第6章 復讐
第12話 黒髪の化け物
眩しさのあまり目が覚めた。
祐は上半身を起こした。
全身が汗で湿っていて不快だ。早く着替えたい。
それにしても、何ゆえこんなに眩しいのだろう。
窓の方を見る。
カーテンの類がすべて開け放たれ、真夏の日光が部屋に入ってきている。
祐自身が寝る前にすべて開け放っておいたのだ。
そうでなければ眠れなかった。
昨日の午中、退院し、帰宅した。
玄関を入った直後、聡一に自分の部屋へ上がるよう言われた。祐は逆らわなかった。言われるがまま自室にこもり、ベッドに身を投げ、ベッドの上で家政婦たちがかわるがわる運んできてくれる食事を取って過ごした。
日が暮れるまではそれで良かった。
祐は次第に暗くなりゆく空に異様な不安を覚えた。日が沈み切る前に部屋の灯りを点けた。
夜眠る直前、聡一が顔を見に来た。その時、祐は、この館に引き取られてから初めて、部屋を出ていこうとする聡一を引き留めた。聡一の困惑した顔を見てすぐ顔を背けたが、代わりに戸を完全に閉めないでほしいと懇願した。
戸を開けておいても、人けのない廊下は、真っ暗だった。
眠るために灯りを消した時、部屋が闇で満たされた。
耐え切れなかった。
闇の中、ひとり――それが、祐に強烈な不安感をもたらした。
そして、カーテンを開けたのだ。
山奥の屋敷の窓からは、月明かりが、星明かりが、入ってくる。電灯のない土地だからこそ明るい夜を過ごせる。
月が出ていて良かった。月に見つめられてようやく安堵し就寝した。
その結果が今の灼熱の朝日だ。
自分はおかしくなったのだろうかと、祐は溜息をついた。
明るい部屋でしか眠れないようになったのかもしれない。今後は、もしかしたら、自分は部屋の灯りを点けたまま眠るようになるのかもしれない。
今すぐ学校の寮に戻れれば良かった。寮の部屋は一人部屋ではない。夜闇に怯えて過ごすことはないだろう。まして寮の簡素なつくりとこの屋敷の豪奢なつくりは何の共通点もない。
この屋敷にいる間は――まずい、と思った。
こうして闇に怯えていることが知れたら、聡一や佳也子は何と思うだろう。
昨夜の聡一の困惑した表情を思い出す。滅多に感情を表に出さない聡一のあんな目は初めてだ。
聡一は、戸を開けながら、何を思ったのだろう。怖くて訊けない。何も言わないでいてくれたのが幸いだ。気づいていないものだと思い込むことができる。
佳也子は――身震いした。汗で冷えてきているのを感じた。
佳也子に知られたら――これ以上弱みを握られたら、どんな目に遭わされるか分からない。
そう言えば、帰宅してから一度も、佳也子の姿を見ていなかった。
このまま顔を合わせずに済ますことも不可能ではない。佳也子は基本的に部屋から出てこない。祐と佳也子が顔を合わせるのは、少なければ一日に三度の食事時だけで済んだ。今は家政婦たちが食事をこの部屋に運んできてくれている。このままこの部屋で食事をすることができれば、佳也子には会わなくて済む。
いつまでもそうしているわけにもいかない。祐はまた、溜息をついた。
溜息をついている自分に気づいて、これは良くない、と思う。溜息は口から出てくるものの中でも悪いものの一つだ。そう、教えられてきた。
机の上を見た。
そこに、携帯電話と十字架のペンダントが置かれていた。
ベッドから降りる。
十字架を握り締める。
あの時も、自分は十字架を握って祈っていた。
だが、救いはもたらされなかった。
聡一は何のつもりでここに十字架を置いていったのだろう。いつも言うように、捨ててくれれば良かった、と思う。
自分の信仰は敗北した。
自分はもう、信仰を持っているとは言えない。
神の愛を疑っている。神は自分を救ってくださらないのだと思っている。
もう、元には戻れない。
神の愛を信じられない自分はきっと救われない。
十字架を握る指に自然と力がこもった。突き刺さって痛むが、震える手の力を抑えることができない。
神の愛を信じない者の前に奇跡は訪れない。
もう、お終いだ。
何もかも、お終いだ。
十字架を、ごみ箱に叩きつけた。
もう、元には、戻れない。
溢れそうになる涙を、今度こそ堪えた。
それでも、生きていかなければならない。
信仰を失ってもなお、自分の心臓は動いている。
だからと言って自死は考えられなかった。信仰に殉じられなかった自分にそんな甘えは許されない。
赦されない。
この地獄を生きていくことこそ、自分に与えられた宿命だ。
思考することを放棄したかった。何もかも忘れて、思考も感情もない人形になりたい。
頭の中を空にしたい。
こういう時は体を動かすに限る、と祐は思った。昨日聡一にまだ当分は自室で休むよう厳命されていたが、祐の知ったことではない。自分は病院でずっと横になっていた。もう充分休んだ。これ以上ベッドの上にいたところで、余計なことを考えてしまうだけだ。
何も考えたくない。
部屋を出ようと思って、出入り口の方へ目を向けた。
そこで、祐は初めて気づいた。
長い黒髪の端が、木枠の向こう側、廊下の床の上を流れている。
背筋を冷たいものが駆け上がった。
「……佳也子?」
震える声でそう零すと、床の上を這っていた黒髪が持ち上がり、一度収縮するように木枠の向こう側へ消えた。
次の時、立ち上がったのであろう。脛の途中まである長いスカートの端と、つい一瞬前まで廊下の床の上を流れていた黒髪が、木枠へ沿うように浮かんだ。
佳也子の、白過ぎる顔の半面が、戸の端からこちらを覗いてくる。
「いつ、から……いたんだ、よ」
祐の問い掛けには、佳也子は答えなかった。老婆のそれのように細く骨張った指で戸をさらに開けると、体を部屋の中へと割り込ませてきた。
「外へ出るつもりなの」
佳也子が祐の質問に答えないことなど、いつものことだった。けれど退院して初めての遭遇がと思うと、祐は緊張せざるを得なかった。
佳也子が、目の前にいる。
棒のような足で、一歩、また一歩と、近づいてくる。
「どこへ行くつもりなの」
祐も、一歩、また一歩と、ずり下がった。部屋の中へと押し戻されていく。
佳也子の黒髪に、納戸の闇が重なった。
佳也子は闇の塊だ。あの闇が凝縮されると佳也子の形をとるのだ。
「私のいないところへ行くの」
だが、そう認識した途端、
「私のいないところはそんなに楽しいの」
祐は逆に、楽になるのを感じた。
佳也子は人間ではない。この屋敷に巣食う化け物だ。
「もう元気になってしまったの」
佳也子の白過ぎる肌や細過ぎる手足に遠慮をすることはない。
「お父様はあんなに大袈裟に騒いでいたのに平気なの」
加減など要らない。
魔は滅ぼされて然るべきだ。
佳也子の白い手が伸びた。相変わらず長袖の白いブラウスを着ていた。
暑苦しい。
気持ちが悪い。
不快だ。
佳也子のすべてが不愉快だ。
もはや誰も自分を見てはいない。
もはや何も自分を抑えられない。
もはや神の恩寵はない。
もはや守るべき倫理道徳など自分と佳也子の間には存在しない。
殺される前に殺すべきだ。
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