第二十三話 護りたいもの、護るべきもの・2

 ラナの歩みに合わせ、ふわふわと帯布がたゆむたび、そこに染みついた懐かしい匂いがのぼってくる。微かに甘く、包み込むように柔らかで大らかなそれは、東方伝来の香木――白檀サンダルウッドの香りである。大陸の人間にはあまり馴染みのない香りのようだが、ラナにとっては違っていた。それは兄レヴィンが、魔術の修練の折にいつも焚き出していた香の匂いであったのだ。

 華美に着飾ることを好まない兄から託されたその帯は、緋色スカーレットと呼ぶには鮮やかさに欠け、朱色バーミリオンと呼ぶには褪せた色合いである。正直なところ、ラナの趣味にはてんで合致していない。

 同じ帯ならば、いつも身に付けていた紅玉色ルビーレッドの帯の方が、何百倍も気に入っていた。それは紅玉の騎士シャルテが、自らの象徴たるその色を「ラナのためだけに」と特別にしつらえ、与えてくれた、この世で一番の宝物だったのである。

 それにもかかわらず、兄から託されたこの冴えない淡色の帯を締め、試練に挑むことを決意したのには――思い出すほどしくしくと胸の疼く、紆余曲折があったのだった。


『これは俺の着ているローブと同じ、魔力を織り込んで作られた特殊な布だ。この布には邪悪なものから持ち主を守護する力が備わっている。とにかくこれを持っていけ。試験内容については何も話せないが、お前の持つ破邪の力と併せて使えば、必ず役立つはずだ』

 託されたところで、持ち出さなければ済むだけのこと――

 その帯を受け取った当初はそんな風に、義理もへったくれもない感情を抱いていた。

 ただ受け取ったと言うよりそれは、いつも通り冷たくやり過ごそうとした自分の手に、無理矢理掴まされたと言った方が適切だったと思う。

 試験開始までの僅かな時間を誰と過ごすか――そんなことは、考えるまでもなかった。真っ先にラナの脳裏をぎった面影は、何かにつけて面倒な兄などではなく、大好きなシャルテの笑顔ただひとつだ。募りに募った緊張を解きほぐし、試練を乗り越える勇気を与えてくれるのは、彼女を除いてほかに居るはずがなかった。それなのに――

『お前の為を思って言っているんだ、ラナ』

 引き締まる思いで迎えた特別な日、兄はまた性懲りも無く、押しつけがましいその言葉をラナの脳天に浴びせて寄越した。

 鋭い光をたたえる二色の瞳を、ほとんど反射的に睨み返す。

『言いたいことはそれだけ? あたし、忙しいんだけど』

 こんな言い回しでも、それなりに歩み寄ってはいるつもりだ。普段ならもうとっくに、掴まれた腕を振りほどき、兄と向き合うのをやめている。

『お前という奴は――』

 溜息混じりに言いながらも、兄はラナの微かな〝歩み寄り〟を汲み取ったのか、ほんのりと頬の強張りを解いていた。

『こういう時くらい素直に話を聞け。俺はお前の兄なんだぞ』

 ――ああ、やっぱり。

 やっぱり彼は、いつも通りだ。意固地で、ぶっきらぼうで、口やかましくて――嫌気が差すくらいに、いつも通りの兄だ。

 ところが。

 そのいつもならば、ただただうざったいだけでしかなかった彼の言葉が、あの時ばかりは何故だか違って感じられたのである。

 ラナの内側を波立たせることなく、胸の一番深いところに、じわりじわりと鈍く突き刺さってくる――さながらそれは、透明な柔らかい棘のようであった。何よりいつもと違っていたのは、辛いはずのその感覚を拒む気持ちになれず、そのまま抱えていたいとさえ思えたことだ。

 何だっていうのよ、まったく。

 やむにやまれずラナは、その未知の感情ともう少しだけ向き合うことを決めていた。

 それでも、ただ素直に「話そう」と声をあげるのは、敗北を認めてしまったようで何だか悔しくて。

『そうか、聞いてくれるか。試験前に、もうひとつだけお前に話しておきたいことがあってな――』

 手渡された帯布をどうするでもなくラナが黙りこくっていると、微かに声を柔らげた兄が、強張ったラナの肩に馴れ馴れしく手を掛けてきた。

『なあ、ラナ。俺たちの間で、たったひとつ共通していることがある。それが何だか、お前になら分かるな』

『……は?』

 突然何言ってんの? そんなものあるわけないじゃない。

 心のまま、冷たい台詞を浴びせてやろうと思ったが、言葉が出てこない。気がつく頃には、まるで首元を細縄か何かで締め上げられているかのように、息をすることさえままならなくなっていた。

 せめてもの抵抗とばかりにラナは、二回りほども上背のある兄の顔を見上げ、これでもかというくらい思い切り睨め付けてやった。

『分からないか、ラナ。互いに立場は違えど、俺たちの一番大事なものは共通しているだろう』

 調子付いた兄が、珍しく饒舌にまくし立てている。

 もしかして、シャルテのことを言ってるの……?

 そう思った途端、ラナの胸にはもやもやと耐えがたい思いが湧き出していた。

 ――大好きな人は、大嫌いな兄の婚約者。

 それはラナにとって、事実として認識していながら、最も受け入れたくない現実であったというのに。

『いきなり、何なの? なんで今更――』

 今更それを確認し合ったところで、何になるというのか。結局いつものように、かっと脳天に血が昇るのを感じたラナは、考えるより先に、力尽くで兄の手を振りほどこうとしていた。

 ――ところが。

『出来たんだ』

『は?』

『だから、その……子供が出来たんだ。つい先日のことなんだが、シャルテから俺の子を身籠もったという話を聞かされてな。こんな時期だからとなかなか言い出せずにいたが、お前の試験が終わった頃、彼女と正式に結婚しようと思っているんだ。だからお前には――』

『なんで……?』

 おそらく彼の告げたことそのものは理解出来ていたと思う。それが出来ていたからこそラナは、彼の台詞を聞き終わるや否や、がくりと膝から崩折れていたのだ。

『ラナ……? どうしたんだ!』

 情けなくなるくらい慌てふためいた兄の声を、その時ほどうざったく感じたことはなかった。

 どうしてこんな男がシャルテに選ばれたのか、いくら考えても分からない――

 あたしの知ってるお兄ちゃんは、みんなの思ってるような凄い人じゃない。頭でっかちで、やることなすこと古臭くて、ガミガミ口やかましくて、人の話をちっとも聞かない。あたしみたいな子供にいつも振り回されてばかりいる、ただの格好悪い大人なのに。

『……嫌い』

 掠れた声を漏らしたラナは、ようやくそこで、自らの両頬を大粒の涙が伝っていることに気付いていた。

『お、おい……ラナ?』

 皮肉にも、ぐらつきかけたラナの意識を繋ぎ止めていたのは、痛々しいほど懸命な兄の呼び掛けであった。

『どうして?』

 どうして、神様はいつもあたしに意地悪ばかりするの。

 憧れの人の認めた男が、どうして彼であったのか。どうして大嫌いな兄なんかでなければならなかったのか。

 いよいよ彼女はこれで、名実ともに兄のものとなってしまった――同時にそれは、彼女の一番が兄ひとりに決まってしまったことを意味する。そんな理不尽を、どうして受け入れられるというのか。

『どうしてよ! なんで、お兄ちゃんばっかり!』

『ラナ、どういうことだ? 俺はただ――』

 途轍もなく大きな喪失感が、ラナの胸中を支配していた。慟哭とともに吐き出したその言葉はまさに、ラナの剥き出しの本心であった。

 たくさんの感情が降っては湧き出し、綯い交ぜになって、もはや自身で自身の心を御せる気がしなくなっている。

 ただひとつはっきりしていることは、すべての元凶が目の前の兄にあるのだということ。それだけは動かしようのない事実だと思った。

 滲んだ景色の真ん中に兄の姿を捉えたラナは、声を限りに叫ぶ。

『お兄ちゃんなんか、大っ嫌い!』

 そうしてラナは踵を返し、振り返ることなくその場を後にした――追いすがろうと駆け寄ってくる兄に、一瞥もくれることなく。


 実のところを言えば、その後すぐ、ラナは猛烈に反省し、後悔していた。後悔のあまり、刻限までにシャルテのもとへ足を運ぶことが出来なかったほどだ。

 これまで兄にきつい言葉を浴びせたことは数知れずあったが、それを悔やんだことなど一度としてなかった。そんな自分でも、あれは度が過ぎていたと思う。命さえ失いかねない過酷な試練に臨む直前、唯一の肉親とあんな酷い別れ方をしてしまうなんて――

 その思いは、試験開始後、見知らぬ土地で孤独を思う度に強くなっていった。

 シャルテが兄の子を身篭ったという話は、少なくとも王城では一度も、ラナの耳には入ってきていなかった。おそらく兄はあの時、本当に誰にも打ち明けていなかったのだと思う。律儀な兄は誰よりも早く、肉親のラナに報告をと考えたのだろう。

 兄にとって、シャルテの懐妊は希望そのもの。だから素直に、妹のラナにもその希望を分け与えようとした。希望を糧に、辛い試練を乗り越えられればと考えたのだろう。

 しかし――

「お兄ちゃんにとっては励ましの言葉のつもりだったんだろうけど。あたしには、あたしには――」

 自分でも、この鬱屈した思いの確たる理由など分からなかった。命の宿りを祝福出来ないなど、人としてどうかしているとさえ思う。ましてや大切な人にもたらされた福音を、素直に喜べないなどとは。

 兄へのもやもやした気持ちが収まらないのはいつものことだが、何より許しがたかったのは、悪意などあるはずもない兄だけをとことん悪者にしてしまった自分自身に他ならなかった。

 こんなにもめちゃくちゃな気分のまま試験に臨むことになったのは、誰のせいでもなくあたしのせいなのに――


 再び、兄の託してくれた帯を見つめる。

 思えば、この昏い森に飛ばされて以来、考えているのは兄のことばかりだ。離れる以前は、兄の目の届かない世界へ行けたらと毎日のように考えて過ごしていたはずなのに。

 兄の存在を疎ましく思うようになったのは、いつの頃からだっただろうか。

 流行り病によって一度に両親を亡くしてから、生まれ故郷のフェミアを離れ、王都の別宅で幼少期を送ることになった自分を、気に掛けてくれた家族はレヴィンだけだった。幼い頃はいつも、数ヶ月に一度の兄の来訪を指折り数え、待ち侘びる日々を送っていた。それなのに。

 義理堅くて、生真面目で、曲がったことが許せない。そんな兄の性分が〝面倒臭い〟と感じるようになったのは、いつの頃からだっただろう――

 気が付けば、再びラナの眼には涙が溢れていた。

 やっぱり謝らなくちゃ。どうしても怖じ気づいてしまったら、シャルテの力を借りてでも、絶対に。今の境地ならば、いつもより少しくらいは素直になれるような気がする。

 無事の帰還を果たし、素直に謝ることが出来たなら、兄はこれまでの理不尽を許し、祝福してくれるだろうか――


 不意に強烈な突風が舞い込み、頬を撫でる熱の粒を瞬時に吹き飛ばしていた。

 刹那、蝉の声に似た濁音がけたたましく響いたかと思うと、辺りを邪悪な気配が包み込んでゆくのが分かった。

 ぴたりと歩みを止めたラナは、視野の隅を過ぎった樹のうろへ、素早くその身をねじ込ませる。目元にかかった帯布を僅かにずらし、気配の根源を探ろうと、四囲へ視線を走らせた。

 頭上を仰いだ瞬間、すぐさま異様なものが、視界の端から端を横切ってゆくのが見えた。

 枯れ木の海を行ったり来たり。蝙蝠こうもりのようにジグザグと不規則な軌道を描いて、奇妙な〝影〟が旋回している。

 まるで、こそこそと地上を逃げ回るラナの姿をあざ笑っているかのような――甲高い奇声をあげ続けるそれが〝影〟のようだと感じたのは、乱立する樹木の妨害をものともしていないせいだろう。あたかもそれは、実体を持たぬ亡霊のように、樹々の群れを避けることなく直線的に飛び回っていた。

 この世の摂理を覆す生態。紛れもなくあれは、〝異形〟だ――!

 金切り声に耐えながらしばし成り行きを見守るも、苛立たしい影は狂ったように旋回を続けるばかりで、ラナの頭上を去ろうとはしない。

 間違いなく奴は、こちらの潜伏に気が付いている。しかし、帯布の加護のおかげで、正確な位置を掴みきれていないのだ。

 このまま根気良く睨み合いを続け、やり過ごしてしまうのもひとつの手だろう。しかし、異形たちの示す人間への執着は、度合いにすれば桁外れをゆうに越えるものである。獲物の潜伏に気が付いている以上、おそらく奴は、飢えに倒れるその瞬間まで、万が一にも諦めることはしないだろう。睨み合ううちに仲間を呼ばれでもすれば、尚更の危機に陥る可能性もある――ならば、敵の数が少ないうちを見計らい、確実に仕留める方がいいに決まっている。

 どうかどうか、アイツが雑魚でありますように――

 生唾を飲み込むとともに腹を決めたラナは、祈りを込めて瞳を閉じ、静かに〝詠唱〟を紡ぎ始めた。

 力の解放を促し、拳の一点へと意識を集中させる。強く握り固めた拳から白い光が漏れ出すのを認めると、ラナは帯布を大きく翻し、手早く腰に巻きつけた。

「さっさとかかってきなさいよ! ボコボコにしてやるんだから!」

 射抜かんばかりに敵影を見据え、声を張り上げた途端、はすぐさま迷走を止め、ラナの目前へと滑るように降下していた――。

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