ギュスターヴ・フローベール「聖ジュリアン伝」(『三つの物語』より)

雨里

第一章

 ジュリアンの父と母は、森のただなか、丘の中腹にある城に棲んでいた。

 城の四隅には鉛の鱗屋根で覆われた尖塔が立ち、城壁の基部は岩塊に支えられ、堀の底へと垂直に落ち込んでいる。

 中庭の敷石は教会の床のように掃き清められていた。雨の日には、竜をかたどる長い雨樋が、下部にあるその口から雨水を水槽へ向けて吐き出していた。どの階の窓の桟にも彩色された陶器の鉢が置かれ、バジルやヘリオトロープが花をつけていた。

 杭を立てた二のアンサントの中には、果樹園と花々の組み合わせが数字を描き出す花壇、涼をとるための葡萄棚の拱門アーチ、そして小姓たちの娯楽の場であるペルメル遊技場(訳注:木槌で球を打って得点を競う遊び。ゴルフやクロッケー、ビリヤードの前身)があった。その反対側には、犬小屋に厩舎、製パン場や圧搾場、穀物庫などが建ち並んでいる。城の四囲には緑の牧草地が広がり、いばらの垣根に囲われていた。

 この地は長らく平和であったため、落とし格子は上げられたまま、堀には水が満たされてはいたが、狭間胸壁の隙間には燕が巣をかけていた。昼のあいだは、弓兵が幕壁のうえで哨戒にあたってはいたが、太陽がつよく照りつけはじめるや、物見櫓のなかへと引っ込んで、修道士よろしくうとうととまどろむのが常だった。

 城のなかのいたるところでは、鉄具が鋭い光沢を放ち、部屋部屋にかけられた壁掛けが防寒の役を果たしている。衣装庫には衣類がぎっしりとつめこまれ、貯蔵庫にはワイン樽が山と積まれている。そして、木製の櫃には金袋がつめこまれ、まるでその重みにたえかねるかのように、ぎしぎしと軋んだ音を立てるのだった。

 武器庫の中には、戦旗と獣の頭部のあいだに、あらゆる国と時代の武器と防具がところせましと置かれていた。アマレク人の投石器、ガラマンテス人の槍、サラセン人の短剣、ノルマン人の鎖帷子までもがある。

 厨にある焼串は牛を一頭丸焼きにすることができたし、礼拝堂は王の祈禱室のように豪奢であった。城内の離れた場所には、ローマ時代の蒸し風呂さえもありはしたが、それは偶像崇拝者たちの風習であり、キリスト教徒の善き領主にはふさわしくないとして、使われなくなっていた。

 ジュリアンの父は、いつも狐の毛皮を身にまとい城内を歩きまわっては、臣下のものに正義を下し、近隣のいさかいを調停するのを習いとしていた。冬のあいだは雪片が舞うのを眺めながら、語られる物語の数々に耳を傾ける。だが、春になり晴れ間が戻ってくるや、いそいそと騾馬にまたがり小道を辿っていく。そして、緑萌える小麦畑の縁に辿り着くと、小作人たちと言葉を交わして助言を与えるのだった。若い頃に幾つもの冒険を経験したすえに、彼は高貴な家柄の姫君を妻に娶った。

 ジュリアンの母はとても色が白く、やや高慢ながらも生真面目な性格をしていた。彼女が扉口をくぐるたびに、ヘニン(訳注:十五世紀の円錐形の婦人帽。先端からベールを垂らす)の先端は扉の楣石に触れ、歩くたびにドレスの裳裾が後ろに長く引きずられた。召使たちはみな、修道院であるかのように規則正しく律せられていた。ジュリアンの母は毎朝、まずは小間使いに仕事を割り振り、次にはジャムや軟膏づくりの様子を監督し、その後は糸を紡いだり、祭壇布に刺繍を施したりした。神に祈りを捧げ続けたおかげだろうか、彼女はついに息子をひとり授かった。

 城内は歓びに沸き返った。祝宴は三日四晩にわたって続いた。花びらを敷きつめた床は篝火に赫々と照らされ、そのうえでは伶人が竪琴を爪弾く。人びとは稀少な香辛料をふんだんに用いた、仔羊ほどにまるまると太った鶏を堪能し、侏儒がパテのなかから飛び出してくる余興に笑い興じる。訪れる客人は次から次へと引きも切らず、酒を満たすための盃はとうとう足りなくなり、角笛や兜が代わりに用いられた。

 出産を終えたばかりの奥方は、宴には加わらず、ひとり静かに褥に横たわっていた。ある時、ふと目を覚ますと、月光がゆらめく影のように窓からしのび入るのを目にした。そこにいたのは、修道服を身にまとった一人の老人である。腰には数珠をさげ、肩に頭陀袋をかけた姿は、隠者さながらであった。老人は枕元に近づいてくると、唇を動かすことなくこう告げた。

 ――お歓びなされよ。そなたの息子は聖者となろう。

 彼女は、悲鳴をあげようとした。すると、老人は月光のなかへとしのび入り、ゆっくりと大気のなかへ溶けるように消えていった。その瞬間、祝宴の歌がひときわ大きく響きわたった。天使の声が聞こえてくる。奥方は、ふたたび褥に身を横たえた。柘榴石の枠に収められた聖者の遺骨が上から見下ろしている。

 翌朝、召使に訊ねてみるも、みなが口をそろえて隠者など見なかったと云った。夢だろうか、うつつだろうか。いずれにせよ、これは天の声にちがいない。そう思いはしたが、驕慢の罪をおそれ、彼女は堅く口をつぐんだ。

 宴が果てたその朝、ジュリアンの父は城門の外まで饗宴の客を見送りに出ていた。最後の客を見送ったその時、朝靄のなかからひとりの物乞いが、彼の前に姿を現した。それは、鬚を三つ編みにし、両腕に銀の腕輪をつけたジプシーであった。燃えるような双眸をしたその男は、まるで突如霊感に打たれでもしたかのように、切れ切れの言葉を紡いだ。

 ――お前の子……! 多くの血と、多くの栄誉……つねに祝福され……皇帝の血筋に……!

 男は身をかがめて施しものをひろうと、草むらの中へと姿を消した。

 ジュリアンの父は左右を見わたした。四囲をよばわってみるも、誰もいない。風が吹きつけ、朝靄を吹き飛ばしていく。

 彼は思った。あまり寝ていないせいで頭が疲れているから、きっと幻を見たのだろうと。

 ――こんな話をすれば、みなに笑われてしまう。

 予言ははっきりとしたものではなく、本当に耳にしたのかどうかも定かではない。それでも、父はわが子を待ちもうけている輝かしい未来に、酔いしれずにはいられなかった。

 夫妻はたがいにたがいの見たものを秘密にした。だが、二人のいずれもが、ひとしく強い愛情でわが子をいつくしんだ。神に選ばれし者として、敬意を払い、細やかな気遣いを怠らなかった。ジュリアンの寝台には軽やかな羽毛がしきつめられ、鳩の形をしたランプの灯りのもとでは、三人の乳母が代わる代わる嬰児をあやした。薔薇色の頰と青い眸の赤ん坊が産着にくるまれ、錦繍ブロケードのマントをつけ、真珠のあしらわれた帽子をかぶっている。その姿は幼子イエスさながらであった。赤ん坊は歯が生えてきたときも、一度たりとも泣くことはなかった。

 ジュリアンが七歳になったとき、母は歌を教えることを決めた。父は、勇敢な若者となるよう、大きな馬の背に乗せてジュリアンを連れ出した。高い馬の背の上でも、怖がるどころか楽しそうにはしゃいでいる。ジュリアンはまたたくまに軍馬にかんすることに精通していった。

 博識の老いた修道士がジュリアンに聖書の教えとアラビアの記数法、そしてラテン文字と羊皮紙にかわいらしい絵を描くことを教えた。二人は小さな塔の天辺にこもり、喧騒からはなれた場所で、ともに勉学に勤しんだ。そして、勉強がおわるとそろって庭へと降りてきては、花々について学びながらゆっくりとそぞろ歩くのだった。

 そのような日々のさなか、ときに城下の谷あいの道を、東洋風の身なりをした歩兵に先導されて、荷を積んだ家畜の群れが通っていくことがあった。ジュリアンの父は、それが隊商であることに気がつくと、彼らのもとへ従僕を遣わした。言伝を信用してもらえたものか、外つ国の商人は道を外れて、城内へとやってきた。応接間に招じ入れられると、商人は櫃のなかから、さまざまな品を一つ一つとりだして見せた。天鵞絨ビロードや絹の布、金や銀の細工物、希少な香料にいったい何に使うのかもよくわからぬ品々――。手荒な目には少しもあうことなく、それどころか商人は多くの儲けを得て、ほくほく顔で城を辞していった。

 また、あるときには、巡礼の一団が一夜の宿を求めて、戸を叩くこともあった。暖炉の前で憩う彼らの衣服からは、もうもうたる蒸気があがる。巡礼たちは、腹がくちくなったのちは、旅の様子をつぶさに物語った。泡たつ海を漂流したこと、灼熱の砂漠のなかを歩き続けたこと、野蛮な異教徒の様子や、シリアの洞窟、聖なる秣桶、そして聖墓への道行き――。このようなことを語り終えたのち、彼らは外套につけた貝殻を若様へと云って、ジュリアンへと差し出すのであった。

 父は昔の戦友をしばしば饗宴に招いた。父と父の友人らは、酒を酌み交わしながら、攻城兵器をもちいての城攻めや戦いで負った名誉の負傷など、戦場での日々を互いに語り合った。その話に耳を傾けながら、ジュリアンはいくども感嘆の叫びをあげた。それゆえ、ジュリアンの父は、成長したらこの子はきっと征服者となるにちがいないと考えた。一方、ジュリアンの母はそれとは別のことを考えていた。晩禱の後、道端に伏した物乞いのあいだを歩きながら、ジュリアンがつつましくも気品にあふれたしぐさで、財布からお布施をとりだすのを見るたび、この子はきっと大きくなったら大司教になるにちがいないと思っていた。

 礼拝堂でのジュリアンの席は、両親の傍らにあった。典礼がどれほど長くかかろうと、ジュリアンは帽子を床に置き、その間中ずっと両手を組んで祈禱台に跪いていた。

 ある日曜日のことである。ジュリアンはミサのさなかにふと顔をあげると、小さな白い鼠が壁に開いた穴から出てくるのを目にした。鼠は祭壇前の石段のうえを右へ左へいったりしつつ、ちろちろと走りまわった。それからもときた方向へ走っていくと穴の中に姿を消した。もしかしたら来週も、あの鼠の姿を見かけるかもしれない。ジュリアンは、その考えににわかに動揺した。その後、思ったとおり幾度となく鼠の姿を見かけたため、いつしかジュリアンは日曜になるたび、鼠が現れるのを待ちかまえるようになった。うんざりどころか、しまいにはすっかり腹を立ててしまい、それなら鼠を追い払ってしまおうと考えた。

 ミサの後、ジュリアンは扉を閉めきると、石段のうえに菓子のかけらをばら撒いた。そうしたうえで、穴の前に棒を手にして陣取り、鼠が現れるのをじっと待った。

 何時間も待ちつづけた挙句、ようやく薄紅の鼻先がちらりと覗いた。全身が穴からすっかり出てきたところで、ジュリアンは棒をさっと軽く一振りした。小さな体はただそれだけで動かなくなった。ジュリアンはその前で茫然となっていた。血のしずくが床を汚している。ジュリアンはそれを袖で拭うと、死骸を外へ投げ捨てにいった。そして、このことについては誰にも明かさなかった。

 城には庭園があり、そこにはさまざまな種類の鳥が植物の種をついばみにやってくる。そこで、ジュリアンは葦で筒をつくり、そのなかに豆を込めて豆鉄砲をつくることを思いついた。木々のなかから鳥の囀りが聞こえてくると、そっと傍へと近寄っていき、筒口を上へ向けて頰を膨らませた。すると、鳥はジュリアンの肩のうえに、雨のようにぼとぼとと落ちてきた。ジュリアンは自分の賢さに、つい笑わずにはいられなかった。

 ある朝のことである。ジュリアンが正面入口を通って城内へ戻ろうとしているとき、胸壁の出隅で大きな鳩が胸をふくらませて日向ぼっこをしているのに気づいた。ジュリアンは立ち止まり、その様子をじっと眺めた。壁の隙間にある礫を手に取るや、片腕を振り上げる。すると、投げた石は命中し、鳩はばさばさと堀の底へ落ちていった。

 ジュリアンは底へと駆け下り、やぶをかき分けた。犬のように俊敏な身のこなしで、落ちた鳩を探し回る。鳩は翼に怪我を負い、体を痙攣させながら、水蠟樹イボタノキの枝のはざまに引っかかっていた。

 そのしぶとさにジュリアンは苛立ちを覚えた。鳩を両手で締めあげる。すると、手のひらには痙攣が伝わってきた。ジュリアンの心臓はどきどきと高鳴り、野蛮で狂おしいまでの歓喜が満ちていく。鳩がびくりと一つ大きく震え、ついに動かなくなったそのときには、恍惚のあまり気を失ってしまうところだった。

 その晩、夕餉のあいだに、ジュリアンの父は、そろそろ狩猟の仕方を覚えてもいいころだろうと云った。父は狩りの愉しみを綴った古い手帖をとってきた。そのなかには、教師が生徒の質問に答える形で、どのようにして猟犬や鷹を調教するか、罠の張り方、糞の跡から鹿を見つける方法、足跡から狐を、爪跡から狼を見つける方法などが書かれている。他には、獣道を見わける方法、どのようにして獲物を追い立てるか、獲物は通常どこに隠れているか、狩りに最適な風向き、そして最後には勢子の声のあげ方を列挙し、猟犬に獲物を配分するときの規則が記されていた。

 ジュリアンがこういったすべてを諳んじられるようになると、父はジュリアンのために猟犬の一群を編成した。

 まずは、気性が荒く、ガゼルよりも敏捷な二十四頭のバルバリ(訳注:エジプト西部から大西洋岸アフリカ北部にかけての地域)のレトリバー。次に、主人に従順で、赤地に白の斑のある十七組のブルターニュ犬。この犬種は、胸部が発達しており、大きな声で吠えたてることができる。逃げる猪を追いたて、危険をものともせず攻撃するのは、熊のような剛毛のはえた四十頭のグリフォン犬である。驢馬ほども大きく、燃えるような毛色のタタールのマスチフ犬は、広い背中とまっすぐな脚を持ち、野牛を追いたてるのに向いている。スパニエル犬の黒い毛並はまるで繻子のようにつややかに輝き、タルボット・ハウンドの鳴き声は、ビーグル犬ほどにも大きい。別庭で、鎖をならし目をぎらつかせながら唸っているのは、八頭のアラン犬である。これは、馬上の人の腹の高さまで飛び上がることができ、獅子をもおそれぬ勇猛な犬である。どの犬も、小麦のパンを餌として食べ、石皿から水を飲み、響きのよい名を持っていた。

 鷹のほうは、猟犬よりもさらに優れたものだった。ジュリアンの父は、善き領主として金に糸目をつけず、遠い異国の絶壁や凍てつく海の岸辺で捕獲された、さまざまな種類の鳥を手に入れていたからである。コーカサスの鷹、バビロニアの隼、ドイツの白隼――。鳥たちはみな藁葺きの小屋のなかに入れられ、大きさ順に止まり木につながれていた。小屋の前には芝土の小山がつくられていたが、それはときどき鷹を止まらせて慣らすためのものだった。

 猟のために袋網に罠、落とし穴などさまざまな仕掛けがつくられた。ジュリアンたちは、しばしばジャーマン・スパニエルを狩りに連れ出した。野を進んでいくとほどなくして、犬たちは獲物を嗅ぎつけ立ち止まる。すると、猟犬係は慎重に一歩一歩近づいていって、ぴくりとも動かぬ犬の上から巨大な網を投げかける。命令一下、犬たちが吠え声をあげる。すると、鶉がとびだしてくるので、夫ともども狩りに招かれていた貴婦人や子供、侍女たちまでもが一斉に後を追いかけ、やすやすと鶉を捕まえてしまうのであった。

 別のときには、野兎を巣穴から追い出すのに、太鼓を打ち鳴らしたこともある。狐を落とし穴に落として捕まえたり、バネがはずれると足をはさむ仕掛けを用いて狼を捕らえたこともある。

 しかし、ジュリアンはこのような便利な仕掛けを見下していた。ジュリアンは皆のそばを離れ、馬と鷹だけを供に狩りをするのを好んだ。ジュリアンが連れていくのは、ほぼつねに雪のように真っ白なスキティアの鷹だった。頭にかぶせた革のフードには羽飾りが飾られ、青い足につけられた金の鈴がちりちりと音を立てる。馬が草原を流れるように駈けているときでも、鷹は主の腕のうえでいつもおとなしくじっとしていた。馬を駈けさせながら、鷹の引き綱をすばやくほどく。空へと放たれた鷹は、矢のようにまっすぐ上へ上へと昇っていく。不揃いの二つの点が旋回し、交わりあい、蒼穹の高みへと消えていく。すると、ほどなくして、鷹は引き裂かれた獲物を嘴にくわえて、両翼を震わせながら、主の革手袋のうえへと舞い降りる。このようにして、ジュリアンは鷺や鳶、鴉や禿鷲を捕らえた。

 また、ジュリアンは喇叭を吹き鳴らしながら、犬たちの後を追って馬を走らせるのを好んだ。犬たちは獲物の鹿を追って、丘の斜面をかけおり、小川を飛び越え、森のほうへと駆け上がっていく。追いつかれた鹿が、犬に噛みつかれて呻きをあげ始めると、ジュリアンはすぐさまとどめを刺した。蒸気をあげる鹿の肉を引きちぎりながら、マスティフ犬が貪り食らうさまを見るのは、ジュリアンの大きな歓びだった。

 霧のたちこめる日には、鵞鳥やかわうそ、野鴨を狙って、沼の中へと入り込んだ。

 狩りの日の朝はいつも、払暁から三人の従僕が石段の下でジュリアンを待ちうけていた。年老いた修道士が窓から身を乗り出して、呼び戻そうといくら手を振っても、ジュリアンは決して後ろを振り返らなかった。太陽が照りつける日も、雨の日も、嵐の日でさえも、ジュリアンは狩りへと出かけていった。泉の水を手のひらにすくって喉をうるおし、馬を駈けさせながら、野生の林檎をもいで食べる。疲れたときは、樫の木の根元で身体を安め、泥と血にまみれて、真夜中に帰還する。ジュリアンの髪には茨が絡みつき、身体からは野獣の臭いがした。その姿は、まるで野獣そのもののようであった。母親が接吻を与えても、おざなりにそれを受け止めるばかりで、まるで深い夢想のうちに沈み込んでいるかのようだった。

 ジュリアンは短刀で熊を屠った。斧で野牛を、槍で猪を仕留めた。ある時などは、絞首台の下の死体にむらがる狼を木の棒切れ一本で追い払ったこともある。


 冬のある朝のことである。ジュリアンは夜の明けないうちに、肩に弩を担ぎ、鞍に矢筒をくくりつけて、準備万端ととのえ出発した。

 ジュリアンはデンマーク馬にまたがり、二頭のバセット犬を従えて進んでいった。規則正しい足音が響きわたり、地をゆるがせる。外套には氷まじりの雨滴が降りかかり、強い北風が吹きつけてくる。地平線が白んできた。暁の仄白い光のなかで、ジュリアンは兎が数匹、巣穴のまわりで跳ねているのを見つけた。二頭の猟犬はすかさず兎にとびかかっていく。たちまち、そこここで骨を砕く鋭い音があがった。

 それからほどなくして、ジュリアンは森のなかへ分け入っていった。樹々の枝先には、寒さに身を丸めた雷鳥が羽毛のなかに顔を埋めて眠っている。ジュリアンは鳥の足にむけて刃を返した剣を一閃すると、地に落ちた鳥をひろいさえせずに、先を急いだ。

 三時間後、ジュリアンは高い山の頂にたどり着いた。そこは天が真っ黒にみえるほどの高みであった。ジュリアンの目の前には、壁のように巨大な岩が、絶壁から深淵を見下ろすように突き出ている。その突端では、野生の山羊が二匹、崖下を見下ろすようにしていた。馬を置き去りにしてきたため、ジュリアンの手元には矢がなかった。それゆえ、ジュリアンは山羊のいるところまで下りていくことにした。裸足になると身をかがめて、そろそろと進んでいく。一匹目の山羊のもとにどうにかたどり着くと、ジュリアンは短剣で胸を突いた。もう一匹の山羊は怯えて崖から跳びおりた。ジュリアンは飛び出して一撃を加えようとした。だがその瞬間、右足が滑り、両腕を広げ顔は崖から突きだした体勢で、山羊の死骸のうえに転がった。

 ふたたび麓の平原に戻ると、今度は柳の生えた小川沿いの道をたどっていった。時おり、ジュリアンの頭上を鶴が低空飛行していく。ジュリアンはそのたび鞭を一閃させたが、一羽たりとも取り逃がすことはなかった。

 しだいに暖かい空気が霜を溶かしはじめ、朝靄が立ちのぼりあたりを包み込んだ。太陽が姿を現した。目路のはるか向こうでは、湖の静かな湖面が、日の光を鉛の面さながらに反射している。その湖のまんなかには、これまで一度も見たことのない獣がいた。黒い鼻面をしたその獣は海狸ビーバーであった。遠すぎるかと思われたが、ジュリアンはただの一矢で獣を仕留めた。ジュリアンはその毛皮を持ち帰れぬことを残念に思った。

 それからジュリアンは、大樹の立ち並ぶ幅広の道を進んだ。その森の入口では、樹々が梢をさしかわして拱門の形をつくっている。奥へと進んでいくと、茂みからはノロが飛び出し、道の交わる辻にはダマジカが現れた。穴熊が穴から出てきて、草の上で孔雀が尾羽根を広げた。ジュリアンはこれらの獣を一匹また一匹と殺していった。すると、ノロが、ダマジカが、穴熊が、孔雀が、またも姿を現した。ツグミ橿鳥カケス、ケナガイタチに狐、針鼠ハリネズミに山猫――ジュリアンが歩を進めるたびますます多くの獣がその前へと姿を現した。獣たちは怯えながらジュリアンの周りを取り巻き、憐れみを乞うように静かなまなざしを向けてくる。だが、ジュリアンは少しも躊躇うことなく、弩を引いては剣を抜き、短剣をつきだしてはと、一心不乱に次々と獣を殺していった。どことも知れぬ土地で、無限にも思われる時が流れた。確かなものがあるとすれば、それはただ己の存在のみである。自らの行うすべては、夢の中にいるかのようにたやすい。不意にすばらしい光景が目に飛び込んできて、ジュリアンは足を止めた。何頭もの鹿の群れが椀形の窪地を埋め尽くしている。鹿は互いに寄り添いながら、吐息で身を温めている。霧のなかを息が白く立ち昇るのが見えた。

 眼前の獣を屠りつくす光景を思い描き、ジュリアンはあまりの歓喜に息が止まりそうになった。馬を降り、腕をまくると、矢をつがえる。

 最初の矢がうなりをあげると、鹿はみな一斉にこちらを振り返った。群れのなかに空隙ができ、哀れな鳴き声があちこちからあがる。群れ全体が大きな混乱に陥った。

 谷の縁は飛び越えるには高すぎた。逃げようにも窪地のなかをただ跳ねまわることしかできない。ジュリアンは狙いを定めては、矢を放った。矢は雷雨のごとく彼らのうえに降り注ぐ。恐慌をきたした鹿は後ろ足で立ち上がり、ぶつかり合いして、互いの体の上に乗りあがった。角が引っかかった鹿の体は小山のように折り重なり、群れが動くと形がくずれた。

 あるものは砂の上に横たわり、あるものは口からよだれをたらし、あるものは腹から臓物がとびでていた。呼吸に上下していた体は少しずつ静まっていき、ついに何もかもが動きをとめた。すべての鹿が死んだ。

 夜闇が降りてこようとしていた。枝のはざまから覗き見える森の背後にある空は、まるで血糊のように真っ赤に染まっていた。

 ジュリアンは木の幹に凭れかかった。目を大きく見開き、自らのなした殺戮のさまをじっくりと眺めまわした。どうしてこんなことができたのかも、まったく理解できなかった。

 そのとき、窪地の向こう側、樹々が途切れた森の縁に、牡鹿と牝鹿、子鹿の親子がいるのに気がついた。

 隆々とした体躯の黒い牡鹿は、十六に分かれた枝角をいただき、白い鬚を生やしている。枯れ葉のように黄金色の毛色の牝鹿は歩きながら草を食んでいる。斑のある子鹿は母鹿について歩きながら、その乳を吸っている。

 またしても、弩がうなりをあげた。またたくまに子鹿は絶命した。母鹿は天を振り仰ぐと、人間のように物悲しい叫びをあげた。ジュリアンはかっとなり、母鹿の胸を突き刺した。すると、その体はどうと地面に倒れた。

 それを見た牡鹿は、ジュリアンに向かって大きく跳躍した。最後の矢を放つ。矢は牡鹿の額に突きたった。だが、鹿は何も感じていないように、二頭の死骸を飛び越え、そのまま突進してくる。腹をえぐろうと角の先端が迫った。名状しがたい恐怖に後退る。不意に鹿が動きをとめた。教会の鐘が遠くのほうで殷々と鳴り響いている。鹿は燃えるような眸で、断罪するように三度みたび繰り返した。

 ――呪われよ、呪われよ、呪われよ! 人の子よ、いつかお前は、自らの父と母を殺すだろう。

 鹿は膝を折り、ゆっくり瞼を閉じると、ついに事切れた。

 ジュリアンは茫然自失していた。不意に重い疲労がのしかかってくる。押し潰されそうな嫌悪と悲しみが湧きおこり、両の手のひらに顔を埋めると、ジュリアンはその場で泣きじゃくった。

 馬はとうにどこかへ行ってしまい、犬ももはやついてきてはいなかった。孤独といわくいいがたい不安がどっと押し寄せてくる。恐怖に追い立てられるようにして、ジュリアンは駆け出した。野を駆けぬけ、めくらめっぽうに道をたどる。すると、ほどなくして城の扉に行きついた。

 その夜、ジュリアンは一睡もできなかった。吊るされたランプのゆらめく明かりのもとに、あの大きな黒鹿の姿が浮かびあがる。その予言が頭をはなれない。ジュリアンは苦しみ喘いだ。

「だめだ、だめだ、だめだ。そんなことは絶対にできない!」

 だが、ふと不安が頭をもたげる。

「けれど、もしも心の奥底で、そう望んでいるとしたら……?」

 ジュリアンは悪魔に唆されることを恐れた。

 三か月の間、ジュリアンの母はわが子の身を案じて、枕辺で神に祈りを捧げた。ジュリアンの父は、廊下をなんども行ったり来たりしては悲嘆の呻きをあげた。彼は息子のために高名な医師を城へと呼び寄せ、いくつもの薬を処方させた。彼らがいうには、ジュリアンの病は悪い風にあてられたか、恋の病だろうという。だが、ジュリアンは問いのすべてに首を横に振った。

 ようやく身体に活力が戻りはじめると、ジュリアンは老いた修道士と父に両脇を支えられ、中庭を散歩した。

 完全に快癒したそのとき、ジュリアンはもう狩りはしないと心に堅く決意した。

 父は息子を喜ばせるつもりで、一振りのサラセンの大剣を与えた。剣は他の揃いの武具といっしょに柱の高いところに吊るされていた。手に取るには梯子を使わねばならない。ジュリアンは梯子にのぼり、大剣を手にとろうとした。ところが、それは思いのほか重く、ジュリアンはうっかり手を滑らせた。剣は下にいた父のすぐそばをかすめて落ち、外套はざっくりと斬られていた。ジュリアンは父を殺してしまったのかと思い、気を失った。

 以来、ジュリアンは武器を恐れるようになった。白刃を目にしただけで、顔色を失った。その心の弱さを、家族は嘆き悲しんだ。

 老いた修道士は神の名において、また祖先への敬意のあかしとして、貴族の義務を果たすよう命じた。

 城では毎日、侍臣たちが投槍を投げる遊びに興じていた。ジュリアンはそれに加わり、すぐにも投槍の扱いに熟達していった。壜のくびをめがけて槍を投げたり、風見鶏の歯車や百歩離れたところにある扉の釘めがけて、槍を投げたりした。

 そんな夏のある夜のことである。おりからの霧で、ものの輪郭がひどく曖昧になっていた。そのときジュリアンは庭の葡萄棚の下にいた。庭の奥のほうで、梢の高さを二枚の白い翼が羽ばたき飛んでいくのが目に止まった。あれはきっとこうのとりだろう。ジュリアンは槍を目標へと投げつけた。

 刹那、悲鳴が空気を切り裂いた。

 それは、ジュリアンの母であった。長い垂れ布のついた母の帽子が、壁に釘付けられていた。

 ジュリアンは城から姿を消した。そして、二度と戻ってくることはなかった。

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