第七話 候補者たち
「相部屋、ですか?」
「すまない……本当なら個室を用意してやりたかったんだが、あいにく今は客室がどこも塞がっていてな。但し、君が一人で寝られるベッドだけは確保したから、今日のところはそれで我慢してくれないか」
城の中央付近に横たわる噴水前広場へと差し掛かったあたりで、前方を歩いていたレヴィンがぴたりと足を止め、こちらを振り返っていた。
薄雲のたなびく夜空にくっきりと浮かんだ満月の輝きを受け、白く優しい光を放ったレヴィンの短い髪が、さらさらと風に揺られている。
困り顔で頭を掻いたレヴィンに柔らかく笑みを向けながら、ユダはゆっくりと左右に首を振った。
「一人で寝転がれるベッドがあるなら充分です。宿の代わりにお城へ泊めて貰えるっていうだけでも、これ以上ないくらいの贅沢ですから。本当に嬉しいですよ」
「そうか……ならいいんだが」
言いながらもレヴィンは、不甲斐なさげな面持ちを取り下げようとはしない。「まだまだ謝り足りなくて仕方がない」といった顔付きをしている。
ユダにしてみれば、ガラハッドの介抱を任せて欲しいと声を掛けて貰えただけでも、充分ありがたい話だと思っていたのだが。
一度口に出した約束を果たせずにいることが、それほどまでに気掛かりだというのだろうか。世の中には義理堅い人間もいるものだと、ユダはいたく感銘を受けていた。
言われるがまま相棒の一切を委ね、「部屋がないなら俺の部屋を使わせてやる」と、何とも露骨なサイの誘いを適当にかわし、ようやっと今、ユダは今夜の安らぎの場所に辿り着こうとしていたのだった。
思えば今日は、いろんなところを歩き回って走り回って、ずっと動きっ放しだったなあ――
念願の暖かな寝床を思い描いた途端、身体中から重だるい疲労感がどっと湧き上がってくるのを感じていた。
それにしても、城内へ入ってからもまだ、かなりの距離を歩かされることになったのは予想外であった。トランシールズ城の敷地は、想像を遥かに凌ぐ広さだったのである。
城門から客室までを歩く間、中庭を横断するだけに、どれほどの時間を要したことか――
しかし、驚くべきは広さのことばかりではなかった。この城にやって来てユダが最も驚かされたのは、街で見ていた外観から受けていた印象と、実際目の当たりにした城内の様子とがえらく食い違っていたことだった。
華やかな王侯貴族たちが日々を送る、白壁に抱かれた美しい王城――城門をくぐってみるまでは、どれほど煌びやかで贅を尽くした作りになっているのだろうと、期待を膨らませもした。けれど実際の城内は、華美な装飾の一切を排した、至って
城の外周を取り囲む分厚い白亜の盾壁には、至るところに
側壁に整然と並んだ十字型の穴は、一見美しい紋様のようにも見えるが、実のところは遠距離武器による瞰射のための狭間の役割を果たすものであろう。
城下を一望できる高台に座し、後背をルース川という天然の堀で固めたトランシールズ城は、まさに難攻不落の〝要塞〟である。
名実ともに、ここは荒れ果てた世界の最後の砦なんだ――
歴史の重みの連なった堅牢な佇まいを見つめていると、言葉に出来ない思いが胸に込み上げてくる。
設備だけにとどまらず、ここでは調度のひとつひとつに至っても、派手やかなものはほとんど使われていないらしい。
兎にも角にも、この城においては全てのものが、見た目の華やかさよりも遥かに、使いやすさ、持ちの良さといった〝機能美〟を優遇され集められているようであった。
城内の至るところから伝わってくる、徹底した〝質実剛健〟の信条――それらは、城主たるトランシールズ王の気質の表れなのだろうか。
それゆえのことなのか、ユダは城門の内側へ入った後も、居心地の悪さや疎外感のようなものは少しも感じていなかった。
傷だらけの身体を寄せ合って、互いの健闘を讃え合う若い騎士たち。
分厚い書物を片手に、論議を白熱させる学者たち。
危なっかしい足取りで大鍋を抱えて歩く、調理人たち。
山のような洗濯物をあくせくと集めて回る、召使いたち。
そこに生きる人々は、皆が皆、温もりのこもった明るい目をしている。
この城はきっと、昏い世界を生き抜こうとするすべての人に〝展かれて〟いるんだ――
眼下の街を凌ぐ活気を目の当たりにしたユダの胸には、確固としてそんな思いが沸き起こっていた。
現在ユダの居る中庭の噴水前広場は、そんな喧騒の空間からは少し外れた位置にある。このあたりには、
隅々までを覗いて回りたくなる好奇心と戦いながら、ユダは黙ってレヴィンの背中を追いかけ、長い道のりを歩いてきたのだった。
光源が少なくすっきりと開けた広場からは、空がよく見えた。
今宵の月は、いつになく神秘的な輝きに満ちている。日中、あれほどもやもやとわだかまっていた鈍色の雲は、いつの間に消え失せてしまったのだろうか。
中庭の中央に座した噴水から湧き出す水は、月の光そのものを浮かべたような銀色をしている。しかし、何よりユダが目を惹かれたのは、円形に並び立つ石柱に囲まれたこの中庭一帯を覆う、色とりどりの植物たちであった。
月の眼下に広がる中庭の風物は、まるで楽園の縮図のような色彩に溢れている。
気が付くとユダは、溜まりに溜まった疲労のことなどすっかり忘れ、魅入られたように噴水の側へと走り寄っていたのだった。
「わあ……すごい! 珍しい植物がたくさんある!」
石柱に巻き付いた蔦のような植物に、ユダはおっかなびっくり手を伸ばす。
そしてすぐさま、指先を走った感覚に驚愕していた。
触れてすぐ葉を散らすことのない植物に出会ったのは、これが初めてだった。瑞々しさに溢れた青い葉は、想像していたよりもずっと肉厚で弾力がある。
「わっ――!」
刹那。
青葉を揺らし、庭園中を吹き渡った風が、むせ返るほどの強い香気を立ちのぼらせていた。かぐわしい香りに包まれた途端、ユダは頭の芯を稲光に貫かれるような、激しい衝撃を感じていた。
そうして、確信する――この美しい色彩には、はっきりと見覚えがある。やはりこの意識のどこかには必ず、《審判》以前の世を生きた記憶が眠っているのだと。
「ここの植物は、《審判》の後も奇跡的に枯れずに残っていてな。日々異形と戦う俺たちの心が少しでも晴れるようにと、王女が毎日欠かさず手入れをなさっているんだ」
「王女様が、庭の手入れを?」
過去の記憶を遡ろうとしていたせいか、またいつもの頭痛が鋭く射し込んできて、ユダの意識は朦朧としかけていた。
駄目だ――今は思い出そうとしちゃいけない。
小さくかぶりを振ってから後方を見遣ると、いつの間にかレヴィンが間近の位置に立っている。幸いにも、彼にこちらを不審がる様子はなかった。
「国王陛下が病床に臥せっておられる今、マーシア王女は幼い身で陛下の代理をお務めになっている。しかし王女は昔から、気取ったところのない素朴なお人柄でな。今目の前にある美しい景観は、王女の清らかなお心の表れだ。つまりここに残された自然は、この城に暮らす人々の希望の象徴なんだよ」
〝王女〟というその短い言葉の中には、女心を虜にする、特別な力が秘められているのだろうか――レヴィンの話を聞くや否や、ユダの胸には好奇心とは別ものの、甘酸っぱい感情が湧き起こっていた。平時こそ、女としての自分などほとんど意識したことのないユダだが、やはりその言葉の魔力には抗えぬようである。
「素敵な王女様なんですね。一度でいいから僕も、お会いしてみたいなあ」
ユダがありのまま、憧れの丈を言葉に乗せて話すと、レヴィンはにっこりと優しく微笑んで、「そうだろう」と満足げに頷いた。
「王女は気さくなお方だ。君ならそのうち声を掛けられることもあると思うが」
「本当ですか? それは楽しみです!」
幼い王女はきっと、誰もが守ってあげたくなるような、愛らしい女の子に違いない――
空想に胸躍らせ、ユダは鼻歌でも歌いだしそうなほどわくわくしながら、宝石のように煌めく夜の庭園を振り返っていた。
石柱の上端に灯された魔術の
夢のようなその光景にうっとりと見とれながら、ユダは白亜の噴水の縁に腰を下ろす。そして再び、緑の息吹を胸いっぱいに取り込もうと、深く呼吸を入れ替えていた。
「僕、緑色をした葉っぱを見るのは初めてです。こっちは赤いし、これは黄色かな? 形も綺麗だし、とってもいい香りがする。篝火の下じゃなく太陽の光の下で見たら、きっともっと綺麗な色をしてるんだろうな」
嬉々として話すユダに、レヴィンはほんの一瞬、答えに詰まるような
やがて俯いた顔を持ち上げたレヴィンは、遠慮がちに語尾を曇らせながら、ゆっくりと話し始める。
「先ほども話していたが……君は《審判》以前の記憶を失っているのだったな。植物とは本来こういう色をしているんだ。赤や黄色をしているのは葉ではなく、花という」
「これが、花?」
再び、頭の奥がビリビリと痺れを放つ感覚に襲われた。
きっと自分は、どこかでこれと似たものを見たことがある。それなのに、記憶のどこを掻き分けても、その面影がさっぱり見当たらないのは何故なのか――
いたたまれなくなり、ユダはそっと目を伏せる。鋭い痛みと共に、言い知れぬ哀しみがユダの脳裏を支配していた。
「花という言葉が、何を意味するのかってことは分かってるんです。だけど僕には、その花を見た記憶がどこにもなくて、こうやって教えてもらわなくちゃ、実物を前にしていることにも気付けない――」
言い終わる頃、ユダの口元にはいつの間にか自嘲が浮かんでいた。すっかり静かになってしまった傍らを見遣ると、そこに居たレヴィンはまた、悲しむような、憐れむような目でこちらを見つめていた。風に躍る横髪を撫で付け、ユダは再び足元へ視線を落とす。
「僕には《審判》の後に見てきた景色が、記憶の全てなんです。だから逢魔の森のような、灰色や茶色の自然しか見たことがなくて。僕にとってはそれが当たり前だったから、今まで気に留めたこともなかったけど……この綺麗な花を見た後に、もう一度あの暗い色に覆われた森を前にしたら、きっと全部が味気ないものに見えるんだろうな。それを思うと、今生きている人たちみんなが、元の世界に強く焦がれる気持ちが、とてもよく分かるような気がします」
「……確かに君の言う通りだ。歪んでしまう前の世界は、美しさに溢れていた。誰もがその美しい世界を、不変のものだと過信していたんだ。だから俺たちは、敢えてそれらを顧みようなどとは、考えもしていなかった」
「今までの僕も、同じようなものだったのかも……状況はそっくり反対だけど」
「そうだな」
静かに目を閉じたレヴィンは、遠い夜空を振り仰ぎ、月の膝元にたなびく光の帯をその手に掴もうとするかのように、頭上へと指先を伸ばしていた。
「全てを失ってしまったことで、我々はようやく気付かされた。それまで何気なく――時には取るに足らないものだと思いながら過ごしてきた世界が、どんなに素晴らしく、輝きに満ちたものだったのかということを」
だから、美しい世界を惜しんだ人々は後に、その大いなる災厄をこう呼んだ。恵みの歓びを忘れた罪深い人間に、神々が下した裁断――《最後の審判》と。
「なあ、ユダ。俺が生まれ故郷を離れ、この都で騎士として陛下に仕える道を選んだ理由を聞いてくれるか」
「もちろんですよ。すごく興味があります」
再びこちらを向いたレヴィンの瞳には、市街で異形と対峙していたあの時と同じような、活力と熱意とが
「俺が騎士を志した理由は、とても単純なものだ。〝生まれる前からそう決められていた〟から――今振り返れば、なんて主体性のない志望動機だったのだろうと自分でも思う。だが、きっかけはそんなものだったんだ。周囲から受けた期待に応えられるような、立派な騎士になれればと――そこに何ひとつ疑問など抱いては来なかった」
本人もそう語っていた通り、彼の動機はユダが密かに待ち望んでいたような、夢にあふれたものでも、意外性のあるものでもなかった。
――だけど、言いたいことはそれだけじゃないんでしょう?
零れそうなほどの期待と希望を上乗せし、ユダは瞬きすらも惜しみながら、レヴィンのまっすぐな眼差しを受け止めていた。そんなユダの思いを汲み取ったかのように、レヴィンは深々と頷く。
「だが、今は違う。今の俺には、〝命をかけて護りたい者〟が居る。その者の行く先に確かな未来を作り出してやりたいがため、俺はここに居る。そうするには何としてでも、世界に光を取り戻さなくてはならないんだ」
迷いを捨て去った、確固たる口調。
闇を照らす篝火のような、優しく力強い眼差し。
レヴィンの〝命をかけて護りたい者〟とは、破滅の世に唯一生き残った肉親だと話していた、彼の妹のことだろうか。それとも――
彼ひとりに限ったことではない。この城に集う人々の目には総じて、彼と同等、時にはそれを凌駕するほどの、大きな意志が宿っているのだ。
「僕も――みんなの願いを叶えたいです。緑を取り戻した世界を、この目で見たいです。だから、レヴィンさんたちと一緒に戦いたい」
たった今、心からユダは、彼らの助けになりたいと願っていた。希望に溢れた人々の行く先に、最後まで寄り添いたいと願っていた。
そうしていずれは、外界を旅する中で見続けてきた、あの悲しい目をした人たちに――「どんなに努力を重ねたところで、もう世界は元通りにはならない」と、深い嘆きに苛まれていた人たちにも、等しく希望の光を届けてやりたいと思った。
そのためなら、何だってやろう。
僕が骨を埋める場所はもう決まった。僕の生きる道は、ここにある――!
「心から歓迎しよう、ユダ。ただ俺は、出来れば君の相棒も共に、騎士団へ迎え入れたいと考えているんだが」
目頭が熱くなるほど思いを昂らせていたユダであったが、レヴィンの零したその一言によって、瞬く間にシビアな現実へと引き戻されていた。
決意を固めたユダにとって、唯一の障壁となるもの――それは、自らの半身でもある
しかしながら、立ちはだかる壁の高さにくらくらと眩暈をおぼえながらも、同時に「酒が入っていなければ、もう少し冷静に話を聞いてもらえるかもしれない」と、楽観的な思いも湧いていたりする。
何はともあれ、やってみなくては始まらないか――
早速と相棒を説得するためのあれこれを模索しながら、ユダは勢いよく噴水の縁から立ち上がり、ひとり鼻息を荒げていた。
「僕、ガラハッドを説得してみようと思います。彼は頑固だから、ちょっと時間がかかるかもしれないけど――でも、大丈夫です! た、たぶん……!」
「頼んだぞ。おそらく君でなくては無理だ。彼が心を開く相手は、君だけのようだからな」
自身でガラハッドを説き伏せようと奮闘する場面を思い描いたのだろうか。しばし思案顔を浮かべていたレヴィンであったが、すぐさまうんざりとした様子で肩を落とし、深々と溜息を零していた。
「そ、そうだ。本題を忘れるところだったが……今夜君に泊まってもらう部屋は、すぐそこの客室なんだ」
ひとしきり頬を引きつらせて笑い合った後、レヴィンは唐突にはっと目を見開き、石柱の向こう側を指差していた。
「何だ、もう目の前だったんですね。長々と引き止めてしまって、すみませんでした」
「いや、謝る事はない。おかげで有意義な時間を過ごすことが出来た。俺としては感謝したいくらいだよ、ユダ」
優しく微笑んだレヴィンは、促すようにそっと客室の扉を見遣ると、再びユダの前方を歩き始める。
「この部屋を使っているのは、白魔術士のラナと、学者のメリル。二人とも、君と同じ立場の――他の守護騎士からスカウトされた〝候補者〟だ。ラナは俺の妹なんだが――」
「え、妹さんも候補者の中に居るんですか? レヴィンさんが声を掛けるくらいだから、きっとすごい魔術士なんだろうなぁ!」
「い、いや。メリルに声を掛けたのは俺だが、ラナを誘ったのは俺じゃない。むしろ俺はだな、その――」
唐突に言葉を詰まらせたレヴィンは、扉の手前で拳を握っているにもかかわらず、何故だかノックをひどくためらっているような素振りをみせた。
「ま、まあとにかく仲良くしてやってくれ。ラナは、君と歳も近い。同じ年頃の友人が欲しいと言っていたから、きっと喜ぶだろう」
当然のように、すぐさま「何をそんなに焦っているのか」と尋ねたくなったが、突然落ち着きのなくなったレヴィンの心中を思うと、ストレートに尋ねて良いものかと不安に駆られる。
何だろう。もしかするとレヴィンさんの妹って、ものすごく個性的な子なのかな――
そんな風に思いつつも、とうとう冷や汗を垂らしながら「開けるぞ……」などと呻き声をもらし始めたレヴィンを前にして、ユダはますます確認のタイミングを量りかねていたのだった。
そうして何度目かの呻きの後、大袈裟な咳払いを挟んでから、彼はようやく意を決し、扉をノックした――はずだったのだが。
「くせものおおっ!」
ノックの音よりも数瞬早く、静まり返った城内にけたたましい叫び声と衝突音とが響いていた。
驚きに声もあげられぬまま、ユダはただぽかんと口を開け、傍らにあったレヴィンの姿を見つめていた――開け放たれた分厚い樫の扉と、客室の側壁との隙間にがっちり挟まれた、憐れに変わり果てたレヴィンの姿を。
単純に〝挟まれた〟と言うよりは、想像を絶する勢いで扉に突き飛ばされ、側壁にめり込んだと表現した方が的確だろうか――
衝突の反動で戻ってきた扉が、行き場をなくし、ふらふらと行ったり来たりを繰り返している。いったいどれほどの力が加えられたというのか――よくよく見てみると、扉の端の
「れ、レヴィンさん――!」
ろくに受身も取らぬまま、顔から石壁に激突したレヴィンが、無言のままユダの足元に転がる。
客室の入口に立っていたのは、幼げな顔立ちをしたひとりの少女であった。
「あれっ? 誰かと思ったら、お兄ちゃんじゃない……何やってんのよ。あんまり長いこと扉の前にいたから、不審者かと思った!」
こんなにもごく普通の女の子が、金具を吹き飛ばすほどの勢いで扉を開けた本人であるなどとは、到底信じがたい――オレンジ色のマニキュアに彩られた細い指で、艶やかな翡翠色のポニーテールを撫で付けたその少女は、信じられないことに、ユダよりもまだひと回り小柄な体格をしていた。
「後でここを訪ねると伝えてあったはずだろう! こんな馬鹿力でドアをこじ開ける奴があるか!」
端正な顔立ちを真っ赤に染め、レヴィンが憤慨している。あれだけ凄まじい不意打ちを掛けられた後に、すぐさま立ち上がることのできるその底力は、どれほどの修練を積めば体得できるのか――などという的外れな疑問は、口に出さずそのまま飲み込むことにする。
「きゃあっ! レヴィン様、鼻血が……!」
その時、樫の扉を吹き飛ばした少女の後ろから、同じ年頃と思われるもう一人の少女が顔を出していた。レヴィンの惨憺たる有様を見るや否や、長い黒髪の少女は口元を両手で覆い、驚愕に目を見開いていた。
「ふん、いい気味ね! 非常召集が出たときにあたしを一緒に連れて行かなかったから、罰が当たったんだわ!」
レヴィンを〝お兄ちゃん〟と呼んでいることから考えると、おそらくこのポニーテールの少女は〝ラナ〟だろう。どうやら彼女は、実直を絵に描いたような兄の真逆を行く、おてんば娘のようである。
満身創痍の兄を心配するどころか、含み笑いさえ浮かべて見下ろしてみせたラナに、レヴィンは鼻の下を流れ落ちる赤い液体をごしごしと拭いながら、必死の剣幕で応戦していた。
「正式に騎士と認められた訳でもないお前を、異形の討伐に連れて行けるわけがないだろう! まったく、何度言えば分かるんだ――だいたいお前を連れて行って、怪我でもされたらどうする!」
「まあ、なんてお優しいんでしょう。やはりレヴィン様は、たった一人の妹君を大切に思ってらっしゃるんですね」
そうすると、ラナの傍らに居るこちらの少女は〝メリル〟だということになる。
先ほどレヴィンは、彼女のことを〝学者〟だと言っていた――確かに肩書きの通り、いかにも利発そうな少女である。ラナと比べると話し振りもしっかりしていて、随分大人っぽい印象を受ける。
ラナとレヴィンの――あくまで、彼女の想像上の――美しい兄妹愛に感極まったらしいメリルは、強張った表情を一変させ、漆黒の瞳をキラキラと潤ませていた。
「いや、違うぞメリル。怪我をさせられるのは周りの人間だ。君もこいつの怒りっぽさと馬鹿力を、知らぬ訳ではないだろう」
どこからか取り出したハンカチで鼻を覆ったレヴィンは、メリルの耳元に顔を寄せ、鼻声をぼそりと響かせていた。
しかし、思いのほかよく通る低音が仇となり、その耳打ちはラナ本人はおろか、やや離れたところに立っていたユダのところまで、何の問題もなく届いてしまっていたのである。
「誰が馬鹿ですって? 周りの人に怪我なんかさせる訳ないでしょ! あたしは白魔術士なんだからね!」
「痛たたたたっ! お前のどこが魔術士だ! 格闘技の方がよほど得意じゃないか!」
普段の物静かな様子からは想像もつかないほどの大声で喚き散らしたレヴィンは、気が付けばふた回りほども体格差のあるラナに胸倉を掴まれ、地に足がつかなくなるほど高く持ち上げられていた。
「は、離せ……! 苦しい!」
「大っ嫌い! お兄ちゃんなんか大っ嫌い! あーもう、ほんとムカつく!」
「け、喧嘩はいけません! 二人とも一度落ち着いてください、ね?」
慌てふためくメリルを尻目に、尚もラナは、レヴィンを締め上げる事をやめようとはしない。
この小さな身体のどこに、大の男を掴み上げるほどの力が隠されているというのだろう――
思い返せば、酔い潰れたガラハッドを運んでくれたカイルも、細い身体で重量級の大剣を軽々と振り回していた。しかし、体格も背丈も彼より数段小さいラナが同じことをやってのけたとなれば、そこに漂う迫力は倍増しほどにも跳ね上がるのだ。
レヴィンが妹に関することで何やら言い淀む節があったのは、ここに起因するのだろうか――しかし今の状況を思えば、そんなことは口が裂けても確認出来そうにないが。
その時のことである。
「あ! あなた、もしかしてユダじゃないの? お兄ちゃんから聞かされてた特徴とそっくりだわ! 銀髪に紅い目!」
唐突に、レヴィンを掴み上げたままこちらを振り返ったラナの表情が、ころりと入れ替わっていた。
その直後、胸倉を掴む手をいとも簡単に離され、為すすべもなくレヴィンが石畳の上に尻餅をつく。
刹那、ユダの胸の中心は激しく
「話は聞いてるわ。さ、入って入って! こんなデリカシーの無い男は放っといて、女の子同士でお話しましょうよ! ね?」
「お前にデリカシーが無いと言われたら、お仕舞いだ……」
そんな風に呟いてしまわなければ、彼女の逆鱗にふれることもなくなるだろうに――
レヴィンの発言は、すぐさまユダに三たびの悲劇を予感させたが、幸運にもラナの耳には届かなかったようである。
暗い渡り廊下にへたり込んだままのレヴィンが心配になったユダは、懸命に後方へ首を捻り、彼の安否を気遣おうとした。
しかし、あれほどの怪力を披露したラナの〝引き〟に抗えるはずもなく――
そのままずるずると客室へ引っ張り込まれてすぐに、ねじ曲がった蝶番を辛うじてくっつけた扉が、無理くり元の位置へ押し込まれるのが見えた。
閉じ込められてしまった――!
背筋を冷汗が滴り落ちる感覚を味わいながら、ユダは勧められるがまま、とうとう客室のソファへ座らされていた。
※1《鋸型狭間|(ツィンネ)》=城壁や
※2《石落とし|(マシクーリ)》=城壁のすぐ内側を取り巻く連絡通路(歩廊)から、城壁上部へせり出すように作られた小部屋。床には狭間が付けられており、真上から城壁の周りに群がる敵兵に石を落としたり、槍や弓、魔術で攻撃を仕掛けることが出来る。
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