電話番号とオムライスとコーヒー

 雨の日に女性と出会った、あの日から、あっという間に。俺は買い物帰り、ふと目を向けた花屋で、その女性の姿を見かけた。

 花屋の店員らしき人と、親しげに会話をしている。またあの女性と話したい欲望はあったが、流石にいきなり会話の中に入っていくのには抵抗があった。

 その為、ぐっと堪えてその場を離れようと思ったのだが……女性と目が合った上、手まで振られてしまった。店員さんもこちらに気付き、にっこり笑って手招きをしてくる。これで離れてしまうのも、抵抗があるわけで。

 嬉しいような気まずいような、複雑な感情で愛想笑いを浮かべながら花屋の中へと入る。


「お久しぶりです」


 あの時のように柔らかく笑う女性は、丁寧なお辞儀を見せる。店員さんも、女性のように丁寧なお辞儀をし、売り物の手入れに動いた。俺は2人に会釈を返すと、久しぶり、と笑う。


「奇遇ですね。何か用事でもあったのですか?」

「いや、夕飯の買い物を済ませた帰りです。そう言う……えっと、貴女は?」

「私は特に……。お散歩で来ただけです」


 前回会ったときは暗くてよく見えなかった為、気付かなかったが、女性の肌は透き通るように綺麗で、腰ほどある黒髪も艶やかに揺れていた。低い気温の中で薄いワンピースに薄い上着という服装は、凍えてしまうと思うのだが。

 それでも女性は、柔らかな笑みを絶えず浮かべている。その笑みが、あまりにも優しく。俺は目を離せないでいた。


「私の顔に、何か付いてますか……?」

「あっ、あぁ!! いや別に、そんな……!!」


 不思議そうに首を傾げる女性。そんなに凝視してしまっていたかと全力で目を逸らし、言葉に詰まる。


(やってしまった! 凝視した後に思い切り逸らすだなんて、前回の事も合わさって、ただのやばい奴じゃないか!)


 内心、非常に後悔した。出会って2回目で、完全にやらかしたと思った。この女性と仲良くできたらな……という密かな願望は、早くも打ち砕かれたと感じた。

 しかし女性は、またも柔らかく笑った。


「そこまで慌てることは、何も無いのでは?」


 くすくす、と可愛らしく口元を手で覆い、女性は面白そうに笑ってくれたのだ。俺はそれが、なんだか無性に嬉しくて、ついテンションが上がった。スマートフォンを取り出して、食い気味に女性へと問いかける。


「あの! 電話番号とか……交換できませんかね?」


 女性は困ったように視線をずらす。早まったかと、またまた非常に後悔した。ごめんなさい、と伏せ目がちに言われ、俺のまだ若い心は泣きそうだった。


「携帯持ってなくて……。家の番号でも、大丈夫ですか?」


 成人近くか、成人しているであろう人が、携帯を持っていないことに驚く。だが、それでも良かった。女性が電話番号を交換しようとしてくれていることが分かって、十分過ぎるほどに嬉しく、舞い上がるような気持ちだ。

 勿論です、と女性の電話番号を登録する。女性はメモできる物を持っていなかったということで、帰ったら俺から電話を掛けることになった。


「お名前、教えていただいても……?」

「あ、すみません! 道元祐介です!」

「ありがとうございます。私は……白って呼んで下さると嬉しいです。電話、待ってますね」


 女性――白はいささか嬉しそうに微笑み、先に花屋を後にした。俺は、すっかり上がりきったテンションをどうにかすべく、その場で深呼吸をする。

 深呼吸の効果は全く無かったが、続いて俺も花屋を出た。帰って白に電話できることを考えると、テンションなんて下がらなかった。



 夜。だいたい21時。

 もう帰っただろうか、今はご飯食べているだろうか、もしかしてお風呂に入っているかもしれない。そんなことを、ごちゃごちゃ考えていたら21時になってしまった。

 流石に電話を掛けないと、今度は就寝時間になってしまう。勇気を出して、白の電話番号を震えた手で押す。発信音が鳴り、俺の心臓は煩く騒いでいた。

 無機質な発信音に集中する。数コール過ぎても出る気配は感じられず、ダメだったか、と電話を切ろうと耳を離した時。


「はいっ……!」

「あっ、白さん!? 俺です、道元祐介です!」

「祐介さん、こんばんは……! 出るの遅くなってしまって、ごめんなさい」


 声が聞こえ、急いで応答した。白に呼ばれた自分の名前が、どうにもくすぐったくて口元が緩む。繊細な声が、電話越しに聞こえるというのは良いものだ。

 そして、そこから俺と白はまた、他愛も無い会話を始める。ただ電話番号を交換するだけの筈の、この電話は、目的を達成した後、いつの間にか目的を達成したことを忘れているようだった。


「もう22時になっちゃいますね。そろそろ切りましょうか?」

「あ、あの……もし良かったら今度、カフェにでも行きませんか? その、俺、白さんに似合いそうなカフェ知ってるんです!」


 食事に行きませんか、とは言えなかった。なんとか絞り出してカフェに誘うことは出来たが、言い訳に思える理由がかなり苦しい。白は笑いながら快諾してくれたが、結構恥ずかしかった。

 そして決定した日時はまさかの明日。平日は俺の仕事があるから、と白が気遣ってくれ、休日の明日に行く。軽食も多く揃っているカフェを知っている俺は、12時に今日の花屋の前で待ち合わせにする。


 それじゃあ、おやすみなさい。と電話を切る音を聞いて、スマートフォンを耳から離す。話しているうちに落ち着いてきていた心臓の音が、掛ける前と同じくらいに煩い。勇気を出した自分を、心から思い切り褒め称えたい気分だ。

 今夜は暫く眠れそうにないな、と漫画アプリを開く。それでも心臓の音はずっと煩いままで、ようやく眠りにつけたのは、1時を回った頃だった。



 目覚ましを9時にセットしておいたら、30分前に起きてしまった。二度寝をしようとして、堪える。重い身体を無理矢理動かし、洗面所へと向かう。

 口をゆすぎ、顔を洗い、髪を軽く整え、歯を磨いて、水を一杯飲む。ここまでは、平日と何の変わりもない。ここから、休日特有の時間の余裕を楽しむところだ。

 テレビをつけてニュースを見る。朝食は適当に卵かけご飯を作り、ニュースが終われば、漫画を読んだり音楽を聞いたり。10時過ぎになって、服も出掛け用に着替えた。


 待ち合わせの10分前には花屋に着くように、しっかりと準備を進めて家を出る。運良く、向かっている途中で白と合流できたら嬉しい、なんて大人らしからぬことも考えながら、歩き出す。当然、そんな運は持ち合わせてなかった。


「祐介さん! すみません、お待たせしました……」

「いや全然! 待ってないから平気ですよ」

「良かったぁ……」


 12時5分前。小走りで来た白は、不安そうだった。俺の言葉を聞いて、ほっと安心した表情を見せる。その表情に不覚にも、どきっとした。


「カフェって、初めて行きます」


 隣に並んで歩く白が、楽しそうな様子で呟いた。白のような女性なら、女子会などで何度も行っているかと思っていたが、どうやら思い違いらしい。


「友達とかと、行ったりしないんですか?」

「あ……。そんなに、友達がいなくて……」


 悪い事を聞いた。逆に、可愛すぎて女子からハブられたり……なんてこともあるだろう。そこまで思い至らなかった俺の思考を恨む。本当にそうなのか否かは置いておいて、だ。

 気まずくなってしまった空気も束の間。すぐに目的のカフェへと着いた。木を基調とした、シンプルだか暖かいカフェだ。俺はここが好きで、1人でも何回か来たことがある。

 入口のドアを開けて、白に中に入るよう催促した。だが、初めてきたところに怯えているのか、遠慮しているのか、渋ってなかなか入らない。

 右手でドアを押さえながら、左手で白の肩を抱く。目を見開いて更に遠慮し始めたことは気にせず、半ば押すようにして白を中に入れた。左手がピリッと痺れるような感覚があったのは、静電気だろう。

 中に入っても、白は遠慮を続ける。というよりは、色々なものに気を取られて、声をかけてきている店員さんに気付かない。

 ここまでカフェを珍しそうに見る人がいることが、俺には珍しく、面白くもあった。店員さんに迷惑をかけない程度に白を放置すると、席へと引っ張った。


「カフェ……とてもお洒落なところですね……!」

「ここは1人の客も多いんですよ! 俺もよく1人で来ます」


 嬉しそうに辺りを見る。だがいきなり、白は視線を落とした。そして何故か、俺の左手の心配をする。


「怪我なんて……突然、何故ですか?」

「えっと、あの……な、無いなら良いんです!」

「言いたいことがあるなら、遠慮せず……」


 黙り込む白。何かを言おうとして、やめて、を繰り返す。そして右腕をテーブルの上に伸ばした。袖を捲り、綺麗な素肌を露わにする。意図が、全く読めない。


「優しく、触ってみてもらえますか」


 いや本当に意図が読めない。突然態度が一変し、腕を触ってみてなど、俺と同レベルのやばい奴だったのでは、と疑ってしまう。

 まさか白に限ってそんな筈がない、と自己暗示を密かに繰り返し、右手を白の腕の上に普通に乗せ――鋭い痛みが指先に走った。

 何が起こったのか理解できず、血の出た指先と白の腕を交互に眺める。すべすべで綺麗な腕を触ったら血が出た、だなんて一体どう理解しろというんだ。

 震えた目で、俺を見てくる白。黙ったままだったので、俺はもう一度、おそるおそる右手を近付けた。

 触るか触らないかのところで、指先にピリッと痺れる感覚があった。先ほど肩を抱いたときと同じ感覚だ。そのまま指先を腕に押し付ける。痛みは明確になり、指先を離して見ると血が出ていた。


「……体の中にナイフでも仕込んであるんですかね……?」


 白は相変わらず、震えた目で俺を見ていた。半笑いの冗談に、何も反応を示さない。ますます状況が理解できなくなって、むしろ恐怖を胸の奥で感じた。

 俺の血がついた腕をそのまま、袖の中にしまう白。互いに無言のまま、周りの客の小さな話し声だけが耳を通り過ぎていく。


「……私、体に棘が生えてるんですよ」


 ようやく言葉を発した白から出たのは、やはり理解のできないものだった。俺は何も言えずに、白の言葉をただ聞いている。


「だから触れば今みたいに血が出ます。……それでも、信じられないとは思いますけど……」


 触って血が出たのは、身をもって体験した。理解できなくても分かった。けれど、俺が今1番理解できていないのはそこじゃない。なんで体に棘なんかが生えているかってことだ。


「なんで棘なんか……?」

「棘が生えてるようには、見えなかったでしょう。服で抑えられますけど、全身に生えているんですよ」


 白が笑う。俺の問いかけを無視して、何かを抱えているような笑顔を見せた。理由を教えてくれなくても良いから、そんな笑顔を見せてほしくはなかった。なんだか、息ができないような苦しさを感じたから。


「……変、でしょう」


 寂しそうに、辛そうに、白は笑った。俺は真っ直ぐ白の目を見て、こう答えた。


「棘が生えてるから、なんだって言うんですか。何かおかしいことありました? そんな小さなこと、俺は気にしませんよ!」

「……そっかぁ」


 今度は柔らかく笑う白。強張った顔を、ふにゃっと崩して、嬉しそうに。そんな顔を覚えてしまっては、もう二度と悲しそうな顔を見たくなくなってしまう。

 指先の血をティッシュで拭った後、店員さんを呼んでオムライスとコーヒーを頼んだ。白も同じものを頼み、さっきまでのやり取りは無かったように、新しく他愛もない会話を交わした。


 俺は確実に、白に惹かれていた。棘の存在には疑問を持つけれど、白と過ごす時間がとても安心できて、心地良くて――好きだった。

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