第一話 逢魔の森にて

 どうしてこうなってしまったのだろう。度々思い続けてきたことだが、自分には幸運というものの巡ってくるタイミングが、極端に偏っているような気がしてならない。

博打ギャンブルばかりに湯水の如くその幸運を使い込もうとするから、肝心な時に運が巡ってこない』

 これは常日頃から、無二の相棒に口やかましく言われ続けてきた言葉である。

 人にはそれぞれ、一生のうちに巡り合える“奇跡の数の上限”というものが定められていて、それが頭打ちを果たしてしまえば、幸運が訪れることは二度となくなる。

 限りある“幸運”を、垂れ流しのごとく使い続けるか、切り詰めてケチケチと使ってゆくかは、飽くまで個人の裁量に委ねられている。ゆえにそれは、女神が笑ったからどうのと、些細な事に左右されて増えたり減ったりするものではない――彼はそう言っていた。

理想主義者ロマンチストなんだか、現実主義者リアリストなんだか、ちっとも分かりゃしない!」

 無神論者を豪語しながら、「《光の女神》の名の下に」聖なる魔術を行使する――そんな相棒の皮肉めいた笑みを思い浮かべ、心の内を悶々とさせたユダは、吐き捨てるように叫んでいた。

 今は確か、夕暮れ時であったはず。

 しかし、現在ユダが全力疾走を続ける森の中は、気を抜けばすぐに時間の感覚が狂ってしまいそうになるほど、とにかく暗かった。

 昼を過ぎても一向に目を覚ます気配のなかった相棒を宿に残し、一人気ままに城下の散策に出かけたところまでは良かった。

 けれど、興味本位に立ち寄ったガラクタ市で、この森のどこかにある遺跡で拾ったという“謎の円盤状の物体”を触ってしまったことが運の尽きだった。

 自分でも何がどうなったのか、未だ経緯ははっきりとしない。しかし、気が付くとユダは、いつの間にか街の北東に広がる森の中へと転移ワープさせられていたのである。

 ここ数年の旅歩きによって、近隣の森には全て足を踏み入れたはずだった。枯茶色に覆われた森たちは、どこも似たり寄ったりの具合で、各々がどんな様子であったなどと、細かい部分の記憶まではいちいち残っていない。しかし、とりわけ“瘴気”の濃度の高かったこの森のことだけは、強く印象に残っていた。

「よりにもよって、《逢魔おうまの森》か――いよいよツイてないな」

 これしきのことで不快な瘴気を避ける足しになるとは思えないが、気休めくらいにはなるかもしれない。

 マントのフードを目深に被ったユダは、脱げないようにしっかりとそれを押さえつけながら、森の出口を目指して、がむしゃらに疾走していた。

 時折ズキズキと、頭の奥に疼くような痛みが差し込んでくる。おそらく“奴”が迫って来ているのだ。

 どういう経緯で身についたものだったか――そこにはてんで覚えがないのだが、ユダには“彼ら”の息遣いをはっきりと感じ取る力があった。


 刹那、ぞくりと背すじを戦慄が走り抜ける。思わずユダは、強く押さえつけていたフードから手を離してしまっていた。

 途端に、後ろ頭を滑り落ちたフードが、ベルベットのリボンで結わえたユダの銀髪をだらりと投げ出す。

 振り向きざまに追っ手の姿をはっきりと視認した時にはもう、ユダは脱げたフードのことなどすっかり忘れてしまっていた。

「ま、まさか――《隷鬼スレイヴ》か?」

 間近の頭上を見遣ったとき、沼池のように淀んだ緑色をした、水飴状の何かがこちらへ覆い被さろうとしているのがわかった。

「冗談じゃない!」

 ぎゅっと歯を食い縛り、ユダは湿気た地面を転げ回りながら真横へ跳んだ。

 間一髪。幾許もしないうちに、びちゃびちゃと泥水を注ぐような濁音を放った《隷鬼》は、つい先ほどまでユダの立っていた地面へ、水溜まりを広げていた。

 続けざま、側の茂みに潜んでいた小さな生き物たちが、千々に《隷鬼》の周りから逃げ出していくのが見えた。しかし、逃げ遅れた数匹は《隷鬼》の広げた魔手に捕らえられ、じゅうじゅうと厭な音を立てながら、みるみるうちに形のない捕食者の体内へ取り込まれていった。

「冗談じゃないぞ――ここは“聖域”に隣接する森だろ? こんな上級の“異形いぎょう”が出るなんて聞いてない!」

 圧倒的な恐怖。重圧。

 まさに今、ユダは己の存在意義を根底から揺さぶられている。

 独り言が止まらなくなっているのは、おそらくそれが理性を保つための最終手段だからだ。

「あれは――」

 身の毛もよだつ思いに心を支配されかかっていた矢先、ユダは《隷鬼》の体の奥から、キラキラと宝石のような光が漏れ出していることに気が付いていた。

 刹那。

 先程までの愚鈍な動きからは想像もつかないほどの速さで、《隷鬼》の体から触手が伸ばされる。

 生存への執念に突き動かされたユダは、考えるよりも先に大きく身をよじっていた。鼻を突く厭な匂いがしたことで、己の髪の一部と、そこに居たユダの顔ほどの大きさの蝙蝠こうもりが触手に捕らえられたことを理解する。眼前でバタバタともがく哀れな蝙蝠は、瞬く間にチョコレートのごとく溶解し、すぐにどこからどこまでが蝙蝠であったのか、判別がつかぬほどに融合されてしまっていた。

 隙を突いて駆け出したユダは、腰に佩いた愛剣を素早く抜き放ち、不気味な捕食者をじっと見据えた。四囲を取り囲む死の香りが濃くなればなるほど、《隷鬼》の体の一部分が強く輝いてゆくのが分かる。

 わかってる。あそこを狙えばいいのはわかってるんだ。

 はやる気持ちを抑え、ユダは瞬きすらも惜しみながら、物言わぬ捕食者の隙を伺った。

 しかし。

「や、やっぱり無理だ――」

 相手が、感情を表出する何らかの手段を持ち合わせた生き物ならばまだいい。よしんばそうでなかったとしても、せめて昆虫のように頭と胴の区別のある生き物ならば、どこを見ているのかということくらいは察しもつけられよう。

 けれど、この泥の塊のような怪物には、目もなければ口もない。生物らしい器官がどこにも存在せず、それゆえ“意思”を汲み取れる要素がどこにもないのである。距離を置いて戦える魔術士ならばまだしも、近づかなければ何も始まらない“剣士”のユダにとって、これほど戦いにくい相手もいないだろう。

「僕は逃げる! こんなの、どうやったって戦えっこないよ!」

 惜しげもなく言い捨てたユダは、抜き放った剣を握り締めたまま、再び森の出口と思われる方へ向かって、一目散に駆け出していたのだった。


*****


 奇跡の上限の話を信じているわけではないが、心臓の鼓動の回数も、生まれながらにして決められているという話を聞いたことがある。

 それが事実なのだとすれば、今回の一件でユダは、出鱈目なほど寿命を縮めてしまっているに違いない。

 ならばきっと自分は、事の発端となったあのガラクタ市の店員に、一言悪態をつく権利くらい持ち合わせているはずである。

 何が何でも怒鳴り込んでやるんだ。得体の知れないものを売りつけようとしたあの怪しい店員には、しっかり詫びを入れてもらわなきゃ、気が済まない。その時には、理屈屋の相棒も一緒に――

 切迫した状況にそぐわない些事ばかりが脳の奥から次々と湧いて出てくるのは、きっと恐怖感が飽和状態を迎えているからに違いない。

 それでもいい――走り抜けられれば。

 森の向こうの“あの街”まで走り抜けることができれば、生還は確定するはずだから。

 彼ら“異形”たちにはどういうわけか、あの街の敷地には一歩も踏み入ることができないという、奇妙な習性がある。どれだけ間際まで獲物を追い詰めていようとも、ひとたび獲物があの街の中へ身を隠せば、それまでの執拗な追い回しが嘘のように、あっさりときびすを返してしまうのだ。

 けがれた瘴気の猛威と、不気味な異形たちの凶牙。禍々しい力の一切を撥ね付ける、広大な大陸における唯一の聖域――トランシールズ王国の都《ウルヴァス》。

 捕食者の魔手から逃れるためにはもう、あそこへ駆け込むより他はない。

 喘ぐように息を切らし、ユダはただただ一心不乱に走り続けていた。


 その時のこと。

 獣道の向こう。さほど遠くない距離に、人影が見えた。

「え――」

 道の脇に転がった大きな岩の上に、ひとりの若い男が腰掛けている。

 まるで眠りから覚めた直後であるかのように、胡乱うろんげな目元でぼんやりと宙を眺めていた男は、髪を振り乱して走るユダの姿を認めるや否や、怯えたようにぎょっと顔つきを強張らせていた。

「え、え、え、おい、何だよ? 何かあったのか?」

「見れば分かるでしょ、追われてるんだよっ!」

 すれ違い様にほんの少し一瞥をくれただけで、それから後は一度として振り返ろうともせず、ユダは突風のように男の横を駆け抜けていた。


 ――ある時突然、何者かに追われた様子の人間が、必死の形相で駆け寄ってきたとするならば。

 すがられた相手は、一体どんな反応をするのが自然だろうか。

「ちょ、待て待て待て! 俺も逃げるっ!」

 その答えがどうであれ、男がすぐさま泡を食って、ユダの後を追いかけて来てくれたことは救いであったと思う。

 もしもあのまま、男がぼんやりと動かずに居たなら、きっと今頃は――。

 犠牲者が入れ替わったことで生還を遂げられたとして、これほど後味の悪いものもないだろう。

 どちらにせよ、今がまさに最悪の状況であることに変わりはない。しかしユダには、ちらりと隣の男を覗き見る余裕が生まれていた。同じ捕食者に追われる仲間が生まれた事で、心にかかる重圧が半減したような気分になっていたのかもしれない。

「おい。それで結局お前は、何に追われてるんだ?」

 追いかけっこを開始した時間が遅いせいか、金髪の優男はまだまだ余裕を浮かべているように見える。ユダの全力疾走に軽々と併走しながら、男は垂れ下がり気味の紅い瞳をぱちくりとさせてユダを見つめていた。

「《隷鬼スレイヴ》だよ、《隷鬼》! 頼むから、今は僕に話し掛けないで――」

 もうこれ以上、声が出ない――

 意思とは関係なく、大きく繰り返される呼吸がユダの台詞を次々と飲み込んでいた。

「《隷鬼》? 《隷鬼》ってあの、泥みてえな異形のことか?」

 余力を振り絞り、ユダは懸命に首を上下させる。すると、それを見た男は――

「何だよ、とんだビビり損だな」

 何を思ったか突然足を止め、ユダの視界の端から消え失せてしまったのである。

 男の軽々しい声が響いたのは、遥か後方であった。驚いたユダは、思わずつられて足を止める。

 振り返ってみると、おそらくつい先程まで腰に帯びていたであろう、見事な装飾の施された両刃剣ロングソードを構え、男がゆっくりと追っ手に近付いてゆく様が見えた。その足取りは、軽薄な声調子に見合うだけの堂々たる足取りであった。

「少しばかり手間取りはするが、眠気覚ましにゃちょうどいい。お前はそこで見てな」

 ――まさか、真っ向勝負する気なのか?

 挑発的に言い放った男の様子は、如何にも愉快そうだった。

 なんて、無謀なことを。

 彼はきっと、あの異形の恐ろしさを理解していないのだ。

 言葉を失ったユダは、遠ざかってゆく男の姿を、ただただ呆然と見つめることしか出来なくなっていた。

「駄目だよ――ねえ」

 止めなくては。とにかく今は、止めなくては。

 胸の奥が潰れそうに痛んでいるのは、おそらく息苦しさのせいだけではない。

「戻っちゃ駄目だ!」

 しかし、懸命に声を荒げたユダの思いも空しく。

 地を這うように追走してきた《隷鬼》は、鎌首をもたげた大蛇おろちのごとく、今まさに男の頭上へ覆い被さろうとしていた――。

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