プロローグ2(改
京は怪異の都だ。千年の昔も、今も。古い町並みの其処此処に、人ならざる影がいて、時おり玲奈の視界の隅を遮っていく。
新しい街には新しいなりの人々の暮らしと不思議が、古い街には古いなり、歴史に紐付いたその時代ごとの忘れ物が存在する。
三条大橋の欄干から名物の川沿いを写真に収める外国人。一眼レフには写らないだろう、目の前でVサインの双子。等間隔で川べりに座る恋人達の傍で、逢瀬を愉しむ江戸期の二人はずぶ濡れのまま、彼らの真似でもしているのかと疑問に思う。
生きた人の歩く流れに寄り添って、玲奈も流されながら橋を渡る。刑場の生首がじっと目で追ってくるのがいつもながら、少し鬱陶しいと思った。恨んでいるわけでもないなら、なぜいつまでもあんな姿で居るのだろう。処刑された者の目は好奇心に溢れていて、別に現状を不服とも思ってはいなさそうだから不思議だ。
いつもいつも、じっと玲奈を目で追って、無言で見送ってくれる死者だ。首だけの彼が何を考えているのかも、玲奈には知りようがない。向こうが玲奈の何を知っていて、何のつもりで見ているのかも、玲奈自身には知りようもなかった。そういう能力はないからだ。見た目が見た目だから、出来ればお近付きにはなりたくないといつも遠巻きにしている。逃げているだけかも知れない。
死者の気持ちは解からない。玲奈は視えるだけで、声は聞こえない、心は通じない。ありとあらゆる死者たちと心が通うなら、きっと大混乱で、正気でいられないだろう。
ごく当たり前の顔をして闊歩する外国の人々と肩を並べて、ごく当たり前の顔をして闊歩している生きてはない人々。様々な時代の、様々なファッションで、思い思いに歩いている。ある種、慣れっこになってしまったその光景が、けれど最近は少し変化している事を、玲奈は敏感に感じ取っていた。
どこが、と聞かれても解からない。何かが、かつてとは違う。微妙な違和感を感じ取りながらも、玲奈は周囲への注意を打ち切った。信号が赤に変わった。横断歩道の前で止まる群集を置いて、構わず渡っていくのは死者だけだ。彼らも轢かれるのは嫌なのか、ひょいと車体そのものは避けていく。霊体が持っていかれてしまうからなのか、その辺りも解からない。彼女の視ている世界の不思議は、誰も説明してくれなかった。信号が青に変わった途端に、車の流れが止まり、生きた人々が動き出す。律儀に停まっていた死者も一緒に流れ出した。玲奈も流れに身を任せるだけだ。
最近、変わったと思うことを一つ一つ頭に浮かべてみた。鞄を買い換えた。新しい冬のコートを買った。それから、姉の雪絵は数日前から旅行に出たきり、戻らない。八方手を尽くして捜しているが、なしのつぶてだ。それで何も手につかなくなった。一番大きく変わったのは、昨日だろう。その姉が、死んでいた。
脳裡にありありと浮かんでくる、白昼夢のような光景をまたぼんやりと描いた。窓に掛かるカーテンの隙間から差し込む光だけが白かった事を思い出す。
「お姉ちゃん、」
呼びかけると、透き通った姉は寂しげに微笑んだ。信じられなかった。どうして、街中でよく視るような姿になっているのかがすぐには理解出来なかった。半分透明で、目を凝らせば朧になる輪郭や、色彩の曖昧さが、普段から玲奈が見慣れた者たちの特徴に合致する。生きてはない者たちの。
行方不明になった姉が、こんな姿になって帰ってくるとは思いもしなかった。まったく予想もしていなかった事が、ひどく滑稽に感じられた。表情筋が引き攣って緩む。自然に涙が滲み、瞬きと共に頬を伝い落ちた。
真昼のダイニングキッチン、コンビニから戻って弁当の入ったビニール袋をテーブルに置いた矢先の出来事だった。電灯はまだ点してもいない、薄暗い室内だった。
長い黒髪も、色白で華奢な頸も、細い肩も、何もかもが半透明で背後の景色と重なっている。よく出来た映写機の動画にも見えたのに、姉は動画ではなかった。誰かの悪戯なら良かったのに、そうではない事が玲奈には直感で解かってしまう。目の前に居るのはホログラムなんかじゃない、姉の雪絵に間違いはなかった。自身の確信が恨めしかった。季節は冬。身を切るような冷気の這い登る、二月初頭のことだった。
それから一晩が過ぎ、玲奈は今、街路を独り歩いている。バス停へ向かう玲奈は観光客や近所から出てきた買い物客の流れに混じって歩調を合わせて進んでいる。行き交う車と人々、街に溢れるはずの音は耳を素通りした。
姉は出かけた日のそのままに、赤いニットのワンピースドレスに白いコートを合わせていた。足元は裸足で、お気に入りだったはずのブランド物のハイヒールも無くなっていた。その意味するところもまた、妹の玲奈にはよく解かっている。靴がない幽霊は、その靴を何かのメッセージにしているから裸足なのだ。
姉の雪絵は、いつもと同じ、少し悲しげな表情で玲奈を見つめていた。姉妹はいつも肩を寄せ合って生きてきたから、幽霊になっても姉の視線は変わらないのだと思った。侘びしい人生だった、儚い人生だった、姉を哀れに思った途端にまた涙がぶり返した。
雪絵は玲奈の傍に居る。何も知らない人々が、泣きながら歩く玲奈に視線を寄せて怪訝そうに過ぎていく。世界に二人ぽっちの寂しさが堪らなくなって、さらに涙は涌きあがって止め処なく零れた。
そっと寄り添い、背中から抱くように慰めてくれる姉の魂が、本当なら姉の方が悲しいはずなのに、悲しむ余裕も与えてやれない自分の弱さを教えてくれる。咽び泣きながら、玲奈は情けない自分に自己嫌悪で、姉の雪絵に申し訳がなくて、また泣いた。
優しい姉だった。自分のことより、妹の玲奈のことばかり心配する姉だった。
涙を拭う。泣いてばかりでは何も解決しない、姉は戻ってこれないのだ。気丈に心を奮い起こして記憶を探った。昨日の雪絵は、じっと視線だけで何かを訴えていた。そうだ、何か伝えることがあって、出てきたに違いないのだ。
姉の声を、玲奈は聞くことが出来ない。視ることは出来ても聞くことは出来ない。もどかしい話だが、それでもメッセージは受け取った。無くなった靴、もう死んでいるという合図。……きっと、死体になってしまっていても帰りたいのだ。助けを求めている。それとも、もっと別の意味なのだろうか。玲奈には視える力しかないから解からなかった。
こんな時には、霊能というものはそんなに都合の良いものではないと言ったある人の言葉が脳裡をよぎる。玲奈と同じ霊能者だが、タイプは随分と違った。相談出来る相手をようやく一人思い出したものの、すぐに別の懸念も思い出した。今さら、どんな顔をして会えるだろう。昔の、封印している思い出の蓋がカタカタと鳴った。
玲奈の心は依然として晴れることはなかった。むしろ、憂鬱さはいや増した。けれど、頼れるのは彼だけだ。
「安心して、お姉ちゃん。私が何とかするから。」
玲奈は姉に向けて気丈な微笑みを返し、決意を篭めてそう答えた。
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