女に年相応の無邪気さを垣間見てホッとする。

「ええと、少し頼みづらいんだけど、その先生って呼び方辞めてもらっていい?」

「え? なんでですか?」

「なんだか家に帰ってきてまでその呼び方じゃ落ち着かないっていうか。まだ業務中な気がして気が滅入るというか」

「それもそうですね。じゃあ、長瀬……さん? ちなみに下の名前は?」

「麻里」

「じゃあ、麻里さんで」

「下の名前なんだ……」

「苗字で呼ばれるのも、堅苦しくて嫌かなって。あ、麻里さんも私の事下の名前で呼んでください」

「莉緒さん?」

「いや、莉緒ちゃんで」

「……莉緒ちゃん?」

「はい! なんですか麻里さん?」

 なぜか彼女はそれで満足そうに笑うので、仕方がないと納得し話を進める。

「それより自己紹介でしょ。……って、私の自己紹介いる? 興味ないでしょ」

「いやいや、何も知らない人と一夜を共に過ごせないじゃないですか。してくださいよ自己紹介。軽くでいいので」

「そんなこと言われても、教員てことくらいしか言うことないよ」

「もう……。合コンとか行ったことないんですか? そもそも自己紹介は生きる上で必須じゃないですか?」

「案外そうでもないよ。名刺渡せばそれで終わりだし。それ以上聞かれれば応えればいいし」

 そんな私に呆れたのか、目の前の少女は溜息をつく。

「年齢は?」

「二十五」

「出身は?」

「福島」

「あ、こっちじゃないんですね」

「大学がこっちだったからね。地元に思い入れもないし」

 あ、今のは嘘。思い入れは十分にある。あまり帰りたくないだけ。

「大学は?」

「流石に恥ずかしいかな。そこそこの所」

「趣味は?」

「なし」

「休日は?」

「寝て過ごしてる……かな」

「彼氏は?」

「……いません」

 掘り下げれば掘り下げる程、私が何もない人間になっていく。だから自己紹介は嫌いなんだ。空っぽの私に向き合わなくちゃいけなくなる。

「麻里さん……。なんか無気力ですね」

 自殺しようとしていた人間に言われたくはない。でも確かに、無気力に生きている人間が自殺を引き留める権利はないかもしれない。

 いや、やっぱりそんなことはない。死ぬのは一番駄目だ。死んだら全部なくなっちゃうんだから。無気力だって生きていた方がいい。

「……ごめんね」

「いや、謝らないでくださいよ。確かにびっくりしましたけど、私も人のことを言える人間ではないですし」

 少女は必死に私を励ます。何やってるんだ私。この子と話すとすぐに失敗してしまう。もっと別の選択肢があったはずなのに、どうしてこうなるんだろう。

「……じゃあ次は私の番ですね! 三年四組、藍原莉緒。麻里さんの授業は受けたことないですが、麻里さんは度々目にしてました。って言っても多分麻里さんは私の事を見たことないかもしれません。色々あって不登校気味で全校朝会とかには顔出してませんし。あ、でも出席日数は大丈夫ですよ。きっちり三分の二を計算して授業に出てますから」

 思った通りだ。やっぱり不登校気味なのか。

 所々こちらの顔を伺うように上目にチラチラと私の目を見ながら、学校での立ち位置を説明する。不登校に対して私が怒るとでも思っているんだろうか。

 思い悩んでいる生徒にはまず肯定を与えなければならない。頭ごなしに否定すればすぐに心を閉ざしてしまう。そんなことはまともな教員であれば誰だって知っている。

 だから私は彼女を肯定して、悩みを聞いて……。

「まぁ、麻里さんが今知りたいのはそんなことじゃないですよね。なので自己紹介は手短に終わらせます。趣味……と言ったら可笑しいですけど、人生の目標は綺麗に死ぬこと。これが藍原莉緒だと思ってくれればそれでいいです」

 なのに彼女は私の想像の遥か上を行く。

「……なにそれ」

「理解して貰えないのは承知の上です」

「悩みとか……。問題とか……。私はそういうことを聞いて……」

「違いますね。私は自ら進んで死を望んでいるんです」

 私が到底、肯定できない物を曝け出す。

「……なんで?」

 だから私は彼女を否定するしか無くなってしまう。

「理由はあるんですけど、話せません。それは話したくないです。代わりに私の心情を噛み砕いて説明することだったらできます。それで、宿泊費になりますか?」

 彼女は一瞬また背筋の凍るような雰囲気を漂わせた後、冗談交じりにおどけて首を傾げる。

 意味が分からなかった。誰だって生きていたい筈で、死ぬことからは逃げたい筈で。それが普通だと思っていた。いや、それが普通なんだ。

 ただ、根本的なそこが彼女はズレている。だって彼女は本当に死ぬ。その言葉を安易に使う子供とは格段に重みの違う「死」を口にする。

 命の重みを知った上でヘラヘラと笑う彼女からは、まるで年寄りが命の話題を笑いに変えるような、そんな心の中を綺麗に整理した後の落ち着きを感じる。

「私が聞いてもいいなら、聞かせて」

「さっきも言いましたよね。私はなんだか麻里さんに運命を感じたんです」

「……なにそれ」

「私の口から出る運命は相当重いですよ。何せもう後先短いですからね」

 彼女の笑顔の奥には燃える炎がある。目の中に烈々と燃える命がある。

 そんな目に惹かれつつ、私は同時に怯えた子供の様に身を震わせながらそれを見続ける。

「じゃあ、上手く言葉にできるかは分かりませんが。聞いてください」

 そして彼女はゆっくりと語り始めた。


「少し質問しますね。例えば麻里さんは今日の夕飯、何を食べたいですか?」

「……え?」

 身構えていた私に投げかけられたのは他愛もない質問だった。

「別に大した意味はないので大丈夫ですよ」

「えっと、蕎麦とか……? 暑いし。正直何でもいいかな」

「じゃあ、麻里さんは明日、何をしたいですか?」

「……特にないかも」

 また主体性のない私が出てきてしまう。何を食べるにも何をするにも大きなモチベーションはない。

「じゃあ、三日後地球に隕石が落ちてくるとしたらどうですか? 今日の夕飯は何を食べたいですか?」

「えっと……。そうだな……」

「好きな食べ物を食べたり、高級な物を食べてみたり、もしかしたら質素な物を選ぶかもしれませんけど、一度ちゃんと何を食べようか考えませんか? 多分ですけどさっきの質問よりこの質問の方がしっかり考えると思うんです。適当には答えないと思うんですよ」 

 確かにそう。結局何を食べたいかは思い浮かばなかったけれど、暑いからという理由で蕎麦と答えた時よりは深く考えた。

「地球が終わるとしたら、明日やりたいことも変わってくると思うんです」

「そうだね。実家に帰ったりするかも」

「はい。それが私の一つ目の理由です。自分が生きていることを一番自覚するのって死ぬ寸前だと思うんです。だって普通に毎日を平和に生きてたら、自分が生きてるかどうかなんて考えないじゃないですか。でも毎日自分の死に場所を探していると、ちゃんと命について考えられる気がするんです。あぁ、今私は生きてるんだなって感じることができるんです」

 しっかりと言い切った彼女の話に、私は目を伏せる。

 確かに理解することはできる。命について考えることは大切だ。だから食事の前には頂きますなんて言葉を口にするように教育しているんだ。

 でも彼女はそれを考え過ぎている。そんなに深く考えて生きて、本当に幸せなのか。もっと同年代の女の子たちの様に、何でもないことに笑って、何でもないことにムカついて。そうやって何も考えずに生きることはできないのか。

 たかが高校生の言葉とは思えない程に彼女のそれは重く、私を考えさせる。

 高校生に比べたら大人になっている気でいた私に、お前は何も考えていない子供なのだと突き付けられている気分だった。それもその高校生に。

 彼女の背景を私は何も知らないし。何を背負っているのかも知らない。だから下手なことは言えないけれど、確かに彼女は異質だった。

「もう一つ。こっちは子供みたいな理由なんですけど、いいですか?」

 目の前にいる小さな体躯の少女に、君はまだ十分子供だ、とは言うことができず、私はそっと頷く。

「二つ目は、なんというか。私は自分が壊れていくのを見たくないんだと思うんです。これは、表現が少し難しいんですけど……。本当に大切な物は壊れてしまう前に無くなってほしいというか」

 言葉にするのが難しいですねと笑って、彼女は考える。きっと頭の中では完成している彼女なりの哲学をどうにか言語化しようとしているのだろう。だから私は口を挟まずにその姿を見守る。小学校に研修に行った時に感じたものと似た感覚だった。自分の持っている言葉を組み合わせて必死に意思疎通を図ろうとする姿は、やはり幼い子供のように見える。

「例えば、極論ですけど、すっごく美容に気を使っている美女がいるとするじゃないですか。その人が優先するものが、生きることよりも美を保つことだった場合。その人は年を取って自分が醜く変わっていくことを許さないと思うんです。たまにいますよね。美しいまま死にたいっていう女性。理由は違えどあれと似たようなものです。私は自分がボロボロになって生きていくくらいなら、すぐに終わりにしてしまいたい……。ってやっぱりわからないですよね」

 ごめんなさいと真面目な表情を崩すように笑う。

「結局は私は弱い人間なんです。この先待ってる辛いことに立ち向かうなら、それが来る前に死んでしまおうって話なんですよ。多分」

 背中に冷たい汗が走って、自分がこの少女に恐怖してしてることを自覚した。

 私だって正直のうのうと生きてきた訳じゃない。それなりに苦労してきたし、考えてきた。結果的に今は無気力な人生を歩いているが、同年代より思考が熟している自信もあった。それでも目の前の少女の比ではない。

 なぜそこまで死に向き合えるのか。そしてなぜそれを飲み込んで、笑えるようになっているのか。身内が亡くなっている? 何かそんな体験をしたことがある? 理由は分からないが、彼女の中に潜む剥き出しの命に私は目を奪われていた。

 私は立ち眩みに似たものを感じ、目頭を押さえる。高校生の言葉を理解できずに頭を抱える教師の図は傍から見れば滑稽な物なのだろう。そんな私を見て何を思ったのか、少女は立ち上がると、何かを見つけて本棚の方へ歩いていく。

「麻里さん、煙草吸うんですね」

「え? うん」

 彼女は本棚の一角に置いてあった煙草とライターを手に取りさっきまで座っていた場所に戻る。

 私に気を使って会話を増やしてくれたのだろうか。意図は分からないが、張り付いていた喉が少し和らいだ。

「煙草の匂いがうっすらとしたから、もしかしたらなって思ってたんです」

「あ、ごめんね、部屋煙草臭かった?」

「いや、全然大丈夫ですよ。別に気にならないので」

 ライターを手元で転がしながら、少女はわざとらしく部屋の匂いを嗅ぐ。

 引っ越してすぐは気も使ってベランダで吸っていたけど、今じゃたまに室内でも吸ってしまうから匂いがついてしまったんだろうか。

「たまに吸うの。地元にいた頃は良く吸ってたから。だからふと昔を思い出したくなる時とかに丁度よくて」

「先生さっき大学からこっちって言ってましたよね?」

「ん? うん」

「じゃあ、地元の時って高校生じゃ?」

 あー。やってしまった。

「ごめん。忘れて」

「わかりました。忘れてあげます。……でも、煙草は辞めといたほうがいいですよ? 寿命が縮まるって言いますし」

「それ、あなたが言う?」

 するっと喉を出た軽口に少女はムッとする。何か癪に触ってしまったのではないかと不安になるが、彼女が口を開くとすぐに理由がわかる。

「莉緒ちゃん。です」

「え?」

「今麻里さん。私の事あなたって呼びましたよね?」

 そんなに名前で呼ばれたいのか。なんとなく呼びにくくて意図的に避けていたけれど、それも許されないらしい。だって人をちゃんづけで呼ぶなんてかなり久しぶりだ。もしかしたら小学校時代まで遡るかもしれない。

「えっと……莉緒、ちゃん」

「はい。それでいいんです」

 また名前を呼ばれて満足そうにする少……莉緒ちゃんは先程から手先でクルクル回しているライターを私の目の前に出す。

「また、さっきの話に戻しちゃいますけどいいですか? 例えばここにライターがありますよね。普通に使えば火は点きます。でもオイルが切れてしまって火が点かなくなったら、一生懸命何度も点けようとしますよね。必死に何度も擦ります」

ライターを何度も点けようとするジェスチャーがあまりに様になっていて、莉緒ちゃんも高校生だよなと、疑問がよぎる。それでも今は置いておこう。生活指導をしている暇なんてない。

「そうして、煙草に火が点けられなくなってようやくライターの大切さに気が付くんです。私はこのライターの大切さをずっと感じていたいし、これが思い出の品とかだったら、壊れて使い物にならなくなる前に置きものにしてしまうか、どこかで失くしてしまいたいんです。多分私の場合、失くすよりも壊れた時の方がショックは大きいんです」

やっぱり何を言ってるのか分かりませんね。と笑い、莉緒ちゃんは元あった場所に煙草とライターを戻す。

「要するにちゃんと生きてる事を実感したくて、生きた私のまま死にたいんですよ」

 へなっと笑う彼女からは弱さの片鱗が見え隠れしているような気がした。

 彼女の伝えたいことを正確に理解できたとは言えない。それでも、今の私はそれを理解しようとしている。彼女の言葉は不思議な魔力を秘めていて、耳に入る度に胸のどこかを締め付ける。

 彼女を自殺から救うという最優先事項は変わらない。それでも、このまま彼女を知らぬままでは、彼女を繋ぎとめておけないと、何かが告げていた。


 結局、それ以上彼女は何も語らず、短く続いた沈黙を破ったのは私の腹の虫だった。

 もう私に話すものはないと言わんばかりに莉緒ちゃんは明るく振る舞い、小さな部屋の中には死の雰囲気など一切感じさせない空気が流れた。

 彼女の謎は解けないまま、私の頭の中には靄だけが増え、それを払うように冷たいシャワーを浴びた。あがった後に彼女にも勧めたが、全力で遠慮するのでそれ以上は何も言わなかった。そもそもほぼ初対面の人間の家でシャワーを浴びるのは怖いか。段々と私も感覚を麻痺してきていることを感じて一人笑った。

 冷蔵庫を開けるとそこにはいつも通りいくつかの調味料と缶ビールしか入っていなかったが、外に出る気にならず、悪あがきにと戸棚の奥を漁れば一年以上前に母親が仕送りに入れた乾麺の蕎麦を発掘した。

 二人で笑ってしまって、丁度食べたかったと蕎麦を茹でた。結局麺つゆすらなくて醤油とごま油を混ぜてその場をしのいだけれど、久しぶりの誰かとの夕飯はとても美味しく感じた。

 そうして気付けば彼女について何も分からないまま、ベッドの中で天井を見ていた。

 ベッドを彼女に譲ろうとしたがソファでいいと頑なに譲らないのでその通りに。人の家に泊めろと厚かましく迫るわりに妙な所で線引きをする女の子だ。

 真っ暗にした部屋の中で私は考える。

 これから私はどうすればいいんだろう。学校に行って彼女のことを調べるべきか。そうすれば莉緒ちゃんの親御さんの電話番号も家の場所も分かる。

 それとも約束通り詮索は控えるべきか。でもその場合、明日からどうする? 彼女の手を放すわけにもいかない。

 頭の中には様々な選択肢が並び、どれが正解かなんて見当もつかない。だからこのまま寝てしまおうかと瞼を降ろした時、私の唇は勝手に言葉を発していた。

「莉緒ちゃん……?」

「なんですか?」

「いつまで、家出しているつもり?」

「……分からないです。でも、できることなら家には帰りたくないです」

「そんなに帰るのは嫌?」

「はい。それこそ死んだ方がマシかもしれません」

 家庭の問題かそれとも莉緒ちゃんの問題か。どちらにせよ家には帰れないらしい。

 多分、正解は幾つもある。でも今から私が口にしようとしていることは、そのどれでもない。間違っているけれど一番優しい選択肢。

 だって私には家に帰りたくない彼女の気持ちが少しわかる。私の体験と彼女の体験は全く違うだろうけれど、私も家に死んでも帰りたくない日々があった。家族は優しくて誰も悪くないのに、帰りたくない日々があった。その時、私には逃げる場所があった。

 だから彼女には私が逃げる場所になってあげてもいい。何故だか彼女と話していてそう思った。

「ねぇ、麻里さん」

「なに?」

「私の事、誰にも言わないって約束。守ってくれますか?」

「……うん。約束だもん」

「じゃあ欲を出してもう一つ、お願いしていいですか。……私の秘密を知らない麻里さんでいてください。今のまま。何も知らないまま私を見ていてください。……お願いします」

「……わかったよ。じゃあ、さ。私からも約束していい?」

「はい」

「私は莉緒ちゃんの事を詮索しない。だから、自殺なんて、考えないで……。生きがいっていうのかな。他にももっと生きてるって実感できることが沢山ある筈だから。……私が言っても説得力ないかもしれないけど、私も目標があったからここまで来れたんだ、だから、さ」

「麻里さんが私のこと、殺してくれてもいいんですよ」

「馬鹿言わないで」

「ごめんなさい。冗談です。……じゃあ、死ななかったらここにいてもいいですか? ……夏休みの間だけでいいです。少しの間だけ、ここにいてもいいですか?」

「……わかった。わかったよ。夏の間だけ、ここにいていいよ」

「ほんとに?」

「ほんと。ここを莉緒ちゃんの居場所にしていい。だから、その間。いなくならないで」

「……はい。……ありがとうございます……」

 これでよかった。私はこれでいい。

「もう寝よう? どうせ明日だって話せるんだし」

「はい」

「おやすみ」

「おやすみなさい……」

 意識を手放すとすぅっと全てに靄が掛かっていく。今日は疲れた。一学期が終わって、少女に出会って、夏が始まった。

 最後の自我が途切れる瞬間、莉緒の小さな声が聞こえる。その声は今にも消え入りそうで、切ない声だった。

「私の事、見捨てないでください。できれば、愛してください」

 その後におやすみなさいと付け加えるので、私は声も出さず、それに返事をするように唇だけを動かした。

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