第3話

<はじまり>


 川本里沙はアメジストのネックレスを所持している。海外を飛び回って滅多に顔を見せない母親から、十二歳の誕生日に贈られた物だ。その時は単純に喜んだが、首に下げて登校する訳にもいかないので宝石箱に眠らせるしかなかった。

 父も知らない秘密の存在は、彼女の人格のちょうど心臓のあたりに規則的なパルスを与えている。里沙は輝くものに強く惹かれる。日常と隔絶する特別なオーラを放つ存在を見ると胸が痛む。素敵なものを見てうれしいのに、手が届かないのがひどくもどかしい。


 思う。


 いつになればあのネックレスをつけていいだろうと。少なくともまだその時は来ていない。

 川本里沙が織原七重に出会ったのは中学生の時だった。当時から織原は桜満開で変人だった。彼女は我慢を知らず、嫌なことがあればすぐに暴れる。テストの成績も劣悪だった。

 里沙にしてみれば第一印象は最悪だ。織原七重とは席が隣同士だった。国語の授業中に七重が話しかけてきて、無視したら殴られた。教師が制止して謝れと言ったが七重は決して聞き入れなかった。里沙はこいつとは関わるまいと決め込んだ。

 あまりに幼稚な七重だったが、いじめられることはなかった。クラスの中では世話を要するペットとして合意が取れていた。甘やかせば彼女は暴れなかった。

 七重は勉強もできない。全くできない。授業を抜け出して教師の手を煩わせることも多々あった。そんな彼女も、美術や音楽の授業では非凡なセンスを発揮して周囲を驚かせた。機嫌が良い時には冗談で人を笑わせることも多かった。

 七重はその感性を自分の容姿に向けるようになってから輝き始めた。めきめき美しくなった。多くの男子の気を引いたし、それでいて誰とでも屈託なく話す無邪気な性格が女子の好意をも勝ち取った。

 里沙はクラスの空気に敏感だった。それまではみそっかすの意でしかなかった七重の「特別」が尊い意味での「特別」へと裏返っていったとき、里沙は七重に抱いていた軽蔑感をすぐに捨てた。彼女に嫉妬さえした。本心を言えば、自分が彼女のようでありたかった。そうなればあのネックレスもつけられるのに。里沙の心に「七重になりたい」という想念が浮かび、けれどすぐにしまいこんだ。彼女は彼女だ。自分とは違う。川本里沙の願望は、心の奥にそろりと隠れる。岩陰で眠る魚のように。

 里沙は七重に飛びついた。席が隣合っていたことも幸いして、孤立気味だった彼女を真っ先に自分のグループに招いた。家の方向が違うのに無理して一緒に下校したりして、七重は自分の親友だと主張した。七重は素直に喜んだ。



 里沙と七重は同じ公立の高校に進学した。成長した七重はさらに美しくなり、街で声をかけてくる男とよく遊んだ。

 ある日、七重がアイドルのオーディションに応募した。それを本人から聞いた里沙は、ああまた妙なことを始めたな、としか思わなかった。率直に言って七重は可愛い。ふわりと華があってお姫様じみている。歌だって上手い。でも常識的に考えてプロデビューなんて有り得ないだろう。

 だが七重は最終選考を突破した。大勝利を収めてきたのだ。その知らせは里沙の心臓を打った。直撃だ。ドン! 里沙は大喜びを演じて祝福のメッセージを贈りながら、内心穏やかではいられなかった。

 人間は、女の子は、アイドルになることがあるんだという実感。自分と七重の間に突如現れた大きな隔たり。嫉妬。自分もそうなりたいという羨望。このまま普通の人生を送るのかという焦り。大事なものを七重に奪われたような気分になった。元から自分のものではないのだが、では、この失意の感情は何だ。

 里沙は七重との関係により強く執着するようになった。明らかに七重を特別扱いするようになった。七重を見る目が変わったのはみんな一緒だが、里沙は他の友人への応答が疎かになったのだ。里沙に自覚はなかったが、その行為は少なからぬ顰蹙を買っていた。エゴの取り繕いが一番下手だったとも言える。

 里沙はエスカレートしていった。七重の動向を見張って逐一口を挟んだ。普通ならすぐに煙たがられるところだ。

 しかし七重は気にしない。彼女は普通の人間ではなく、良くも悪くも常識が無かった。里沙の干渉も執着も、腕に抱きついてくる猿くらいにしか思わない。二人の粘着と無頓着の間にはあまりに隔たりがあったため、逆に衝突も起こらなかった。

 七重はいつだって自由に振る舞う。里沙はそれを咎めて文句を言う。七重は笑いながら適当に謝るがなにも反省しない。里沙は一人で振り回される。

 里沙は七重と同じ位置に移動したいのだ。七重のそばにいたいという思いが一つ、そして狂おしく激しく、七重のようになりたい、という思いが一つ。

 里沙はアイドルになりたかった。しかしなりたいだけだ。実現可能な夢なのか、そうなるためにはどうすればいいか、そこまでは自分では考えられなかった。アイドルになりたいと言ったって、学校生活や勉強を無視する訳にはいかない。彼女はいつも思う。チャンスさえあれば自分も七重に並ぶのに。

 里沙はもどかしかった。



 モニターで歌う七重を見て、鏡で自分の平凡な器量を見てため息を付いて、残酷な対比は苦しくて、だけど七重を見るのはやめられないし、自分の顔も否応なく目に入ってきて、七重も里沙をぞんざいに扱うようになり、晴れない嫉妬と執着はいつしか徒労感に変わっていき、そんな毎日を百五十七回繰り返してから川本里沙は自殺した。

 アイドルハザードはここから始まる。



<黒野宇多>


 朝のホームルームで、担任から川本里沙の死を告げられた。

 すぐにでも走り出したくなる衝動を抑制する。事態はどう見ても異常だった。どこに問題があり、何をすればいいかも明らかだ。だけどわたしは思いとどまり、浮いた腰を椅子に落とす。目を閉じる。口を閉じる。うつむく。すべての神経を自分の内側に向けて静寂の中に沈める。座して黙祷する。意識は底まで降り着いて、淡い光が散らばった。

 いつもわたしは、目的に向かうための最善で最大効率の方法を模索し続けている。あらゆる時間で熟考を続けて、答えが定まれば即座に行動に移る。だけどこの大原則から外れる例外もある。知人の死はそのひとつだ。今日存在しているものは明日も存在している……人の心はそんな期待を前提にして回っている。隣人の死というものは、そこに大きな穴を空けてしまう。バランスを瓦解させる。本人がどれだけ否定しても。人の命というものが、莫大な維持コストを支払ってでも守る価値があると高く評価される由縁だ。

 川本里沙。口数の少ない静かな子だった。彼女と話したことはほとんどない。直接に言葉を聞いたのもわたしが話しかけた二度だけだ。



 一度目は六月の雨の日。中休み。彼女は教室の隅で、中身を隠すようにして本を読んでいた。表紙にもカバーをかけていた。

 彼女のことはまだよく知らなかった。直に接しなければその人は分からない。すべてを把握するのはわたしの習性だ。わたしは彼女に近づいた。斜め後ろから本の中身が見えた。鮮明なカラーで貝の写真が載っている。彼女は貝の本を読んでいた。生態や漁業との関係が説明されている。写真付きの雑学本のようだった。

「貝、好きなの?」

 集中しているところに話しかければ、どう切り出しても唐突にならざるを得ない。彼女はびくりと振り返った。けどわたしを見る目は落ち着いていた。彼女は驚いていない。声をかけられる前から視線に気づいていたのに、それに反応できずにいたのだ。

「うん。模様が綺麗で……」

 分かりやすい理由だった。適当に一言で説明を済ませたいならそんなところだろう。実際彼女に、貝の模様を愛でる瑞々しい審美眼があるのは知っていた。けど彼女が貝を好む理由はそれだけではないはずだ。その生態にも思いを馳せていたのだと思う。

「それ、写真集じゃないんだね」

「あ、うん。ムックなの」

「面白い?」

「うん。このイワガキとか、美味しそうでしょ? 独特の渋みがあるらしいよ」

「食欲で見てたんだ川本さん」

「あ、いやそれだけじゃないけど」

 かつて交わした会話の再生。外界を遮断した意識の中で、わたしは川本の死を悼む。どれだけのものが失われたのかを確かめるために。時間は費やされるが、それでも必要な手続きだった。これを怠ると、感性が曇って直感が使えなくなる。思考が理屈頼みになり、発想が言語で意識している枠組みの中だけに閉じこめられてしまう。意志決定の選択肢が激減する。

 たっぷりと五分使ってわたしは彼女を弔った。さようなら川本さん。死後があったらまたよろしくね。手当てしたばかりの風穴のふちで、ぷくぷくと小さな泡が弾ける。

 比喩表現でぼかしたのは、このあたりが認識の地平線だからだ。霊識のメカニズムはデリケートなので、下手に言葉で解釈しようとすると傷つき、程度が過ぎれば壊れてしまう。光に晒すだけで情報が灼き消えてしまうフィルムのように。わたしは静けさの部屋を後にして、黙祷から現実に戻る。


 さてと。

 放課後になって廊下に出る。寒さに備えてカーディガンを羽織った。廊下の窓は曇っている。外は小雨だった。荒野に連絡を入れる。すぐに来るだろう。

 待っている間に思い出す。



 川本里沙と二回目に話したのは二学期の始めだった。

 7eに心酔し、傾倒している人間は多い。織原七重本人が通うこの学校内でなら尚更だ。川本里沙も夏休みを境にして7eに狂わされた。彼女は変わり果てた姿を晒した。「おっはよーうううわお!」という彼女の一声で、教室は凍りついた。

 制服と鞄につけた、虹色に輝く無数の7eバッヂ。イヤホンからだらしなく漏れる音楽。7eの歌だろう。ピエロみたいにどぎついべた塗りのアイライン。分厚いくちびるをテカらせるリップ。太い黒眉を目立たせてしまうノイズ入り薄色茶髪。自己主張過剰な跳ねっ毛パーマ。安易な7eの模倣。7eのファッションは非凡な美貌があって初めて成り立つものだ。はっきり言って似合っていなかった。無様だった。彼女が元々備えていた大福のような愛嬌は見る影も無い。メイク時に彼女は鏡を見ただろう。しかしそこに映る現実は見ていなかった。彼女は自分の認識を歪めて7eに似た自分を幻視していたはずだ。その幻想とは逆行して彼女の外見は歪んだ。それは精神の歪みをも現していた。

 地味な自分から逃げ出そうとした変身のし損ない。バンドで隠したリストカット。

 痛々しかった。



 これの何が異常かと言うと、わたしのクラス内で起こったことだからだ。

 わたしは共感する。周囲の人間の感情をテレパスのように読み取り続け、快不快を共有する。そのように出来ている。だからわたしはクラスメイト全員の居心地よさを最大化するために、自前のSNSを提供しながら時には発言力、時には暴力を使ってみんなの感情相関図をコントロールし続けていた。特に、攻撃ベクトルが特定一人に集中する特異点の発生する兆候があれば優先してこれを摘んでいた。卒業するまで限定で、わたしはみんなの心を守る。

 現状への強い不満が無ければ、変身願望は生まれ得ない。わたしが構築したユートピアの片隅で豊かな読書世界に身を浸していた川本里沙に、自分を変えたくなるような動機は元々無かった。

 屈折してしまった彼女が何らかの悩みを抱えていたのは確実だ。しかし彼女はそれを悩みとは捉えなかった。むしろ希望と見た。だからわたしにも相談しなかった。ではなぜそこまで彼女の認識は歪んでしまったのか。それは小さく無害であった願望を、膨大なエネルギーによって膨らまされたからだ。現実と理想の絶望的な隔たりを希望に見せかけるたちの悪い妄想が彼女の精神を侵したのだ。彼女にそれをしたのは誰か? 誰ならできる? わたしなら出来る。だけどそれはわたし自身を苦しめる愚行だ。馬鹿なことはしない。なら誰か。誰が彼女を狂わせたのか。強い感情放射を持った者。川本里沙の隣にいた者。答えは決まりきっていた。


 7e。


 織原七重。


 芸術性を買われてアイドルになるくらいだ。平均から大きく外れた人間だとは思っていた。彼女と対面したときも、身振りひとつで見る者に良い印象どころか快楽までをも与える特殊な自意識過剰さが感じられた。計算や訓練で出せるものではない。天性だろう。そこらの人間には決して真似できない。自己制御に長けたわたしならば、やろうと思えば意識振動の周波数を調律して彼女のパーソナリティを模倣することは出来るかも知れない。あんなものを取り入れたら精神を消耗して五分と保たずに気を失ってしまいそうだ。暴走の危険もある。制御を損なえば、わたし自身が織原七重に染まりきる。戻れなくなってしまう。それだけ彼女の我は強く、精神構造は人並み外れて異質なのだ。

 川本里沙が無惨に歪んだのを一目見て、わたしは織原七重の魅力に毒性があるのを確信した。彼女が展開する美しい世界に陶酔するのはとても心地よいことだろう。だがその快楽は強烈過ぎる。現実離れした世界観を感情の源泉に深く刻まれ、七重なしではいられなくなる。満たされない渇望が苦しみを生み、そしてそのことを自分ではどうにも出来なくなるのだ。自律心の崩壊。堕落。皮肉にも彼女自身の歌がその本質を示している。雨のように腐ってく。城のように朽ちていく。

 痛かった。わたしの心は栓抜きを刺されたようにキリキリと裂けて出血した。川本自身もまだ自覚できていない無意識の苦しみを、わたしは感知していたのだ。彼女の醜態を「二学期デビューし損ねた馬鹿がいる」と笑って済ませることはわたしには出来なかった。わたしは対処した。

「あーの川本さん」

 休み時間になってからわたしは、変わり果てた川本里沙に誰よりも先に声をかけた。

「きゃー宇多ちゃあんっ! なーああにいー?」

 川本里沙は満面の笑みで返事をしてくる。その痛々しさを否認しながら。首を九十度も傾けて。重力にもたれて涅槃に身を浸すような独特の仕草は7eの十八番だ。それを川本は自分の体で再現しようとしている。夏休みの間にも練習していたと見える。そして今は7eと同等の魅力でみんなの羨望を引き寄せる自分を幻視しているのだろう。実際には、半狂乱で頭を振り回す鬼相の夜叉がサルのような奇声を上げているだけだ。怖い。わたし以外のみんなの怯えが伝わってきた。

「里沙ちゃん」

 わたしは彼女を名前で呼んだ。精神距離を速やかに詰めた。

「ちょっと里沙ちゃんに話があるんだけど、一緒に来てくれないかな?」

「えー宇多ちゃんがわたしに? なんだろお? いいよーいくいくー」

 わたしは教室を出る。川本はぴょんと立ち上がってついてきた。よろしい。彼女は無防備になっている。

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