第二十八幕:曇り時々虹!?
蝉の目覚ましに起された。昨夜は早く布団に入ったが、七夏ちゃんの影の事を考えていたら、なかなか眠れなかった。高月さんは俺に「七夏ちゃんの事をお願いします」と話していた。七夏ちゃんが、俺の滞在期間の事を気にしてくれているとしたら、とても嬉しく思う。だからこそ、いつこの街を離れるかという事を切り出しにくいのだ。その時まで普段どおり一緒に過ごしたいと考える。具体的に帰る日を決めると、その時からカウントダウンが始まってしまう事になる・・・どうすればよいのだろうか?
トントンと扉がなった。
七夏「柚樹さん! おはようございます☆」
七夏ちゃんだ。俺が起きるのが遅いと起しに来てくれるようになった。今日は蝉の声にかき消されて、七夏ちゃんの足音が分からなかった。このまま布団の中に居るとどうなるのだろうか? 七夏ちゃんをあまり困らせてはならないと思いつつ、高月さんの話してた、少しでも一緒に過ごす時間を大切にするという事も考える・・・それ以前に正直、まだ瞼が重たい。
時崎「・・・・・」
七夏「えっと、柚樹さん! 起きてますか?」
時崎「・・・・・」
七夏「柚樹さん! お邪魔してもいいかな?」
時崎「・・・・・」
七夏ちゃん、何か小声で話してるみたいだけど、扉越し、蝉の声、布団の中という三つの壁があって、言葉として認識できない。
七夏「柚樹さん!」
すぐ近くで七夏ちゃんの声がした。
時崎「な、七夏ちゃん!?」
七夏「ひゃっ☆ ごめんなさいっ!」
時崎「いつの間に部屋に入ったの?」
七夏「えっと、今ですけど・・・その・・・柚樹さん、お返事が無いから・・・」
七夏ちゃんは、そっと扉を開けて入って来たようで、全然分からなかった。
時崎「ごめん。ちょっとまだ眠たくて・・・」
七夏「お体の具合が良くないの?」
時崎「それは、大丈夫。ありがとう」
七夏「よかった☆」
時崎「もう少し、休んだら起きるよ!」
七夏「はい☆ 朝食も出来てますから☆」
時崎「ありがとう! 七夏ちゃん、先に食べてていいから。ごめんね」
七夏「いえ。では、また後で☆」
敢えて、いつもと違う事をしてはみたけど、これでは七夏ちゃんに迷惑を掛けるだけだ。喜んでもらう事を考えなければならない。今日は、午後からお泊りのお客さんが来る事になっているから、七夏ちゃんと一緒に過ごせる時間は少なくなると思う。いや、俺も一緒に七夏ちゃんと凪咲さんを手伝えばいいのか・・・そうすれば、七夏ちゃんと一緒に過ごせる事になる。手伝える事があれば・・・だけど。
まだ眠たいけど、そんなにのんびりしてはいられないので、起きて一階へと向かう。直弥さんは、既にお仕事へ出かけているようだ。
時崎「おはようございます!」
七夏「あっ! 柚樹さん! おはようございます☆」
凪咲「柚樹君、おはようございます」
七夏「柚樹さん! どうぞこちらへ☆」
時崎「ありがとう! 七夏ちゃん!」
七夏ちゃんは、お料理を用意してくれる。今日はいつもよりも張りきっているように見えた。まあ、お客さんが来るから気合が入っているのかも知れない。民宿風水で「女将として働く七夏ちゃん」は普段の七夏ちゃんの一面でもあるから、アルバムに加えるのも大切な事かも知れないな。
七夏「柚樹さん、ごはん、おかわりしますか?」
時崎「ああ。ありがとう!」
七夏「くすっ☆」
七夏ちゃんは、ご飯をよそってくれる。その様子を一枚撮影した。
七夏「はい☆ どうぞです☆」
時崎「ありがとう!」
七夏「柚樹さんは、いつも写真機を持ってますよね☆」
時崎「今も、可愛い女将さんを見かけたから一枚撮影させて貰ったけど、大丈夫かな?」
七夏「あっ! ・・・えっと・・・大丈夫・・・だと思います・・・」
七夏ちゃんは、そう言い残しながら、台所の方へ戻ってしまった。無断での撮影は、ほどほどにしておかなければならないかも知れないな。
時崎「凪咲さん、ごちそうさまでした」
凪咲「いえ、どういたしまして」
時崎「今日は、お泊りのお客さんが来るのですよね?」
凪咲「ええ。2名様が昨日、ご予約をくださいました」
時崎「何か、手伝える事があったら、何でもしますので!」
凪咲「ありがとう、柚樹君。その時は、お願いします」
時崎「はい!」
朝食を頂いた後、のんびり過ごしたい所だが、昨日早く寝てしまったので、その分を埋める、具体的には「七夏ちゃんへのアルバム」の制作を行う。恐らく、七夏ちゃんも午前中は宿題を行うだろうから、俺もそれに合わせて制作作業を行うのが良いだろう。
しばらく、制作作業に集中する。以前に考えていた「とびだすアルバム」を、どうするか・・・蒸気機関車や虹を飛び出させる考えがあったが、やっぱりこれは止めておこうと思った。七夏ちゃんが驚き、喜んでくれる事・・・これを主テーマにしなければならない。とびだす考えはまとまらないが、もう一つのアイデアは、きっと上手く出来ると思っている。そのアイデアが、デジタルデータとして上手く出来るか検討しているが、概ね大丈夫だと思う。
しばらく、制作作業に没頭した。
蝉の合唱が控えめになった事で、部屋の外の物音が聞こえるようになってきた。午後が近づいている事を感覚する。いつもよりも大きな物音なので、俺はその音のする方へ向かう。
七夏「あ、柚樹さん! お腹すきました?」
時崎「いや、大丈夫。物音がしたので」
以前に高月さんが泊まった部屋から、七夏ちゃんが姿を見せた。
七夏「えっと、騒がしくてすみません。今日は、こちらのお部屋にお泊りのお客様が来られますので☆」
時崎「なるほど。何か手伝う事は無い?」
七夏「ありがとうです☆ 大丈夫です☆」
時崎「何か手伝える事があったら、いつでも声をかけて!」
七夏「はい☆」
今日の七夏ちゃんは、はりきっている様子だ。女将さんとしての良い表情の七夏ちゃんが撮影できると思うと、俺も嬉しくなってきた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
七夏ちゃんと一緒に昼食を頂く。この後、七夏ちゃんとのんびり過ごす事もあるのだが、今日はそういう訳にはゆかない。凪咲さんと、七夏ちゃんは、今日と明日の予定を確認しているようだ。
凪咲「七夏、後でお買物お願いね」
七夏「はい☆」
打ち合わせをしているような凪咲さんと、七夏ちゃんを一枚撮影した。
自分の部屋に戻ろうかと思ったが、そろそろお泊りのお客さんが来る時間なので、このまま居間で待つ事にした。俺も挨拶をしておくべきだろう。
しばらくすると、玄関から声がした。
??「すいませーん」
時崎「はい!」
玄関に一番近い所に居た俺は、最初にお客様を迎える。
時崎「こんにちは! いらっしゃいませ!」
??「お世話になります」
??「どうも!」
見たところ、ご年配の女の人と、若い男の人・・・親子だろうか? 女の人は落ち着きのある雰囲気に対して、男の人は、今風・・・というか携帯端末を操作している。まあ、余計な詮索は良くないな。
七夏「いらっしゃいませ! ようこそ風水・・・ひゃっ!」
男の客に、いきなり携帯端末で写真を取られた七夏ちゃん。俺は何か嫌な予感がした。
男客「おっ! 可愛い女将さん!」
宿泊客は、続けて七夏ちゃんをパシャパシャと撮影する。
七夏「ひゃっ! ご、ごめんなさいっ!」
七夏ちゃんは、そのまま二階へ駆けて行く。
そこへ、凪咲さんが姿を見せた。
凪咲「すみません! 娘の失礼をお許しください。ようこそ風水へ!」
娘の失礼!? 失礼なのはどっちだ!? そんな感情が芽生え始めた事に気付きかけたその時---
凪咲「柚樹君、ちょっといいかしら?」
時崎「え!? はい」
凪咲「お客様を、お部屋に案内してあげて!」
時崎「あっ、どうぞこちらへ・・・」
お客さんをお部屋に案内する。七夏ちゃんが居なくなったので、俺が凪咲さんを手伝う事になった。それは全然構わないけど、俺は七夏ちゃんの事が気になって、なかなか手伝いに集中できない。
凪咲「柚樹君、それは私が行いますから、こちらを・・・」
時崎「は、はい! すみません!」
泊まり客のお世話を、凪咲さんが殆ど一人で行っている。俺も出来る限り凪咲さんを手伝うけど、女将として、七夏ちゃんが行っている事の大変さを、改めて知る事となった。
お客さんへの対応・・・当宿が禁煙である事や、夕食、朝食の場所と時間、お風呂場の場所とご利用時間、浴衣の場所とお布団の準備時間、外出される場合、鍵の預け先等、ここ風水での生活にある程度慣れていて、良かったと思った。ひととおり説明を終え、ようやくひと段落ついた。
凪咲「七夏、まだ自分のお部屋かしら・・・」
時崎「そう・・・みたいですね」
凪咲「困ったわね・・・おつかいを頼んでたのですけど・・・」
時崎「だったら、俺が代わります!」
凪咲「ありがとう。柚樹君」
時崎「いえ」
凪咲さんから、おつかいのメモを受け取ると、俺は商店街へと急いだ。買い物自体は食材が主で、今日の夕食や、明日の朝食に使うのだと思う。玉子はまだ沢山あったような気がするけど、お客様には新鮮な食材で・・・と言う事なのかも知れない。
買い物をしながら、七夏ちゃんの事を心配してしまう・・・俺が風水に帰る頃には、いつもの七夏ちゃんに戻ってくれる事を願ってしまう。
時崎「ただいま!」
凪咲「おかえりなさい。柚樹君、おつかいありがとう」
時崎「いえ」
凪咲「七夏は、まだ部屋に閉じ篭ったままで・・・すみません」
時崎「そう・・・ですか・・・」
凪咲「困ったわね・・・」
時崎「引き続き、俺、手伝いますので!」
凪咲「ありがとう。柚樹君」
時崎「ひとつ、訊いてもいいですか?」
凪咲「何かしら?」
時崎「過去にも、こんな事ってありましたか?」
凪咲「ええ」
時崎「ありがとうございます」
俺は、それ以上の事は訊かなかった。過去にもこのような事があったという事は、少なくともお客様が帰られれば、いつもの七夏ちゃんに戻ってくれると思えたから、今は波風を立てるのは良くないと思った。人は、初対面時に苦手な人かどうかを本能的に判断する。俺よりも色々な人と出逢ってきているであろう七夏ちゃんは、苦手な人と出会う機会も多いのかも知れない。
その後、凪咲さんは夕食の準備を行い、俺も手伝える事は手伝った。お泊りのお客様へ、夕食とお風呂のご案内をして、その間にお布団の準備も行う。
直弥「ただいま」
凪咲「おかえりなさい。あなた」
時崎「おかえりなさい」
直弥「七夏は?」
凪咲「ちょっと・・・色々あって・・・」
直弥「・・・そうか」
そう言えば、七夏ちゃん、夕食を食べていないな・・・俺は、七夏ちゃんの部屋の前まで移動した。七夏ちゃんを呼ぶかどうか少し迷ったが、このままだと心配なので、声を掛けてみる。
トントンと軽く扉を鳴らす。
時崎「七夏ちゃん!」
呼んでもみたけど、返事は無かった。寝ているのかも知れないな・・・。一人になりたい時もある・・・俺はもう少し時間を空けて様子を見ることにした。
直弥「時崎君!」
時崎「え!? はい!?」
直弥「ちょっと、いいかね?」
時崎「はい!」
直弥さんに呼ばれて、俺は直弥さんの部屋へ招かれた。
直弥「凪咲から話は聞いたよ。今日はすまなかったね」
時崎「いえ、全然たいした事が出来なくて・・・」
直弥「凪咲はとても感謝していたよ。時崎君が居なかったら大変だったと」
時崎「七夏ちゃんは、大丈夫なのでしょうか?」
直弥「心配かけてすまない。過去にも何度かこんな事があってね」
時崎「そうらしいですね。凪咲さんから聞きました」
直弥「ま、時間が解決してくれると思う」
時崎「そうですね。俺、七夏ちゃんにメッセージを送ってみます」
直弥「メッセージ!?」
時崎「七夏ちゃんのMyPadに・・・です!」
直弥「そう言えば、七夏のMyPadは外への通信ができないから、いずれ、なんとかしてあげたいとは思ってたんだけど、メッセージは送れるのかい?」
時崎「はい! 一応、俺の携帯端末経由で外への通信も出来るように設定させて頂いてます」
直弥「それは、時崎君にご負担をかけているのでは?」
時崎「いえ、大丈夫です! 通信費は定額で契約ですので・・・それ以上に七夏ちゃんや凪咲さんにお世話になってますので」
直弥「色々とすまない。すまないついでにひとつお願いしてもいいかね?」
時崎「はい!」
直弥「七夏のMyPadが外への通信が出来るように、家にも無線のネットワークを置きたいと思っているんだけど、それを時崎君に頼めないかな?」
時崎「もちろん! 俺でよければ!」
直弥「ありがとう。助かるよ! 凪咲から時崎君は家電に詳しいと聞いていたので」
時崎「詳しいかどうかは分かりませんが、無線ネットワークの事は分かりますので!」
直弥「ありがとう。必要な機械の費用は全て僕が用意するので、調べてくれると助かるよ」
時崎「分かりました」
直弥「七夏の事も含めて、お礼を言わせてもらうよ。ありがとう」
時崎「いえ」
直弥「時崎君が、七夏と写真との関係を良くしてくれると、僕はあの時、思ったんだ」
時崎「あの時・・・」
俺は、直弥さんの話した「あの時」がすぐに分かった。蒸気機関車イベントで、七夏ちゃんと一緒に写真を撮影してもらった時の事だろう。
直弥「これからも、七夏の事を支えてくれると嬉しく思うよ」
時崎「ありがとうございます。失礼します」
俺は直弥さんの部屋を後にした。自分の部屋に戻って考える。人の心はいつも晴れている事なんてない。俺は今まで七夏ちゃんの晴れの姿ばかり見てきた事を実感した。今、部屋に閉じ篭っている七夏ちゃんも、七夏ちゃんの心のひとつである事に変わりは無い。そういった曇りや雨の心も含めて、七夏ちゃんと向き合わなければ、本当の心は見えてこないと思う。立方体の面は一方向から見ているだけでは、どんなに頑張っても3面までしか見えない。俺の方が七夏ちゃんへの見方や理解を変えなければ、本当の七夏ちゃんは見えないだろう。
時崎「!?」
微かに、扉の方から音がした。今朝の出来事とは真逆で、俺は素早く扉へ飛びつく。
時崎「な、七夏ちゃんっ!」
七夏「・・・・・」
時崎「良かった!」
七夏「柚樹さん、今日はその・・・ごめんなさい」
時崎「あやまらなくていいよ! 七夏ちゃんは大丈夫?」
七夏「はい。少し休んで、落ち着きました」
時崎「そう・・・お腹すいてない?」
七夏「はい。少し・・・」
俺は、七夏ちゃんを手をとった。
七夏「あっ!」
七夏ちゃんも、繋いだ手に少し力を入れてくれた。
時崎「ごはん、一緒に食べよう!」
七夏「・・・くすっ☆」
ようやく、七夏ちゃんの曇り心から日の光が届いたような気がして、とても安心できた。
今日の午後から部屋に引き篭もっていた七夏ちゃん。たった半日の事だったけど、俺にはとても長い時間に思えた。
凪咲「七夏!!!」
七夏「お母さん・・・ごめんなさい」
凪咲「よかった。もう大丈夫なの?」
七夏「はい。明日はお母さんのお手伝い・・・しますので」
凪咲「ありがとう。でも、無理はしないようにね」
七夏「はい」
凪咲「お腹すいたでしょ? すぐに夕食用意するから!」
七夏「ありがとうです」
七夏ちゃんと一緒にいつもより遅い夕食を頂く。特に会話は無かったけど、俺はそれでも十分嬉しかった。いつも、俺の事を気に掛けてくれる七夏ちゃん・・・こういう事があった時こそ、俺が七夏ちゃんをしっかりと支えてあげられるようにならなければと思う。
夕食を済ませてお休みする前---
七夏「柚樹さん・・・」
時崎「え!?」
七夏「ごめんなさい。お夕食、遅くなっちゃって、柚樹さんにまで・・・」
時崎「いいよ! 気にしないで!」
今日、俺は色々と慌しかったため、夕食が遅くなっただけなのだが、七夏ちゃんは俺が待っていたと思っているようだ。まあ、この場合、わざわざ本当の事を言わなくてもいいだろう。
七夏「あと、今日は、ありがとうです・・・」
時崎「何が?」
七夏「えっと、一緒にごはん・・・と、手・・・」
時崎「おやすみっ! 七夏ちゃんっ!」
七夏「あっ、おやすみなさい・・・です」
俺は、恥ずかしくなったので、今日という日を強制的に終了させる事にした。
明日はいつもどおり、晴れた七夏ちゃんになっていると思う。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今日は、蝉に勝った! 何も蝉と戦っている訳ではない・・・というよりも、少し雨が降っているみたいだから、蝉はお休みしているだけか・・・。
七夏「柚樹さん! おはようございます☆」
時崎「おはよう! 七夏ちゃん!」
俺は、飛び起きて、扉を開けた。
七夏「くすっ☆」
いつもの七夏ちゃん。良かった・・・外は雨だが、七夏ちゃんは晴れている! そんな事を思っていると---
七夏「柚樹さん!? どうかしましたか?」
時崎「いや、なんでもないよ」
昨夜の事を思い出して少し恥ずかしくなったけど、流石に今、今日という日を閉じる事は出来ない。俺が一階へ降りようとしても、七夏ちゃんはそのまま動く様子が無い・・・どうしたのだろう?
七夏「・・・・・」
時崎「七夏ちゃん!?」
七夏「あっ!」
俺は、昨日と同じように、七夏ちゃんの手を繋ぐ。
時崎「凪咲さん、待ってるよ!」
七夏「はいっ☆」
七夏ちゃんと手を繋いだまま、一階の玄関へ差し掛かると、お泊りのお客様の一人、若い男の客が居た。手には携帯端末を持っており、何かを操作している・・・。七夏ちゃんと手を繋いでいる所を見られるのは恥ずかしいと思っていると、それが七夏ちゃんにも伝わったのか、七夏ちゃんも手の力を緩めてくれ、自然と二人の手は離れる。少し名残惜しくもあるけど、二人の息が合っていると、逆に嬉しくも思えた。
時崎「おはようございます!」
男客「どうもです!」
男の客は携帯端末を見ながら、返事を返してきた。昨日の出来事があった為か、あまりいい気はしないけど、まあ仕方がない・・・か。
七夏「お、おはようございます」
俺に続き、七夏ちゃんも男の客に挨拶をする。
男客「お! 昨日の! やっぱり可愛いね!」
男の客はそう言いながら、また携帯端末で七夏ちゃんを撮影し始めた。また嫌な予感が蘇ってきた。
七夏「ひゃっ!」
時崎「ちょっ!」
七夏「す、すみません! 失礼します!」
七夏ちゃんは、再び二階へ駆けて行く・・・俺は男の客に申し出た。
時崎「すみません。今撮影した写真、消してもらえませんか?」
男客「え? なんで?」
時崎「七・・・さっきの女将さん、写真を撮られるの苦手でして・・・」
男客「別にいいでしょ? 減るもんでもないし!」
時崎「消してくれっ!!!」
男客「!!!」
凪咲「柚樹君っ!!!」
俺の大きな声に、凪咲さんが飛び出してくる。
凪咲「大変失礼いたしました。申し訳ございません。柚樹君も!」
時崎「・・・すみません。失礼いたしました」
男客「なんだよ! 消せばいいんだろ!」
「減るもんでもない」・・・それは、男の客からの視点に過ぎない。俺や七夏ちゃんから見れば「大減り」だ。昨日、七夏ちゃんが辛い思いをした事なんて、この男の客には分からないだろう。
凪咲「柚樹君、下がってくれるかしら?」
時崎「・・・はい。すみません」
凪咲さんと、男の客に頭を下げて、俺は自分の部屋に戻る。七夏ちゃんの事も気になるが、昨日の事を考えると、今、声をかけるべきではないと思った。
しばらく、部屋の窓から外の景色を眺める・・・。降り続ける雨と雨音が「まだ早かったのでは?」と問いかけてくるようにも思えた。こんな事が、続くのは嫌だ。これから先、七夏ちゃんと一緒に楽しく過ごしたい。昨日「俺が七夏ちゃんを支えてあげなければ」なんて思った事は、なんだったのか・・・思うだけなら簡単だ。実際にそうなった時に、思っていた事が実行に移せないのなら、思う事自体が罪な事になる。
そのまま、窓の外を眺めていると、大きな花が2つ咲いた。一つは赤い花、もう一つは黒い花だ。その2つの花は、雨水に流されるかのように風水を離れてゆき、お客さんが帰られたのだと理解できた。そのまま、しばらく景色を眺めていると---
トントンと扉が鳴った。
時崎「七夏ちゃんっ!」
俺は、扉へと急ぐ。
凪咲「柚樹くん、ちょっといいかしら?」
時崎「凪咲さん・・・・・はい・・・」
凪咲さんの後を付いてゆく・・・居間へ辿り着くまでに、凪咲さんから言われる事は既に分かっていた。俺は、先手を打つ。
時崎「凪咲さん。すみませんでした」
凪咲「・・・・・」
俺が先手を打って謝った事に対して、凪咲さんの表情は少し和らいだようにも見えた。
凪咲「分かっているとは思うけど、女将としては大切なお客様に失礼な事があってはならないの」
大切なお客様!? 何が大切なんだ? 七夏ちゃんが傷つけられても、それでもお客様の方が大切なのか? 分からない・・・分からないよ・・・。
時崎「でも、お客様が『失礼なこと』をしてもですか?」
凪咲「そうね」
時崎「そんなっ!」
七夏ちゃんが悲しんでもいいの!? 冷静になって考えてみたけど、やっぱり分からない。
時崎「凪咲さん、やっぱり俺・・・分からない・・・七夏ちゃんよりも、今日始めて会ったお客の方が大切だなんて・・・」
凪咲「女将としては、お客様が大切」
時崎「・・・・・」
凪咲「でも、母親としては、何よりも七夏の事が大切」
時崎「・・・・・え!?」
凪咲「ありがとう。柚樹君・・・分かってもらえるかしら?」
その言葉を聞いて、女将がどういうお仕事なのか理解・・・というよりも安心できた。俺は焦って「木を見て森を見ず」の状態になっていたようだ。
七夏ちゃんの事が大切な事に変わりはない。だけど、それだけではならないという事を凪咲さんは言いたかったのだと思う。
凪咲「お客様は知らない事ですから・・・」
<<時崎「七夏ちゃん、ごめん!」>>
<<七夏「仕方がないですよ。柚樹さんは、知らなかった事ですから」>>
以前に七夏ちゃんが俺に話してくれた事を思い出した。
時崎「・・・すみません」
凪咲「お客様が帰られる際に、お母様が謝ってくださったの・・・息子は珍しい事があると写真をすぐに撮ってしまうから・・・って」
凪咲さんの話を訊いて神経が揺さぶられた。ここ最近、許可無く七夏ちゃんを撮影していた俺も、人の事を言えないじゃないか! 少し調子に乗っていた事を反省した。
凪咲「ありがとう。柚樹君」
時崎「え!?」
凪咲「七夏の事を想ってくれて」
時崎「・・・・・」
凪咲「さっきも話したけど、女将としてはお客様は大切ですけど、母親としては七夏が何よりも大切ですから」
時崎「凪咲さん・・・」
凪咲「だから、柚樹君が七夏の事をかばってくれた事は、母親としてとても感謝しています。ありがとう」
時崎「・・・はい」
凪咲「私からのお話はこれでおしまい。ごめんなさいね」
時崎「いえ、こちらこそ」
凪咲「では、失礼いたします」
そう言うと、凪咲さんは、自分の部屋へ向かったようだ。俺はそのまましばらく考える・・・。今まで沢山の七夏ちゃんを撮影してきた。写真が苦手な七夏ちゃんは、無理をしていたのではないかなと思ってしまう。もしそうだとすると、今まで撮影してきた写真は、全て写真では無くなってしまうので、そうではないと信じたい。
時崎「いや、七夏ちゃんの笑顔は本当の心だ!」
自分にそう言い聞かせ、これからも七夏ちゃんの笑顔を撮影しなければと強く思う。今まで沢山の七夏ちゃんを撮影してきたこの写真機・・・俺は写真機のファインダーを覗き、七夏ちゃんを初めて撮影した時の事を思い出す。初心に戻る・・・というよりも、もう一度、あの時の感覚を呼び覚ましたい・・・。ファインダーの中に七夏ちゃんが居ると想像する・・・すると、ファインダーの中に七夏ちゃんが現れた。
七夏「柚樹さ・・・ひゃっ!」
時崎「あっ!」
七夏ちゃんは、俺の構えていた写真機に拒絶反応を示したけど、すぐにそれを掻き消した・・・でも、こんな時に限って、俺はその七夏ちゃんの一瞬の拒絶した表情が脳に焼きついた。
七夏「ご、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
俺は慌てて写真機を隠したが、七夏ちゃんは居なくなっていた。
これまで大切に築き上げてきた事が、一瞬で崩されたような感覚だ。
・・・治りかけた心の傷の「かさぶた」を、俺が取ってしまったような感覚を覚える・・・もう、この写真機で七夏ちゃんを撮影する事は出来ないのだろうか?
他人の事を気遣える七夏ちゃんに対して、他人を気遣えない自分が許せないという感情が芽生えた瞬間だった。
時崎「こんな事で、終わらせていいはずがないっ! こんな事で・・・・・」
ピピッ!パシャッ!
写真機から音が聞こえた・・・力強く握り絞めていた勢いでシャッターボタンを押してしまったんだろう・・・だけど、そんな事はどうでもいい。
時崎「・・・いや、そんなはずはないっ!」
俺よりも、七夏ちゃんの笑顔を知っているこの写真機だからこそ!
俺は再び、水風七夏という心優しい少女と出逢える事を強く願うのだった。
第二十八幕 完
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次回予告
人の心は変わってゆく・・・良いようにも悪いようにも・・・だったら俺はっ!
次回、翠碧色の虹、第二十九幕
「思い込みの虹」
良いように思い、その方向に舵を取る事。自分が相手にとって良い事をしなければっ!
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