第十八話 試験開始・3

 かつて異形たちが、ごく少数の脆弱な生物として鳴りを潜めていた《審判》以前の時代から、おそらくこの樹海には、人の脅威となり得る生物がいくつも存在していたのだろう。

 その推測を裏付けるかのごとく、相棒とふたり降り立った廃村には、小規模な集落の実備としてはおおよそ似つかわしからぬ堅牢な石塀が、ぐるりと村の敷地を縁取るように張り巡らされている。

 塀の内側の家屋が見るも無惨に朽ち果てていることを思えば、それはむしろ皮肉だとさえ感じられるほど――重厚にそびえ立つ牆壁しょうへきは、少しの風化の兆しも見せることなくいかめしい存在感を知らしめていた。

 何より、こんな場所に人が住んでいた痕跡が残っていること自体、驚きなんだけどな――

 先ほど相棒も話していた通り、ここは天空樹の発するマナの力の影響を、限りなく受けやすい土地であるはず。

 堅牢な防護壁の内側に隠れ住まい、樹海の緑と手を取り合いながら、幽玄の時を生きてゆく。ここに生きていた人々とは、そんな――かつては“森の守護者”と呼ばれた“エルフ”のような――部族であったのだろうか。

 ところが現在のユダに、これらの真偽を確かめ合える相手はいない。何故ならその唯一であるはずの相棒は、浮かない顔で足元を見つめたまま、すっかり口をきかなくなっていたからだ。

 ――沈黙が、ずしりと重く圧し掛かってくる。

 それもこれも全ての始まりは、空の上でこの集落跡を見つけた瞬間からだ。頭の芯に差し込む痛みが強くなればなるほど、彼の変わり様は、目も当てられないほど顕著になっていった。

 ユダの呼びかけに応じないばかりか、唐突に立ち止まっては、何かの気配におののくような仕草を見せる。きょろきょろと意味もなく周囲を見渡す。そうかと思えば、ぼんやりとどこかを見つめる。ぶつぶつと独言を零す。

 きっと彼は、何か悪いものにでも憑かれてしまったのだ――そんな思いさえぎるほど、彼はひどく狼狽し、憔悴しているように見えた。

「遠くから見たときは、隠れられそうな場所がわりとたくさんあるような気がしたけど、実際調べてみるとそうでもないみたいだね――ほとんどの建物が壊れちゃってるみたいだし」

 そんな相棒の様子をいつまでも見守り続けることが辛くなり、ユダは敢えてそれを気にも留めないかのような素振りで、つとめて明るく声を掛けていた。

 しかしながら、いつまで待っても隣人からの返事はなく――早々に会話を諦めたユダは、深々と嘆きを吐露していた。

 ――ところが。

「どんな異形が潜んでいるか分からない以上、ただ身を隠すだけが安全だとは限らない。《犬鬼ケルベロス》のように空間を渡る能力を持った異形と当たった場合には、物陰に潜むこと自体、何の意味も持たないからね」

 唐突に、とんでもない出遅れのタイミングで、相棒が返答を寄越してきた。

 ――何だ、ちゃんと聞いてたんじゃないか。

 そんな風に腹立たしい気持ちもちらつきはしたが、ようやっと長い沈黙から解放された嬉しさで、ユダは思わず飛びつくように相棒の側へと駆け寄り、何度も相槌を打っていた。頷くたび、頭頂を貫く痛みは鋭さを増していたが、どうにか歯を食いしばって耐える。

「だけどさっき君は、ここを“隠れるにはいい場所かもしれない”って話してたよ。なんでそんなこと言ったの?」

「ああ、それは――」

 ガラハッドは、吹きすさぶ風に飛ばされまいと脱げかけた帽子を押さえつけながら、元来た道を振り返り、砂煙に薄れた石塀をじっと見つめていた。

「この村を囲む石塀に、異形を遠ざける力が備わっているからだよ。この村の周辺で採掘される石には、微量ではあるけど“輝聖石”が含まれているんだ」

 その声音に、未だ力は戻っていない。けれどやはり彼は、動揺の中にあっても、根拠のない論証を口にしたりはしていなかったと分かる。

 大丈夫。彼はまだ大丈夫だ――

 繰り返し自分に言い聞かせながら、ユダは夢中でガラハッドを見上げていた。

「じゃあここも王都みたいに、低級の異形は入ってこれないってこと?」

「いや、純度の高い輝聖石が大量に埋まってる王都に比べたら、ここの忌避効果なんてザルみたいなものだと思うけど――」

 鍔付き帽子の落とす影から覗いたガラハッドの双眸は、まるで寝起きのように虚ろだ。しかしながら、確たるその話し振りから考えれば、やはり彼がこの村のことを――ひいては、この村にまつわるユダの過去について知っているのは、もはや明白であろう。

 唐突に訪れた、自身の記憶ルーツを掴めるかもしれない好機。煩わしい疼きが拡がってゆくのをよそに、ユダの内側は密かに躍っていた。

 何か。何か、引き出せることはないか。

 次第に間隔を狭めてゆく痛みに激しい眩暈めまいをおぼえながらも、ユダは懸命に相棒の語りに耳を傾けていた。

「それでも、樹海の茂みに隠れてることと比べたら、格段に異形から見つかりにくくなることは確かだ。君の能力を使えばきっと、奴らが接近してくる前に察知して動くこともできるだろう」

 一方の相棒は、話し続けることで着実に平常を取り戻しつつあるように感じられた。

「だけど、安心するのはまだ早い。これほどの異常な環境だ――樹海の外では低級とされる異形も、ここでは石塀の加護が通用しないくらいに凶悪化しているかもしれない。異形は生息地の環境によって、良くも悪くも大きく性質を変える生き物だからね。外見的には見覚えのある姿でも、驚くほど高い知能や戦闘能力を持った個体に進化してる可能性もあるし、油断は禁物だよ」

 いつ何時も、“最悪の予見”が的中する場面を思いながら動く。彼は、渡る前から叩き壊しかねない勢いで石橋の具合を確かめ回るほど、慎重に慎重を重ねる性格だ。そんなガラハッドの発言から“懸念”、“警戒”の要素が排除されることは、おそらくない。いつだって彼は、安易な肯定をしとしないのだ。

 時にそれが、僅かな可能性を見過ごす結果に繋がり、論議の火種となることもあったが、彼の周到さという“持ち味”には数え切れないくらい助けられてきた。

 先ほどの発言には、そんな彼の強みがいくつも散りばめられていた。きっともう彼は、十分過ぎるほどいつもの冴えを戻している――話すなら今しかない。

 混濁する意識と格闘しながら、ユダは意を決し、晴れない相棒の横顔を食い入るように見つめていた。

「あのね、ガラハッド。君は、この村のことを随分詳しく知っているよね? それに――」

 紡ぎかけると、早くもユダの奥では、更なる異変が生じていた。まるで魂そのものが削ぎ落とされてゆくかのように、急速に意識の幅が狭まってゆくのを感じたのである。途轍もなく圧倒的な力が、ユダの決意をねじ伏せようと働いているのが分かった。

 そんな矢先のことだ。

『――貴女は本当に、この先の真実を知りたいと思っているの?』

 声が聞こえた。

 唐突に、心の最も奥深いところから、誰かが語りかけてくるような気配を感じたのである。そうして初めてユダは、己の内側でせめぎ合う、相反する思いに気が付いていた。

 過去の記憶を取り戻したいと願う傍らで、知らないままを続けたいと怯える気持ちが存在している――?

 どうして今まで忘れていたのだろう。

 全てを知ってしまうことで、今ある幸せが崩れ去ってしまうのではないかという懸念。それは、自身の過去を紐解く鍵が、無二の相棒の過去の中にあると気付いたときからずっと、うやむやにし続けてきた思いだったのだ。

 いつも傍らに、信じられる相棒が寄り添い続けてくれる日々。それだけでもユダには充分であったが、王都へやってきてからというもの、“自らの力を必要とされる場所”、“苦楽を共に分かち合える仲間”と、かけがえのないものが次々と増えていった。

 現在に確かな充足をおぼえるほど、真実を手に入れることに迷いが生じている。過去の自分を知ることで、今の自分の築き上げてきた全てが遠ざかりはしないかという不安が、大きく頭をもたげてくるのだ。

 もしもこの痛みが、“現在の崩壊”への警告なのだとしたら?

 いっそ思い出さない方が、ずっと幸せに生きていけるだろうか――


 いいや、そんなはずはない。

 そこまでを思った後で、再びユダは、痛みに沈みかけた意識を奮い立たせるようにかぶりを振っていた。

 この先もずっと、自らの本質に背を向けたまま生きてゆくのか?

 心のどこかに迷いを抱えながら生きてゆくことが、本当に幸せだと言えるのか?

『光の側には、必ず影が生まれるんだ。栄光の傍らには必ず、目を背けたくなるような挫折や犠牲が転がっている。この先どんなことがあっても、絶対に忘れちゃいけないことだ。君がそれを忘れないでいてくれるのなら、僕は迷わずついて行ける』

 昨晩、楽園の平和について語った折、相棒がくれた言葉は、確かこうだった。

 今ある幸せ――現在の自分を“光”とするならば、失ってしまった過去の自分は“影”だ。どんなに目を背けても、光の傍らに影は必ず寄り添っている――元を辿ればその影さえも、光の一部分なのだから。

 過去の自分も引っくるめた全てが、“ユダ”という一人の人間を作り上げてきたのだ。積み重ねた過去を切り離してしまうなど、自分自身を否定して生きるのと変わらない。そんな偽りだらけの人生を送ることが、果たして幸せと言えるのだろうか?

 相棒が“忘れるな”と語って聞かせてくれたこと。それは、影から目を背けてはいけないということ。“真実から逃げてはいけない”ということに他ならないはず。

 彼が迷うことのないように、僕はちゃんと逃げずに生きていかなきゃ――それがどんなに険しく、辛い道のりであったとしても。

 残された力の全てを振り絞り、ユダは虚ろに目を泳がせた相棒の手を、固く握り締めていた。

「ガラハッド……ここにはきっと、僕の失われた記憶に関する何かが残っているんだよね。君の知ってることを僕に教えてよ。どんなに些細なことだって構わないから」

 ユダの言葉を聞くや否や、はっと我に返った様子でこちらをまっすぐに見下ろしたガラハッドの表情は、とびきりの悲壮に満ちていた。

 ――そして。

「ここは――」

 僅かに言い淀むような間を置き、ガラハッドがごくりと喉を鳴らすのが分かった。

 ユダの頬を優しく撫でた相棒は、まるで幼子に寝物語を聞かせるようにゆっくりと、初めての“過去”を語り始める。生気を取り戻した彼の双眸には、ユダと同じ、覚悟の色が滲んでいるように見えた。

「ここは、古の時代から樹海と共に生きてきた、先住民族の隠れ里だった。里は、樹海という天然の要塞に守られていたおかげで、永い間誰にも侵されることなくひっそりと在り続けていた」

 ああ、もう。

 もうここにとどまれるだけの――

 消し粒のように擦り減った魂が、更に深々と削ぎ落とされてゆくのを感じる。とうにユダの意識は、まともな思考を保てる状態ではなくなっていた。足取りの覚束なくなったユダの体を静かに抱きとめたガラハッドは、寂しげに微笑みながら、昏睡に落ちかかったユダを静かに見下ろしていた。

「この里は、君と僕のふるさとでもある。遥か遠い昔から、僕は君を見守り続ける役目を与えられていたんだよ。たくさんの伝説が生まれるよりもずっと遠い時代から、君と運命を共にすることを決められていたんだ」

「役目……? それは一体、誰に……?」

「それほど遠い時代から生きているものを、君はそういくつも知らないだろう?」

 途端に、目の前の全てが一面の白に沈んでゆくのが分かった。

 それでも、聴覚はまだ生きている。彼の語った言葉を、ひとつでも多く記憶に刻み付けることができれば――

 神様、どうか。どうか。

 次に目を開けたとき、彼のくれた言葉を思い出すことができますように。

 ほどなくしてユダは、閉じかけた瞼の向こうに、全ての感覚が吸い込まれていくのを感じていた。


*****


「――ふう。これで良し、と」

 吐息を漏らし、こめかみを流れ落ちる汗を拭ったメリルは、泥と埃と枯れ草にまみれたローブの裾をはたいて、すっくと立ち上がっていた。

 それにしても、なんて暑い――

 樹海の凄まじい湿度といったら、煮え湯の吐き出す蒸気を間近でずっと浴び続けているのと変わらないくらいのものだ。子供の時分、両親とともに訪れた西方の国でよく見られた“驟雨スコール”が止んだ直後の蒸し暑さを思い出す――否、瘴気の生み出す不快を、天の恵みと並べて比較するのは、いささか無遠慮が過ぎるだろうか。

 今すぐにでもこの分厚いローブを脱ぎ捨ててしまえたら、どんなにか楽だろう――しかし、計り知れない生態系を秘めたこの樹海で、不用意に素肌を晒して歩くのはあまりに危険というものだ。

 たくし上げかけたブラウスの袖を元に戻したメリルは、握り締めていた小振りの短剣を道具袋に仕舞い込み、代わって取り出した革製の水筒に、そっと口をつけていた。気休め程度に口内を潤して、再び大きくため息をこぼす。

『学者の身分で騎士を目指そうなどとは、無謀にもほどがある』

 この試練の場に飛び込むことを決めた当初、周囲からはそんな風に、随分と手酷い批判を受けたものだった。推薦者となってくれたレヴィンでさえ、初めは「騎士になる必要などない」と反対していたくらいである。

 しかし、学者の家柄に生まれ育ったメリルにとって、騎士になることは、そうした周囲の声を打ち遣ってでもやり遂げたいほどに、大きな意義があったのだ。

 学者にとっての“唯一無二”といえば、紛れもなく知識である。それは《審判》の日を皮切りに行方知れずとなってしまった両親の、最も大切にしていたものでもある。

 人の営みを脅かす異形たちと戦うために必要なものは、何も剣や槍だけとは限らない。強力な魔術だけとは限らない――学者の持つ知識だって、立派な武器になり得るのだということを証明したかった。そうすることで、世界でただひとりの肉親となった弟に、希望を与えてやりたかった。両親の積み重ねてきたものが、立派に実になるところを見せてやりたかったのだ。

 それがきっかけで、勉強嫌いの弟の性根を少しでも改めることができれば、これ以上望むことはないのだけれど――大きな志と小さな打算を胸に、メリルはこの試練に挑んだのである。

 熱意をもって説得を続けた結果、レヴィンは潔く折れてくれた。自らが推薦者となり、一切の責任を請け負うとまで言ってくれた。デューイも初めは随分驚いていたが、最終的には日課の補佐官業務に穴を空けてしまうことを認めてくれた。

 自分という一人の人間のために、多くの人が心を割いてくれた。だからこそ自分は全身全霊を傾け、試練に臨まなくてはならない。もてる知識のすべてを発揮して、この過酷な試験を突破しなくては――そして出来るならば、他の参加者たちを陰ながらに支えたい。

 とはいえ、闇雲に樹海を歩き回るのは危険だ。他のメンバーに比べれば、戦闘能力において圧倒的に見劣りする自分には、異形と遭遇した場合に咄嗟の対応を取る事ができない。

 しかしそれは、王都に生きるほとんどの民たちが同じであるはず――否、それどころか彼らには、ごく簡単な魔術にさえ適性のないものも多い。

 力持つ騎士たちが力なき民たちを守るのは当然のことだが、知識さえあれば、特別な力などなくとも戦う術はあるのだということを示したい。そうすることで民たちに、過酷な運命に抗う勇気を与えたい――これこそが、学者たる自分の進むべき“騎士道”であると、メリルは常々考えていたのだ。

 だからこそ、まずは自分自身が、実地をもってその知識の有意義さを証明しなくては。

 当面の目標は、安全地帯を探す――もしくは自らの手で作り出すこと。仲間を捜し当てる算段はそれからでも遅くはない。

 実を言えばこの樹海の浅い部分には、《審判》よりも前に、調査の一環として踏み入った経験がある。当時と比べれば、内部の荒廃ぶりは惨憺たるものだったが、よくよく観察してみると、ごく一部の微生物や植物に関してだけは、元の生態系を維持したまま残存していることに気が付いたのだ。

 破滅を生き抜いた植物たちは、専ら繁殖力の強い薬草ハーブばかりである。

 これらを可能な限りひとところに集めて、異形の忌み嫌う香りを炊き出し、奴らを寄せ付けない空間を作り出す――幾通りを思案した中で、メリルが最も有効と判断した作戦はそれだった。

 思いついた直後にはもう、自然と体が動いていた。そして山のような草むしりを終え、メリルはとうとう、炊き出しに最適な場所を見つけ出すまでに至っていたのである。

「気密性の高い、行き止まりの洞窟――隠れるには少し危険だけど、異形除けの薬草の香りを充満させるには、これ以上良い地形もないわね」

 言いながら、手の中の道具袋を肩に担ぎ上げ、メリルはきょろきょろと辺りを見回していた。

「問題は、薬草を炊き出している間、どこに隠れているかってことだけかしら。洞窟の側なら安全だとは思うけれど、それだけではまだ少し弱い――異形を寄せ付けないための工夫を、できる限り考えなくちゃ」

 さすがに炊き出しの煙が抜けきるまでの間は、空気の薄まった洞窟の中へ身を潜めているわけにはいかない。水中など、呼吸の不可能な場所で空気を確保するための魔術もいくつかあるにはあるが、メリルにそれらを体得できる適性や技術はない――と言うより、そもそも何かにつけてに魔術を頼ってしまうようでは、意味がない。それは己の知識に自信がないことを証明するのと、何ら変わりがないからである。

 無造作に地面へ放り投げた道具袋にぺたりと腰掛け、メリルはおもむろに懐から小さな本を取り出し、ペラペラとめくった。

 これはメリルの両親が自ら書き記した異形学の書であるが、幼い時分から毎日のように目を通していたおかげで、その内容は一言一句たりと漏らさず全て頭に入っている。

 つまり今更、こんな所で読書を決め込むなどということはないのだが、思案に及ぶ際、メリルは決まってこうすることに決めているのだ。慣れた感触を指に味わい、羊皮紙のめくれる音を聞けば、たちまち心は凪のような落ち着きを取り戻し、抜群の冴えと集中力を生み出してくれるのである。

「――あら?」

 無心でページをめくっていると、途中に見覚えのない書き込みを見つけた。

 メリル自身の手で書き込んだものではない。染みや傷の位置でさえ言い当てられるほど読み込んだ本だ。いつもと違うところがあれば、否が応でも気付く。

 犯人の目星はすぐに付いた。と言うより、こんなにも子供染みた悪戯をはたらく人間を他に知らない。落書きの犯人は、間違いなく弟だ。

『世界一の剣士になる! その第一歩として、まずは紅獅子に弟子入りするところから始めよう!』

 誤字だらけの一文の傍らには、生き生きとした挿絵――のようなもの――が描かれていた。輝く剣を携えた弟とおぼしき少年の傍らに、堂々たる佇まいで描かれた人物は――おそらくあの“紅獅子クリムゾン・レオ”フレドリックだろうか。

「あの子ったら――大事なお父様とお母様の本に、こんな落書きを」

 弟がこれを、試験に臨む姉を勇気付けるために書いたなどとは到底思えない。大方勉強に飽きた頃合い、手慰みに書き込んだものだろう。しかしメリルの口元は次第に緩み、その無邪気な悪戯に、いたく心を救われたような気になった。

 だが、僅かながらに訝しいものを感じていたりもする。

「フレドリックさんに弟子入り、ですって――?」

 アルスノヴァの戦災孤児だった弟が、幼い時分から、祖国の英雄である紅獅子フレドリックに憧れを抱いていたのは知っていた。しかし、こんなことになるのなら、軽々しく彼の素性についてを話したりするのではなかった――メリルは弟に、知識の探求者としての人生を歩んで欲しいと考えていたのだ。

「あの子が剣士になるだなんて、そんな危険なこと――」

 そう呟いてから、メリルはすぐさま、身の程をわきまえず危険をおかそうとする自分の方こそ、弟などよりよほど無謀に突き進もうとしていることに思い至る。

 仕方ないわね。血の繋がりなんてなくても、あの子は私の弟なんだもの。

 苦々と笑いを漏らしながら、メリルは今朝ほど、守護騎士候補者たちの顔合わせが始まる前に、いつもの場所――デューイの執務室で起きた一連を思い返していた。メリルの無謀な挑戦に最も痛烈な苦言を呈してきた、あの“紅獅子”とのやり取りのことを。



『わ、私はそれでも騎士になりたいんです……今更諦める気はありません!』

『馬鹿なことを……お前はその大事な弟とやらをここへ捨て置いて、わざわざ死地へ飛び込もうというのか』

 驚くほど強い剣幕でまくし立てると、フレドリックは刺すような眼差しでメリルを睨め付けていた。

『捨てるだなんて、そんなつもりは――』

 いつもいつも。

 執務室の隅でじっと黙って立っていただけの彼が、こんなにも激するところを見るのは初めてだった。

 ――私のことなんて、気にも留めていないものだと思っていたのに。

『デューイの奴が話しているのを聞いた――今回の試験会場は、おそらく王都から遠く離れた異形の巣窟だ。お前のように何の力も持たない学者風情が、そんなところへ放り出されてみろ。あっという間に異形どもの空きっ腹に収まるのが落ちだ』

 突き離すような鋭い口調で言われた途端、それまで感じていた驚きを、怒りの感情が凌駕してゆくのが分かった。

『学者風情というのは、聞き捨てなりません。私にも戦う術はあります。力でぶつかるだけが全てではありません……!』

 そもそも他人に怒りをぶつけた経験など皆無に等しく、胸を煽る感触をどうやり過ごせば良いやら分からなくなっていた。

 苦しくなった胸元を押さえて声を荒げると、目元にじわりと熱いものがにじんでくるのを感じた。

『どれだけ屁理屈をこねようが、死ねば一巻の終わりだ……お前は肉親を失い、たった一人残された者の気持ちを考えたことがあるのか!』

『え……?』

 しかし、目の前で辛辣を突きつける男が、単純に自分の力のなさを冷罵したいわけではないことに気が付くと、メリルの胸にわだかまった激情が、急速に熱を戻してゆくのが分かった。

 もしかすると、彼は――

『まあまあ、二人とも。フレドリック、女性に向かって威圧的な態度を取るのは見過ごせないな。そんな調子ではきっと、城中の女性から嫌われてしまうよ』

 刹那のこと。いつの間に現れたのか、樫の扉の前に人影が増えていた。この部屋の主であり、フレドリックとの共通の上官でもある――軍師デューイだ。

 穏やかに諭したデューイを見るや否や、フレドリックは苦虫を噛み潰したような顔で短く吐き捨てる。

『知るか……そんなことはどうでもいい』

 そして彼は、そのままこちらには一瞥たりとくれることなく、すたすたといつもの定位置へ戻ってしまったのである。

「やれやれ」と肩をすくめてそれを見送ったデューイは、細長い体を屈めて一礼し、謝意を呈していた。

『メリル、すまなかったね。彼はこれでも、君のことを心配しているつもりなんだよ。あの怖い顔は生まれつきのものだから、出来れば許してやって欲しいんだが――』



 あの時のことを思い返すと、未だにヒリヒリと胸が痛む。

 厳しい剣幕をおさめようとしないフレドリックを、あそこでデューイがなだめてくれなかったとしたら――場合によっては、泣き崩れる羽目になっていたかもしれない。

「――いけないわ。今はぼんやり考え事なんてしていられる場合ではないのに」

 そこまでを思ったところで、はっと我に返ったメリルは、再びきょろきょろと周囲を見渡していた。

 何にせよ、今は一刻を惜しんで動かなくてはならない。まずは手始めに、炊き出しの間の潜伏場所から吟味してみようか――

 そんな風に思案しながら、メリルは洞窟の外へてくてくと歩き出していた。

 ほんのりと薬香の漂う一本道を足早に進んで行くと、すぐさま出入口にぶつかった。油断なく周囲を見渡してから、ぬかるんだ地面へ一歩を踏み出す。

 ――異変を感じ取ったのは、その直後のことであった。

「えっ……?」

 メリルが外界を踏み締めたその瞬間、足元の淀んだ緑が、突如としてぼこぼこと煮え湯のような泡を吐き出したのである。

「しまった――!」

 これは地面などではない――穢れた泥地に擬態した《隷鬼スレイヴ》だ!

 気がつく頃、メリルの全身には、暗緑の異形の繰り出した無数の触手が、容赦なく絡み付いていた。

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