10. それぞれのスタート
「えっ……これは、どういう?」
鶴見舜は単純にうろたえていた。正装をした松原ハジメと、あの酒の席で舜を助けてくれた老紳士が二人並んで、穏やかな微笑みを浮かべている。
──何だこれ。この画(え)ヅラ。
松原ハジメから返信が来たことも舜にとっては予想外だった。
「勝手なことをしてすみません。こちらこそ、きちんと説明させてください」
簡潔ながら誠実な文面だった。適当な嘘で先延ばしをしようというわけでもなさそうだし、自棄になっている風でもない。
「次回作制作中止」というお達しがある以上、調子のいいことは言えなかったが、もう一度対面して話したかった。
指定されたのは、前回話をした喫茶店。
意外にもおどおどしているのは舜のほうで、松原ハジメは落ち着いた雰囲気をまとっていた。
「……では、わたくしはこれで」
老紳士は深々と頭を下げ、喫茶店の入口で二人を見送るようにしばらく立ち止っていたが、直線的な動きで方向を変えると、来た道を戻り始めた。
「あの人は……」
思わず口にしてしまった舜に、松原は穏やかな視線を落とした。
「人形、なんだそうですよ……」
松原の口から出たのは馬鹿げた言葉だったが、どこか楽しそうに見えたので否定できなかった。
「人形、ですか……」
「来てくれてありがとうございます。中に入りましょうか」
松原ハジメは、ほんの数日会わない間にずいぶん老成した印象を与えた。舜は頷いて、彼の後につきしたがって店に入った。
「単刀直入ですが、僕、就職が決まりました」
運ばれてきたコーヒーに口を付け、松原ハジメは微笑んだ。
「ええっ!?就職ですか?」
松原とは対照的に、舜はアイスコーヒーを吹き出しそうになる。慌てて持っていたハンカチで口元を拭うと、不作法を詫びた。
「すみません、えっと……あまりに突然で」
「いえ、無礼なのは僕のほうです。無理もないですよ」
松原はひらひらと片手を振って、笑った。
「ずっと、バンドの傍らバイトをしていたんですけど……その知り合いのデザイン事務所に社員として入れることになったんです」
松原が学生時代にデザインの勉強し、特技を生かしたアルバイトをしていることは知っていた。CDジャケットのデザインを自ら行っていたことも社内では有名だった。
普段の服装も、デザインに詳しい種類の人らしく、いつも洗練されていた。
──おめでとうございます、でいいのかな。
逡巡している舜を察したのか、松原から続きを切り出した。
「正直言って、今までは生活もギリギリだったんですが……これからは経済的な面では落ち着いて暮らしていけます」
「あの……」
舜はますます言葉に詰まった。
“好きな音楽を仕事に出来ているのだからいい”などという綺麗事で片付けられないのは十分舜にもわかっていた。アーティストにも生活はあり、音楽活動にはお金もかかる。
長じて結婚、子どもを育てることになったときに音楽だけで生活していけるアーティストは限られている。
「今、困らせちゃってますよね……僕」
松原は笑いながら頭をかいた。
「いえ、その……」
舜は今度は冷や汗が出てきた。先ほど口元を拭ったハンカチで額の汗を拭く。それを余裕の表情で見ていた松原は椅子の上に置いたバッグの中からCDケースを取り出して、机の上に置いた。
「あ、の?これは……」
反射的にCDに手を伸ばすと、真っ白なCDの盤面には「デモ」とペンで書かれていた。
「約束していたデモ音源です。まだ仮の仮、というところですが……」
「えっ?」
舜は思わずCDを抱きかかえるようにしてしまった。再び言葉に詰まり、何も言えなくなる。
「活動休止の書き込みをした後、たくさん反響がありました。ありがたいことに続けて欲しい、って書き込みもたくさんあって」
松原は恥ずかしそうにうつむいて、わずかに笑みを浮かべた。
「ライブに来てくれるお客さんの倍くらいの反応があった気がするな……だったら、ライブに来たり、CD買ってくれよ、って思ったんですけど……」
松原は息を継いで、まっすぐに舜を見た。
「嬉しかったです」
それらの書き込みを一つ一つ何度も読み返した後、気付いたら夜通し音楽を作っていたのだと松原は話してくれた。舜と話した、取り組んでみたいテーマも嘘ではなかった。
久しぶりに沸き上がった音楽への情熱を、松原はデモ音源に注ぎ込んだ。
「もちろん、すぐにオーケーが出るとは思っていません。だからこそ、音楽活動を休止し就職することに決めたんです」
穏やかな声で話し続ける松原を、まぶしいものでも見るように舜は見上げ、もう一度抱きかかえるようにCDを胸に押し当てる。
「僕にとっては、ここからまたスタートだと思っています。幸い、音楽の次に好きな仕事に就けたし、ここから先は新しい気持ちで音楽に向き合っていきます」
松原ハジメはコーヒーを飲み、少し艶の戻った声で言った。
「つまり僕は、まだ音楽に関わっていきたいと思います。でも……新しいアイデアが浮かんだら時々こうして、音源を聴いてもらえますか?」
「もちろんです!」
舜は席から立ち上がってしまっていた。そして周囲の視線に気付くと、赤面しながら静かに着席した。
「音楽を手放さないでいてくれて……本当にありがとうございます」
舜の言葉に、松原ハジメは本当に嬉しそうに微笑んだ。
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