第二十五話 護りたいもの、護るべきもの・4
『こちらに来なさい、フレッド。お祈りの時間ですよ』
高く突き抜けた天井から、ステンドグラスを介して届く七色の光が柔らかにうつろっている。
聖堂に響いた穏やかな音に
『ヨハンは一緒じゃないのね。分かっているわ、またエティエンヌを捜しに行ったのでしょう。貴方たち二人が礼拝に遅れる理由なんて、それくらいしか考えられないものね』
節の浮き出た細長い手が、少年の頬をひんやりと撫でている。
『敬虔な貴方たちのことを、神様はきっとお赦しになるわ』
日夜、減らない水仕事に蝕まれた彼女の手指は荒れ放題で、柔らかい少年の頬はヤスリで撫で付けられているかのようにヒリヒリと痛んだ。だがそれでも尚、いつまでもその痛みに晒されていたいと思えるほど、彼女の手はあたたかな慈愛に満ちている。
幼き少年にとって、彼女は陽の光そのものであり、生きる意味すべてであった。戦災によって天涯孤独を余儀なくされた子供たちに等しく愛を注ぐ彼女を、母親同然に慕っていた。
そして、いずれは自身も彼女と同じように、救われぬ運命を背負った子らに光を与える存在になるのだと、信じて疑っていなかった――けれど。
『エティエンヌ! あなたはどうしてそんなに、聞き分けのない子なの!』
南方との戦いが長引くにつれ、
『やめて、シスター!』
傍らの〝兄〟と共に己を差し出すことで、幼い〝弟〟に振り下ろされようとしていた鉄槌を、寸でのところで受け止める。
優しく撫で付けられることの少なくなった頬が、ジンジンと冷たい痛みに苛まれている。それでも、彼女の疲弊の理由を知る少年に、怒りの感情が湧くことはなかった。
『ごめんなさい――ごめんね、フレッド。ヨハンも。わたしはなんて罪深いことを……』
それよりもむしろ、振り下ろした鉄槌の先を、失意に沈んだ瞳で見つめる彼女の姿が、あまりに憐れで。
『大丈夫か、フレッド』
『フレッド兄ちゃん、ありがとう。いたくなかった?』
『うん、大丈夫だよ』
――彼女を支えてあげたい。そのためには、早く大人にならなくちゃ。傍らの兄弟たちも、きっとそれを望んでいるはずだから。
『シスター、今日はうんと長くお祈りするよ。それと、エティの分までたくさんお手伝いするから』
頬の何倍も痛む胸元を押さえ、少年はにっこりと微笑んでいた。
かつてない変革が訪れたのは、その夜半のことである。その日は、空が落ちてきたのではないかと思えるくらいに、巨大な月の浮かぶ明るい夜だった。
『――様。お慈悲に感謝いたします』
石造りの礼拝堂には、祭壇からまっすぐに伸びた主通路を分かつように、鮮やかな緋色を宿した長絨毯が敷かれている。荘厳に佇む鎧の神像を振り仰いだ彼女は、呆然と立ちすくむ少年の前でくしゃりと両膝を折った。
深々と下腹を貫く刃をどうするでもなく、彼女は虚ろな瞳をゆっくりと移し、少年を見つめている。彼女の口元には、薄く笑みが浮かんでいた。
『フレッド……ありがとう』
落ち着き払ったその顔つきを見ていると、刃の
傾きかけた彼女の体を、慌てて抱きとめる。華奢な女の重みといえど、子供ひとりでそれを背負うのには随分無理があったようだ。そのまま為すすべもなく血だまりの中へへたり込んだ少年は、次第に色を失ってゆく彼女の頬をぼんやりと見つめていた。
『――ありがとう、殺してくれて』
呼吸の音は見る間に浅く小さく変わっていったが、何故だか彼女の表情は、これまでのどんな時より安らかで満たされているように見えた。
真紅に濡れた彼女の半身は、異様なモノと化している。透き通るほど白かった肌は古ぼけた磁器のようにひび割れてくすみ、そこに浮き出た赤黒い血管は、さながら絡みつく寄生植物のようである。艶やかだった漆黒の長い髪は瑞々しさを失い、干からびた藁束のように毛羽立っていた。
『わたし、みんなを助けたかったの。でも、やり方を間違えてしまったのね』
今や礼拝堂は、鼻孔にこびりつくほどの、強烈な死の香りに溢れかえっている。
ホールの至るところに転がったかつての〝兄弟たち〟にはどれも、巨大な獣に食い千切られたかのような痕跡が見受けられた。この地獄のような光景を作り出した元凶が、少年の腕の中でまどろむ
震えを押し殺し、無我夢中で飛び出した少年が手に取ったのは、祈りの神像が携えていた一振りの
血潮を流し果てた兄弟たちの肌は蝋細工のように蒼白で、僅かほども動き出す気配はない。子供の自分が一目見ただけで、万に一つも蘇生の可能性がないことは理解できた。
神像を囲むように拡がる円陣は、彼女の手で描かれたものだろうか――書庫の魔術書を紐解いた折、これに似た図形を目に留めた記憶がうっすらと残っている。
幾何学模様と古代文字とを組み合わせて描かれた〝魔法陣〟と呼ばれるその円陣は、万物の根源たるマナの力の湧き出す間欠泉のようなものであり、同時に、異界の存在と通ずるための窓となるものなのだという。しかしながら魔術士たちの間でも、実際に陣を用いた経験のある者は極めて少ない。それは、比較的容易な手順で魔力を得られる代わりに、扱うことそのものが至極困難であるためだ。膨大なマナの力を制御することが出来なければ、たちまち陣の使用者は異界の住人に魂を乗っ取られ、狂気の海に沈んでしまう――そう、先の彼女と同じように。
習い始めたばかりの古代文字は不可解な記号の羅列でしかなく、少年に陣の詳しい用途は分からなかったが、たったひとつだけ、解読可能な文字があるのを認めた。それは礼拝の折、彼女が繰り返し口にしていた神の名であった。
陣の赤文字がギラリとけばけばしく輝くたび、彼女の下腹を貫く刃が、まるでその血潮を吸い上げたかのように紅く色付いてゆくのが分かった。同時に、少年の全身から力が抜けてゆく。
『愛しているわ、フレドリック。あなたのことも、みんなのことも――』
致命傷の存在を感じさせないほど、確たる口調でそう言った彼女は直後、数度の激しい痙攣の果てに脱力した。
『シスター……』
彼女はもう二度と目覚めない。だが、再び無間の疲れに苦しめられることも、二度とないのだろう。そう思うと、少年はほんの少しだけ救われた気になった。しかしすぐさま同じだけ、彼女が
そのとき少年は初めて、自らの信仰に疑念を抱いた――「この世界に、神など存在しないのではないか」と。
動くもののいなくなった礼拝堂は、酷く静かだった。
抜け殻と化した少年は、紅く染まった石床を見つめながら、いつも傍らにいた兄と弟の姿がその血溜まりの中に見えなかったことに、ひっそりと安堵していた。
『何でだよ、フレッド! これはどういうことだ!』
口を開くことすらおぼつかぬほど、強烈な疲労に見舞われた少年の目の前で、混乱した〝兄〟がまくしたてていた。
小さな肩が揺さぶられるたび、天と地が反転したかのような激しい目眩が押し寄せてくる。ひとりでに閉じていきそうな両眼をどうにかこじ開けて、少年はすべてを語ろうとした。
『フレッド兄ちゃんが、シスターをころしたの? その真っ赤な剣で、みんなをころしたの? そんなはずないよね?』
しかし、怯える弟の澄んだ瞳と視線がかち合った途端、少年ははっと我に返っていた。
どれほど長い時間を要したとしても、血を分けた兄弟同然の彼らは、いずれ自分の行動に理解を示してくれるだろう。だがそれでは、命を賭して――おそらくこの奇怪な魔法陣を介し、異界と通じることで――何かを成し遂げようとしていた彼女は、神への背反者として
彼女の真実を見たのは自分だけ。
彼女の思いを知っているのは自分だけ。
血塗られた剣を見つめた少年は、神に見放された聖女ただひとりを悪者にするのが、あまりに忍びなくなった。
『答えろ、フレッド! どうして黙ってるんだ! お前がこんなこと、するはずが――』
『――ヨハン兄さん』
柄を強く握り締めると、まるで少年の決意に呼応するように、そこから確かな脈動が伝わってくるのが分かった。
呪われた剣よ、お前は生きているのか。憐れな聖女の魂を喰らって。ならば俺の、為すべきことは――
『さようなら。これからは兄さんが、エティエンヌを守ってあげて』
手の平に剣の拍動を感じていると、疲弊しきった体に不思議な力が湧いてくるのを感じた。頬にこびり付いた返り血を拭い、少年は走り出す。
『おい待て! フレッド――!』
追い縋る兄弟たちを、少年が顧みることはなかった。
――試験前夜、久方ぶりに夢を見た。
記憶の片隅に追いやっていたはずの、子供の時分の夢である。
傭兵として
血文字によって記されたあの神の名は、何と言ったか――今ではもう思い出せなくなっている。
しかし、悲しみと怒りに染まった兄弟二人の面影と、異様なほど安らかだった彼女の死に顔だけは、今も尚、昨日のことのように覚えている。
例えば幼かったあの日、血染めの剣を投げ捨て、兄と弟と、共に生きてゆく道を選んだとしたならば。孤独な傭兵としてではなく、騎士として誰かに剣を捧げる道を選んでいたならば――自身を取り巻く世界は変わっていたのだろうか。
追憶など無意味だ。過ぎ去った時間を塗り替えることなど、出来ようはずもない。だがそれでも尚、こうして今、顧みることをやめられないのは――
刹那のことである。
吹き抜ける風ががらりと色を変える気配を感じ取り、フレドリックは目を見開いていた。
尽きることのない渇きと飢え。狂おしいほどにそれが満たされることを望み続ける羨望の眼差しが、ぴりぴりと全身に突き刺さってくる。
「……来たか。異形ども」
この瘴気に閉ざされた樹海は今、あの晩と同じ、見知らぬ世界の匂いに満ちている。聖女の魂に誘われ、血塗られた窓の向こうから姿をのぞかせた、あのおぞましい腐臭に満ち満ちている。
――今にも、何かが起ころうとしているのかもしれない。いけ好かないあの男の予見通りに。
「約束は果たそう――それが、俺とお前の〝契約〟だ」
小さく呟いたフレドリックは、瘴気に咽ぶ喉元を撫で付け、低く身構えた。迷いなく、腰元の剣に手をかける。
「一匹たりと逃しはしない。覚悟するがいい」
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