記憶の棲む森
西乃 まりも
1
目の前で、何か黄色いものが揺れている。
なんだろう、見たことのあるものなんだけど。
頭の端でそう考えながら、僕はそれを目で追っている。
小さくて、可愛らしくて、少し懐かしい、これは――
そう思った瞬間「それは?」と訊ねる自分の声が、聞こえた。
「これ?ああ――」
女の人の声がする。白い手がつと伸びてきて、目の前の黄色いものに触れた。
それを見た時、過去のピースが一つ、ぱちんと繋がった。
そうだ。これは車の形をした携帯電話のストラップだ。
そんなに高価なものではない、こどものおもちゃのような。きっとどこかで落としてしまったのだろう。タイヤの部分が割れて欠けていて、明るい黄色で塗られた車体にも大きな傷が付いている、プラスチックの小さなキーホルダー。
「もうぼろぼろなんだけどね。ずっと付けていると、外せなくなっちゃって」
手のひらの主だろうと思われるその人は、少し困ったような、それでいて嬉しそうな声で答える。
「大事なものだから、とても」
歌うような調子で言うと、彼女は両の手のひらに小さな車を包み込んだ。
***
目覚めた途端、けたたましい蝉の大合唱が耳に飛び込んできた。
自分の目が古ぼけた低い天井を捉えているのは分かるのだが、頭の中ではまだ、先ほど見た黄色いストラップが揺れている。
――いや、本当は見てなどいないのか。あれは夢で、こっちが現実なのだから。
「……んんっ、あ~」
現実を確かめたくて声を出してみると、思いのほか間抜けな声が粗末な木造の壁に吸い込まれていった。
夢の中の季節は肌寒かったように思ったけれど、現実は容赦のない夏である。気が付いてみると全身が汗だくになっていた。山の中に建てられたこの古い小屋は相当ガタがきているらしく、あちこちから入ってくる隙間風を感じることができたが、それでもやはり暑いことに変わりはなかった。おまけに何も敷かずに板の上で寝ていたせいか、背中がぎしぎしと痛んだ。着せられた着物から漂う強い香草の香りが、まだ曖昧なところにある意識をゆっくりと目覚めさせてくれる。
――あの人は、誰だっただろう……
夢に聞いた、細く優しい声を思い浮かべた。白くすんなりした指は触るとぽきりと折れてしまいそうで、胸の辺りが妙にざわざわした。
夢の中では彼女と会話を交わしていたわけだし、勝手に知人だろうと思っていたのだが、いざ目が覚めてみると、具体的にこの人だという人物にはまったく思い当たらなかった。
起き上がろうとしてようやく、体がしびれたようになって動かないことに気付く。どうにも脱力していて手足にうまく力が入らない。しばらくじたばたとしてみたが、一人では立ち上がれそうにもないので、諦めて仰向けのままぼんやりと天井を眺めた。
こんな風に体の自由が利かないことなど初めてだ。悪い病気か何かだったらどうしよう。病院で検査してもらった方がいいのかな……そんな考えが頭をよぎった時、まったく唐突に、記憶が雨のように降ってきた。
そうだ、「治療」だ。
僕は治療のために、ここにやってきたんだ。
それで……ええと。確か「実花さん」って女の子にこの小屋に連れて来られて、ここで横になるようにと指示されたんだっけ。そして自分が迎えに来るまでは決して外に出ず、ここでじっとしておくようにって、しつこいくらいに言いつけられたんだ。
ようやくそこまでの記憶を手繰り寄せることはできたものの、具体的に自分がどんな病気に罹っていたのか、まるで分からなくなっていた。ため息をつきたくても、それすらもままならないくらい脱力していた。この土地に来てしばらくが経つはずだが、こんなところで変な匂いのする服を着せられて、板の上にただ寝ているだけの治療なんて、本当に何かの役に立つんだろうか。
何かやむにやまれぬ事情があったようにも思うのだけど、そのことについて突っ込んで考えようとすると、頭の奥のほうがジンジンと鈍く痛み、何も考えられなかった。
どうやら体だけでなく、頭もしびれてしまっているらしい。何かを思い出そうとしたり、物事を深く考えようとすると、頭にもやがかかったようになってうまくいかなかった。この古くて狭い、何の飾りもない小屋の中で、だたぼんやりと横たわっているしかなかった。
「ねえ、起きた?」
入り口の戸を開けるガタガタという音がして、ぱあっと光が差し込んできた。眩しさに思わず目をしかめる。この声の主がきっと「実花さん」なのだろう。とりあえず、仰向けのままこくりと頭だけを動かした。
かさかさと衣擦れの音が近づいてくる。彼女はすぐ側に屈みこんで、こちらににゅっと顔を寄せてきた。その拍子に、後ろに束ねてある実花の長い黒髪がばさりと滑って、こちらの右頬に降りかかった。彼女はしかし、そんなことにはおかまいなしで、不自然なほどの至近距離でじっと顔を覗きこんでくる。身をよじって逃げ出したい衝動に駆られたが、動きたくても体が言うことをきかず、どうしようもないままぼんやりとその顔に目を当てているしかなかった。どことなく猫を思わせるような、目のくりくりとした女の子である。彼女の日焼けした肌はすべすべとしていて、おもわずじっと見入ってしまった。考えてみれば、自分と同年代の女の子をこんなに間近で眺めたのは初めてかもしれない。普通だったらドキドキするところなのだろうが、どうやら感覚まで麻痺しているのか、きれいと思う以上のことは何も感じなかった。実花が着ている淡い色合いの木綿の着物からは、自分のものと同じ、強い香草の匂いが漂ってくる。
「あなたの名前、まだ言える?」
「佐伯、篤」
ろれつも回りにくくなっていて一瞬うろたえたが、思い切って口に出してみると、その名前は存外力強く自分の耳に届いた。
「OK。ここに来た理由は、覚えてる?」
その質問に、首を横に振ってみせる。
「そう……」
実花は顔を曇らせた。
「どんな夢を見た?」
「車の……携帯ストラップの夢」
何となく、夢でみた女性の話はしそびれてしまった。
ふうん、と言うと、彼女はかすかに首をかしげた。
「大丈夫かしら、あと四日しかないのに」
独り言のようにつぶやきながら、身体を起こすのを手伝ってくれる。実花はその華奢な体つきに似合わない怪力で、ぐいと肩を支えてくれた。
「さ、今日はこれで終わり。……まぁ、きっと大丈夫よ。龍樹おじさまが何とかしてくれるから」
「タツキおじさま?」
「あら、それも忘れちゃったのね」
実花は口をへの字の曲げた。
「龍樹おじさまは、あなたを解毒することができる唯一の人なんだから、しっかり話を聞いてその通りにしなきゃだめよ。さもなきゃ――」
大変なことになるわよ、と彼女は声を潜めて呟いた。
「大変なことって?」
解毒? 一体何のことなのか、さっぱり分からなかった。
「忘れちゃうのは仕方がないこととして、分からなくなったことは諦めずに何度でもおじさまに尋ねるしかないわね」
そう言ったきり、彼女はそれ以上、何も教えてはくれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます