女の子という自覚を!
俺には小さな悩みがある。いや……悩みという程ではないのかも知れないが──。
「なぁ……いつも思うんだけど、雪音は女湯だろ?」
「ひろちゃんと一緒に入るのっ!」
「けどな、雪音は女の子なんだから……」
俺の忠告など全く聞く耳を持たない雪音は、いつものように男湯ののれんをくぐる。
女の子は女湯だよと誰か止めて欲しい……。番台のおばちゃんに挨拶をする雪音は、そんな訂正など出来ないくらい無邪気だ。
「おばちゃん! こんばんは」
「雪音ちゃんは今日も元気だねえ。弘樹ちゃんも偉いねえ」
「は、はは……」
これが、俺の小さな悩み。
父さんはタクシーの運転手なので、家に帰ってくるのは深夜か翌日の昼くらいになる。
そして新しい母さんはバリバリのOLで残業も多く、帰宅はいつも遅い。
──そんな家庭環境から、俺は雪音と2人っきりで過ごす時間がとにかく多い。
そして、今住んでいるオンボロアパートには風呂が無いので近所の銭湯に2人で行くのが日課である。
マッサージチェアーでくつろいでいるおじさん達からは「弘樹君は、妹さん思いで偉いね」と賛辞の言葉が飛び交う始末。
……雪音は歴とした女の子だ。このご時世変な人だっている。男湯に入れるのは
俺だって何も対策をしなかった訳じゃない。
何度か雪音を女湯に送ろうと試みたのだが、結果は全て失敗。俺の姿が見えないと泣きじゃくってしまい、全く手がつけられなくなるのだ。
一体いつまで男湯に無邪気な天使を連れてきて良いものか……最近は、そんなことばかり考えてしまう。
「おっはよー!」
夜だよ、と誰も突っ込みもしない。生まれたての姿になった雪音はタイルを走り抜けていく。
唯一の救いは、周囲の男達から好奇の目で見られないことだろう。
愛らしい後ろ姿を見送り、俺はトレーナーを脱ぎながらため息をついた。
「ひろちゃーん! 早く早く!」
「はいはい……」
近所のおじさんと仲良く湯船に浸かってる雪音を見るとまるで違和感がなくて困る。
「ひろちゃんー」
「なんだよ?」
促されるまま雪音の隣に浸かっていたのだが──。何時になく雪音の真剣な瞳が俺の股間を見つめてくる。
──その視線はかなりイタイ。
雪音は俺の股間を見て何を思ったのか、隣にいるおっちゃんに、疑問の矛先を向ける。
「ねぇねぇ、おじちゃん。どーしてみんなユキにないものがついてるの?」
「……」
「どーしてユキにはないのかなあ?」
「ゆ、雪音……」
「きゃははっ。これクラゲ。ぷう〜」
「……」
本人の興味が違うところに逸れてくれて内心ほっとする。
無邪気に1人で遊ぶこの天使に、男と女の違いという現実を告げられる猛者はいない。
「きゃははっ!」
「こら、雪音! 髪の毛拭かないと!」
先に上がった雪音は狭い脱衣所を走り回っていた。他の客にも迷惑になるし、俺は慌てて雪音を捕まえる。
「捕まっちゃった。次はユキが鬼ね」
「鬼ごっこじゃないよ……ったく」
「ねーねー、ひろちゃん。アイスぅ」
着替えの早い雪音は番台にあるアイスとジュースの札を見て目を輝かせていた。
(こういう時だけおねだり上手というか……)
苦笑しながら俺は財布を開く。
「ひろちゃん! ユキ、アイス! バニラっ!」
「いいよ。あ──」
いつも入れているはずの100円玉が足りない。
「おばちゃん、バニラアイス1つ」
「弘樹君はいいのかい?」
「うん……今日はいいや」
「はい、雪音ちゃん」
「わぁ〜い! ありがとおばちゃん!」
ソフトクリームをおまけで増量してくれたらしい。小さな手から零れ落ちそうなそれを、雪音は嬉しそうに舐めている。
「カエルさん〜。うさぎさん〜。みんな出ておいで〜♪」
「なんだよ、その変な歌……」
「ふんふふ〜ん♪」
自作の不思議な歌を歌いながら、上機嫌でソフトクリームを食べる雪音。少し欲しかったけど、お金を忘れた俺が悪い。
「ひろちゃんも食べる?」
「……いいよ、歯に染みるし」
「冷たくないよぉ。ほら~」
バニラクリームを突っ込まれた俺の口の周りはバニラだらけになった。
その顔を見た雪音が、ケラケラと楽しそうに笑う。
「あははっ。ベタベタしてるっ」
「誰のせいだ! 誰のっ!」
そっと唇に触れた柔らかい感触。それは一瞬で離れたが、再び赤いものが近づき、クリームを舐めとり離れていく。
「甘〜い!」
俺の口元は雪音のお陰ですっかり綺麗になっていたが、胸中は複雑だ。
「お、お、俺の……」
心の声は、悲しみと共に闇の中へと消えた。
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