8. 蘇る記憶

 松原ハジメは、この上なく惨めな気持ちなのに、同時に清々しい感覚がある、不思議な経験を味わっていた。

「そう、これでよかったんだよな……」

 さらに杯を重ねる松原を、藤井は何も言わずにじっと見つめていた。無表情だが軽蔑している表情はなく、ただただ傍観していてくれる。

 その無機質な存在感が、このときの松原には心地よかった。テーブルに置かれたスマホが何度も震えるので、着信名をちらりと確かめるとすぐに電源を切ってしまった。


 数年前、「tipi」のメンバーが次々と辞めていく際、一人ぼっちになった松原に声をかけてくれたのは今のメンバーでベースを担当する山川だった。

「俺はハジメと違って、音楽が本職じゃないけど……心のどっかで本当はハジメが羨ましかったんだ」

 山川は数年後に家業の飲食店を継ぐことを決めた上で、複数の飲食チェーンをアルバイトで渡り歩いていた。

「ハジメとのバンドを、俺の人生で唯一のバンドにする。それでもよければ、メンバーに加えてくれないか」

 学生の頃は友人の多くが音楽にかぶれた。その中でいくつもバンドを作っては解散し、その中に山川もいた。

 山川は音楽にどっぷり浸り、生計まで音楽で立てることを決意した松原とは違って割り切っている印象があったが、ベースは当時から上手かった。

 社会人になってからも、一人でベースに触っていたことは演奏を聴いてみてすぐにわかった。松原は、山川がベースを手放さなかったことがとても意外だった。

「……でも、何よりも嬉しかったんですよね」

 メンバーが一人ずつ離れて行って、途方に暮れていた松原に再び声をかけてくれた。皆が見限ったゴミのような自分を拾い上げてくれた──そんなふうに最も松原は自分を卑下していた時期だった。

「その山川くんが、もうこのまま続けることに意味を見いだせないって……」

 続きを言いかけて、松原は言葉に詰まった。勝手に両目から涙がこぼれていた。

「だから、これでよかったんです」

 話を打ち切ろうとした松原に、ずっと黙って見ていた藤井がようやく口を開いた。

「私と契約すれば、新しいメンバーも現れるでしょうし、お望みでしたらソロ活動でも音楽を続けられますよ」

 藤井は静かな口調で続けた。

「そしてその先には、必ず成功が待っています……いかがでしょうか?」

「音楽を続けていて、いいことなんてあるんですか」

 呻くように松原は答えた。いつの間にか藤井が置いてくれたものか、目の前にあった水の入ったコップを所在なく握り締める。

「それはあなたが一番よくご存知でしょう?」

 藤井の声音が、松原には甘く響いた。


 鶴見舜は何度も松原に電話をしたが、まったくつながらなかった。そのうちに電源も切られてしまった。

「松原さん……」

 松原が誰とも話すつもりがないことを、舜も悟ってはいたがそれでもしつこくコールを続けてしまった。

「家に行ってみようかな」

 扉を開けてくれるわけがない。理解していながら舜は立ち上がって上着を羽織っていた。──せめて近くまで行ってみるだけ。

 縋るように考えながら、舜は突然思い出していた。


 その日、舜は付き合いのつもりで参加した飲み会の席で、ラジオ制作会社の関係者や複数のレコード会社の人間たちがひしめき合う中、年上のディレクターの音楽談議に頷いていた。

 話題は舜でもわかることもあったし、昔の洋楽に関しては知らないこともたくさんあり、純粋に勉強になったので時折スマホでアーティスト名をメモしたりしながら聴いていた。

「鶴見ちゃんはほんと、真面目だよね」

 メモしている様を見られ、舜は照れ笑いをして見せた。

「や。自分、不勉強なところも多いものですから」

 謙遜などではなかった。知らない音楽を知ることができるなら貪欲に吸収したかった。

「いやいや、鶴見ちゃん、若いのに音楽に詳しいしさ。何よりも、音楽が好きだってことが伝わってくるよ」

「恐縮です……」

 音楽談議に付き合うことが嬉しいのか、このベテランディレクターには比較的気に入られていた。舜が熱心に売り込むアーティストを後押ししてくれることも多く、世話になっていることは間違いなかった。

「あれ……?君さ」

 話に割って入ってきたのは、転職してきたという別なレコード会社の若い男だった。舜よりも年上に見えるその男は、名刺を渡した後、無遠慮な調子で舜の顔を凝視していた。

「ラジオ局でお会いしたことがありましたっけ?」

 舜は突き刺さるような視線から逃れるために話題を振った。男は酒が入っていたこともあってか、しばらく腕を組んで唸りながら舜を上から下まで舐めるように見た。

「どっかで見たことがあるんだよなあ」

「そう……ですか?」

 ややあって、男は「あっ」とその場に不似合いなほどの大声を出した。

「そうだ思い出した!君、高校生バンドの優勝者の子だろ?」

 勝ち誇ったような男の声に、舜は全身の血が引いていくような寒気を感じていた。

「いえ……違います」

 しかし男は追及の手を緩めず、どんどん話を進めて行く。

「いや、君だよ。だってそっくりだし」

 男の声はその場にいた皆の耳に入り、一斉に舜に視線が集まった。舜はその視線を受け止めることができずに俯いた。

「実力はあったんだけど、ファイナリストのソロアーティストに注目が集まっちゃったんだよねえ!運、悪かったよねー」

 男は何が楽しいのか、舜に近付き強引に肩を組んだ。舜はそのとき自分がどんな表情をしていたのかまったく覚えていない。

 目の前が暗くなり、一刻も早くこの場所から逃げ出したいと──そればかり願っていた気がする。

「……そのくらいになさってはいかがですか?」

 静かだが有無を言わせぬ圧力のある声に、悪ノリをしていた男も一瞬押し黙った。舜が恐る恐る顔を上げると、そこには見たこともない老紳士がいたのだ。

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