殉環の館
日崎アユム/丹羽夏子
第1章 蹂躙
第1話 今年も夏が始まる
三度目の夏が来た。
バスのステップを降りると、蝉の鳴き声が
この山では、蝉の声すら控えめに聞こえる。幼少期を過ごした施設周辺の木々の方がずっと騒々しかった気がする。
この山は、静かだ。
祐の背後で、バスがドアを閉めた。走行を再開する。路線バスとして当然の行ないだったが、祐は置き去りにされた気分になった。
もう逃げられない。覚悟を決めねばならない。
バスの進行方向に沿って、十数メートルほど歩く。
左手に、鉄の門扉が見えてくる。祐の胸ほどまでしかない、華奢な鉄の棒を並べただけの門扉だ。
だが、この向こう側へ行ったら、そこは、もう、外界と隔絶された別の世界だ。
横目で、門扉の脇に針金でくくりつけられた看板を眺める。
『この先私有地につき関係者以外の立ち入りを禁ず』。
祐は関係者だ。この口上では弾かれない。
門扉を開け、舗装されていない道をひとり歩き出した。
木々の枝は重なり合い、道に影を落としていた。頭上の太陽から山に潜むものたちを覆い隠している。涼しさだけが祐の唯一の味方だ。
やがて、煉瓦造りの洋館が見えてきた。壁は素焼きの色をしていて、屋根瓦は青鈍色をしている、日本の田舎町には似つかわしくない洋館だ。
山の麓の子供たちは、この屋敷を幽霊屋敷と呼んでいるらしい。
祐は、あながち間違っていない、と思う。
再度、門扉が見えてきた。
先ほどの、公道と山を隔てていた鉄の門扉と同じ素材で造られている門扉だ。ただ、高さは、祐の頭をゆうに超えている。そびえ立ち、威圧感を醸し出している。
鉄の扉は、人間が一人滑り込めるほどの隙間を開けていた。
罠だ。向こうは、自分の帰りを待ち構えている。この門をくぐって自分が顔を出す瞬間を狙い澄ましているはずだ。
たとえ分かっていても、祐には、門をくぐる以外の選択肢はなかった。その他の選択肢は、祐には与えられていなかった。
一度大きく深呼吸をした。門に軽く手をかけた。少しだけ押し、入りやすくした。
門の内側へ一歩足を進めた。
視界が晴れ、目の前に洋館の全貌が現れた。
次の瞬間だった。
突如、冷たい何かをぶつけられた。
当初何か細く硬いものを投げつけられたのかと思った。
冷たい何かは断続的に降り注ぎ、祐の顔面や胸部を苛み続けた。
動きが予測できない。呼吸がうまくできない。苦しい。
降り注いでいた。
圧に耐えながらどうにかまぶたをこじ開けると、そこに、この屋敷が幽霊屋敷と呼ばれる由縁が立っていた。
「お帰りなさい」
白いワンピースを着た、女だった。
艶のない、手入れされた感じの見受けられない黒髪は、腰の下まで伸ばされていた。真夏の太陽の下なのに、肌の色は青白く、生気を感じられない。唇は土気色をしていて、日傘の柄やホースを握る手の爪もくすんだ色をしている。
女は、右手で園芸用放水ホースを、左手で日傘を持ったまま、笑っていた。
嗤っていた。
ホースの水を止めようとする気配はない。
水温は凍えるほどでもないが、いかんせん水圧が強過ぎて何もできない。
水が口内に入った。気管に浸入してくる。
苦しい。痛い。
祐が激しく咳き込んだ。
ようやく、放水が止んだ。
両膝に手をつき、咳が止まるのを待つ。いつまで経っても止みそうにない。目がかすむ。浴びた水のせいか咳き込んで出てきた涙のせいかも分からない。
「てめ、なに、す」
咳と咳の合間にどうにか吐き出した言葉を、女は拾った。
「だって暑いのですもの」
女がホースを放り出す。管の中に残っていた水をあちこちに撒き散らしながら、ホースが力なく花壇の中に墜ちる。
花壇には、小さな品種の向日葵が、数え切れないほど咲いていた。こんな幽霊屋敷には、とても似つかわしくなかった。
「祐が汗臭いと嫌だわと思って」
幽霊のような女が、唇の端を持ち上げる。
「汗の臭いが嫌いなの」
ようやく喉が鎮まった。
祐は、正面から、女に向き合った。
「大きなお世話だ」
「でも気持ちが良かったでしょう、行水ができて」
「汗をかくのは健康な証拠だろ。俺は真っ当に新陳代謝をしてるってことだろ、お前と違ってな」
女が眉をひそめた。
祐も、眉間に皺を寄せた。顔面に力が入った。
顎から、水滴が、伝っていく。胸へといくつも落ちていく。手の甲で拭う。
「退けよ。入れないだろ」
「その言い草は何」
女はその場を動こうとしなかった。日傘を握り締めたまま、祐と相対し続けた。
「ここは私の家なのよ」
「知ってる」
祐は、すかさず返した。
「お前が帰ってくるなと言ってくれるなら入らない。帰らない」
そう言えば女は動かざるを得ない、ということを、祐はすでに学習していた。
「
「お帰りなさい」
女――佳也子は、その言葉を繰り返して、祐のために道を空けた。
佳也子の脇を抜け、佳也子の刺すような視線を背中で受けながら、玄関へと向かった。何も言わなかった。途中、一度、頬に張りつく髪が鬱陶しくて掻き上げたほかには、何もしなかった。
何らかの反応を返したら、自分の負けだ。
建物についた巨大な鉄の扉を開け、屋内へ入った。
今度こそ、扉は重かった。
その重さは、扉そのものの重量だけが生み出しているものではないだろう。祐自身が胃の辺りに抱く不快感も加算されていることだろう。
また、この屋敷での夏が始まる。
磨き抜かれた廊下に落ちる日の光は少なく、まだ日の高い時刻だというのに、屋内は薄暗かった。空調を入れなくとも、涼しく感じられる。煉瓦造りの壁は馬鹿にできない。真夏の灼熱も真冬の極寒も防いでくれる。
快適なのは室温だけだ。充満する空気は気持ち悪い。しかし何も湿度のせいではない。
紅白の石片で組み上げられた、市松模様の階段を上がる。
途中で、後ろから「坊ちゃま」と声を掛けられた。
振り向くと、家政婦の一人である鈴木が、髪を振り乱して祐を追い掛けてきていた。
「なんてことを……! すぐにお風呂のお支度を致します」
「いや、いいっす。どうせすぐに乾くんで。風呂より先に、早く、荷物を開けたいんで――参考書とかまで濡れちゃってるかも――」
「いけません、万が一風邪でもお召しになったら……!」
こんな時、祐は、鈴木を初めとする家政婦たちに申し訳なくなる。祐が悪いわけではないと思ってはいるのだが、自分がここにいると彼女らの負担が増えるのも確かだ。
万が一これで自分が風邪でもひいたら、館の主人に責められるのは彼女たちだろう。館の主人の令嬢が悪戯するのを止められなかったことで彼女たちが責めを受ける。
この屋敷には、三人の家政婦が交代で詰めている。鈴木は中でも一番若く、まだ三十代後半だと聞いた。ようやく屋敷の中に渦巻く空気を――自分の立場の弱さと、専制君主である館の主人とその令嬢の立場の強さを、華奢なその身に沁み込ませ、呑み込んだところのようだ。
本来は、呑まなくても良い毒だ。少なくとも、祐はそう思っている。
しかしこの館の主人である野秋
野秋家は、江戸時代の旗本から続く名家だ。明治維新をからくも生き残り、畑以外の何も成せないこの土地に住む村人たちの上に君臨し続けた。関東大震災の後、大正末期の話に、小作人たちから作物を取り上げて手に入れた収入でこの洋館を建てた。今や市の指定文化財であり、簡単な改修工事さえ届け出なしではできないのだそうだ。
時はすでに二十一世紀、平成ももはや二十数年を数えている。市町村合併で村は消え、この地の名前も大きな自治体の端くれに連なった。それでも、この屋敷の主である聡一はお殿様であり、聡一の一人娘である佳也子はお姫様だ。それが、祐には、信じがたかった。
信じざるを得ないのは、他ならぬ自分自身がこの屋敷に在るからだ。
自分は、聡一と佳也子のペットだ。三年前から飼われている。
大事なペットが風邪でもひこうものなら、家政婦たちが管理不届きの扱いを受けるのだ。
「――タオル」
鈴木が「はいっ?」と声を裏返しながら応じた。
「バスタオル。ください。後は自分でやるんで、部屋まで持ってきてください」
鈴木は「かしこまりました、かしこまりました」と二度も言って祐に頭を下げた。祐は溜息をつき、ふたたび前を――自分の部屋のある階上を見ながら、階段を上り始めた。靴が濡れた音を立てる。
気持ちが悪い。
この屋敷のすべてが不快だ。
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