第20話 エピローグ
思えばわたしは昔から、ずっと迷子だったのかもしれません。
体の弱かった母は早くに亡くなり、わたしは貴族である父の家で育てられました。
いわゆる
昔から酷い方向音痴だったので、庭先で木々の
そんなわたしにも優しくしてくれたのは父と一番上の兄でした。
腹違いの兄弟姉妹や義理の母たちは使用人のようにわたしに接していましたが、父と兄の二人だけは家族の一員として扱ってくれたような気はします。
その日もわたしはいつも通りボーっとしながら、頼まれたおつかいをこなそうと町を歩いていました。
ボーっとしていたとは言ったものの、そんなときはいつも何かしらの考え事をしているものです。
そのとき考えていたのは、今日の晩御飯は卵料理にしようか鶏肉にしようか、というそんな大変重要なことでした。
そんなことを考えつつ父が好きな卵料理に照準を合わせて裏路地の店先を回っていると、突然わたしにガラの悪そうな男性がぶつかって来ました。
特に体を鍛えてもいないわたしは、そのまま弾き飛ばされます。
――ぎゃー。せっかく買った食材がー!
いくつか買った卵を台無しにされてしまい怒りにそちらを見ると、そこは既に周りを巻き込んだ殴り合いへと発展していて、いつの間にか周囲に人だかりができていました。
「てめー何しやがる!」
「お前が悪いんだろうが!」
そんな怒号が飛び交う中、わたしはとっととその場を離れようと立ち上がります。
「――お前たち! それ以上争うというなら俺が相手になろう!」
裏通りに響いたそのよく通る声は、聞き馴染みのあるものでした。
そこにはわたしより頭二つ分ほど大きな体格に恵まれた大男が、抜き身の剣を持って立っていました。
ちなみにその顔はそこそこ良いらしく、普段聞くご婦人方のお噂によりますと結構モテるらしいです。
「あ、あの紋章は――!」
「騎士団だ! 逃げろ!」
ガラの悪そうな男たちは、剣の
彼はその様子を見るとため息を吐いて、剣を腰へとしまいました。
……非番の日のはずなのに帯刀しているだなんて、本当に
「……ラティ、大丈夫か。見ていたぞ、災難だったな」
そう言って彼はわたしに手を差し伸べます。
――これが腹違いの兄でなかったら、恋に落ちることもあったかもしれません。
「ええ。大丈夫です、エンシス兄さん。……卵以外は、ですけど」
わたしは買い物用のカゴの中を見せました。
今やその中は卵の黄身が散乱していてぐちゃぐちゃです。
「……そうか。それは良かった。ラティの卵料理は、甘ったるくてマズイからな」
「なんですと……!? 父さんは気に入ってくれてるんですけどー?」
「あれはたぶん、気を遣っているだけに違いない。本当のことを言ったらお前が傷付く」
まったく失礼な兄ですね。
……まあそれでも、他の兄弟たちよりはきちんと存在する者として扱ってくれるので随分マシなんですけれども。
「……最近は王都も治安が悪い。もっと大通りの方で買い物をしたらどうだ?」
「……すみません。わたし方向音痴でして」
好きで裏路地で買い物しているわけじゃないやい。
「……またそれか。どうやったらメインストリートから外れて迷うんだ」
やれやれ、と兄は肩をすくめます。
それでも一応、目的のものを買える場所にはたどり着くのでいいじゃありませんか。
「さ、ラティ」
彼はわたしにその手を差し出します。
「うちへ帰ろう」
「……はい」
わたしは彼の手を握ります。
それは当然のことなのかもしれませんが、わたしは誰かに導かれている時に限っては、迷わないのでした。
§
「――ケルキデスさまー、入りますよー?」
夕食が終わり、こっそりと父に内緒話があるとかで二階の書斎へと来るように告げられました。
わたしは疑問を懐きつつも、約束のため夜がふける前に書斎前へとやってきたのですが、ドアを叩いてもそこから返事は帰ってきません。
わたしは首を傾げつつ、そのドアノブを回しました。
――開いてる。
鍵はかかっていないようです。
「……父さん?」
中に入って父へと呼び掛けます。
家の中で父を父と呼ぶのは、少し
だけれどこうして家族の目が無いときは、わたしは彼を父と呼ぶのでした。
しかし待てども父の返事はありません。
まっくらな父の部屋は、ランプどころか魔力の明かりもついていないようでした。
……とはいえ、こんな時間にどこかに出かける人でもないんですけど。
次第に暗闇に目が慣れてきたと思ったとき、外から月明かりが差し込みました。
「――父さん!?」
そこには父が床に倒れていました。
わたしは慌てて駆け寄ります。
「父さん、大丈夫ですか父さん……!」
しゃがみこんで父の背中を揺さぶると、手に何か液体が付きます。
――血?
見ればうつぶせに倒れる父の下には、血溜まりができていました。
その背中の上には一本の短剣。
わたしはそれを拾って月明かりにかざしました。
「……竜の紋章」
騎士団の印の短剣です。
うちの中で一番騎士団に関わりがあるのは――。
「――ラティ?」
その時、部屋の入り口から声がかけられました。
暗闇の中、こちらを唖然とした表情で見つめているのはエンシス兄さんです。
「――父上……! ラティ、お前……何を……!?」
これは。
……この状況は。
月明かりに照らされた父の亡骸と、短剣を握るわたしを見て。
兄は、その腰に差した剣に手をかけました。
「まさか父上を……!?」
その顔には疑いの眼差し。
わたしはそれを見て、心のどこかでショックを受けたのを感じました。
兄さんの言葉にわたしは首を横に振ります。
「ち、違うんです……! これは……!」
言い逃れの難しい短剣を手にしつつ、わたしは頭の中で自身の置かれた状況を整理します。
おそらくこの反応からして、兄さんが父さんを殺したとは思いにくいです。
しかし疑いたくはありませんが、ノータイムで剣を抜こうとしているところを見るに完全に信頼もできない気がします。
わたしはちらりと窓枠に目をやります。
鍵がかかっていて、誰かが外に逃げ出した痕跡はありません。
――つまり、内部犯……?
家族か使用人の誰かが、父を殺した。
……その上で兄に犯行をなすりつける為に、騎士団の紋章の入った短剣を置いていった?
それとも――。
わたしは頭の中で最悪のストーリーを組み立てます。
一つ目の線。
家族の誰かが兄を陥れる為に整えた状況を、偶然わたしが邪魔してしまった。
もう一つの、考えたくない方の線。
……兄がわたしに罪をなすりつけて殺すため、この状況を用意した。
「――兄さん、父を殺した犯人は別にいます」
わたしの言葉に、兄は顔を強張らせます。
「ですから、あとはよろしくお願いします。きっとあなたが父を殺した犯人を捕まえてくれることを、願っています」
わたしはどちらのパターンでも自分の命を守れる方法を選択しました。
そのまま窓へと勢いよく飛び込みます。
「――ラティ!」
兄の声を背に、ガラスを割って外へと飛び出ます。
ここは二階ですが、別に死ぬつもりはありませんでした。
庭のお手入れはわたしのお仕事の一つです。
つまりこの書斎の下に何があるのかも、知っています。
ガサササと音を立てて、わたしは地面に降り立ちました。
「……
植木のクッションがなければ怪我の一つもしていたかもしれません。
しかし幸いに、手足は自由に動きます。
わたしはすぐに起き上がって、駆け出しました。
とにかくこの家から逃げだしましょう。
この家にわたしの味方となってくれる人は、今や兄しかおりません。
その兄すらもわたしのことを一瞬でも疑った様子。
この場にいては、わたしは殺されるか、罪を着せられるか、もしくは兄へと迷惑がかかるかのどれかです。
「――さよなら。兄さん、父さん」
後ろを振り返りそう言い残して、わたしは走ります。
逃げなくては、逃げなくては、逃げなくては……。
わたしは通りを抜け、路地を抜け、逃げ出しました。
――どこへ?
よく考えればあてはありませんでした。
それでもとにかく走るうちに、景色は次々と変わっていきます。
街を抜けて、街道を走り、森を抜けて。
不思議と、その光景がおかしなことだとは思いませんでした。
――わたしはいつも、迷子だったから。
ずっと家の中で感じていた孤独感。疎外感。
そんな気持ちが
「――はぁ、はぁ……」
歩き疲れて、わたしはその場にへたり込みました。
深呼吸して、頭がはっきりとしてきます。
……そうです。
わたしはたぶん、信頼していた兄から疑いの眼差しを向けられたあの瞬間に。
全てに裏切られたのです。
――結局、わたしの居場所なんてどこにも無かった。
わたしは生まれながらに、ずっと独り迷子だったのでしょう。
心を闇が覆っていきます。
「……わたしにはもう、何もない」
父も兄も、家も帰るべき場所も。
わたしには、何もありませんでした。
そんな時、唐突に目の前に暗闇が広がります。
わたしはその様子に驚きつつも、その暗闇から目が離せないのでした。
「……甘い匂い……」
鼻孔をくすぐる、お菓子のような甘い匂い。
そうして全てを諦めたわたしの前に、まるで手招きするような洞窟の入り口がぽっかりと口を広げていたのでした。
§
「……ラティ、ラティ」
わたしはミアちゃんの声に目を覚ましました。
「……大丈夫か、ラティ」
そこは自作のベッドの上です。
わたしとミアちゃんは、そのベッドの上に二人で寝ていました。
「寝てたのか? ラティ。怖い夢でも見たのか?」
ミアちゃんは優しくそう言って心配してくれます。
気付けば、わたしの目からは涙が流れているようでした。
眠りながら泣いていたのかもしれません。
「……いえ、大丈夫です」
コボルトさんたちを狙った盗賊たちを撃退した後、部屋の片付けをしました。
すべての死体を消化槽に入れて、ダンジョンのレベルが上がって。
そうして一段落して、わたしたちは元のダンジョンの生活を取り戻したのです。
ミアちゃんは起き上がり、心配そうにわたしの顔を覗き込みます。
「……
洞窟内には外の光は届かないので、ヨルくんが自動調整してくれています。
今は夜で、真っ暗です。
寝室にはそれとはべつに、魔力で点灯する灯りも備え付けられていました。
「……いいえ、本当にいいんです」
静かに答えるわたしに、ミアちゃんは穏やかな笑みを浮かべました。
「……わかった」
ミアちゃんはそう言うと、横になってわたしをその胸に抱き寄せました。
「おつかれさま、ラティ。心配しなくても大丈夫」
体の大きさからいえば、立場が逆な気もしますけれど。
「……ありがとうございます、ミアちゃん」
わたしは彼女の腕の中で目を閉じました。
このダンジョンは少し不便なところもあるけれど、何でも作れて素敵です。
ヨルくんもミアちゃんもグラニさんもアリー先生もコボルトさんたちもいて、とっても楽しいです。
――だから、わたしには帰るところなんて必要ありません。
「……ミアちゃん」
「……んー?」
わたしの声にミアちゃんがのんびりとした声で応えます。
「……ずっとこのダンジョンにいてください」
わたしには、ここしかないから。
ここが、わたしの帰るところだから。
わたしの言葉にミアちゃんは少し考えた後、ぎゅっと抱きしめてくれました。
「……そうだな。それもいいかもしれないな」
ミアちゃんはそう言って、わたしの頭を撫でてくれます。
わたしは彼女の腕の中、
これまでの幸せを思い返しながら。
これからの幸せを夢見ながら――。
ダンジョンの夜は、そうして更けていくのでした。
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