第17話 ヘンリー(4)雑踏の天使
「ヘンリー」
神父は説教が終わり、帰り支度をはじめたヘンリーに声をかけた。
「真面目に良く、働いているようだな」
ヘンリーは頷いた。それもこれも神から賜った大命あってのことだ。
「もう二十歳になるのだな、お前も」
「そういえば、そうですね」
ヘンリーはさしたる感慨もわかぬまま、おうむ返しに答えた。実際、大人になることを忌まわしいことと位置付けてきたヘンリーに取って、二十歳など地獄への門以外のなにものでもなかった。神父の祝福の響きを含んだ物言いに、むしろ「まさか自分が二十歳になるとは」と怒りすら覚えるほどだった。
「今、世の中は大きな不安にさらされている。わたしには良くわからないが、遠くない将来、アメリカも戦争に巻き込まれるかもしれない」
戦争なら、もう始まっている。ヘンリーは胸のうちでそっと呟いた。ヴィヴィアン・ガールズたちによる聖戦は、僕が病院で清掃の仕事をしている間にも順調に戦果を上げ、勝利を重ねているのだ。
「私やお前のように直接戦地に赴くことのない、国家にとっては無力に等しい者たちは、祈ることで命が無駄に消えぬよう、奉仕するしかない。特にお前のように若くて頑健でありながら戦いに足る能力を持ち合わせない者は、その分、多く祈りをささげねばならない。わかるな?」
ヘンリーは頷いた。もとより大人たちが勝手にこしらえた戦場になど赴くつもりはこれっぽっちもなかった。ドイツにもスペインにも興味はない。シカゴにいられれば充分だ。
「では今日からこれを持つといい。お前のような者でも、主の存在を身近に感じている限り、神の王国を見る資格はそなわっているのだから」
神父はそう言うと、新しい聖書をヘンリーに手渡した。どうやら神父なりのお祝いということらしい。ヘンリーは聖書を胸に抱くと「ありがとうございます」と一礼した。
教会を出ると、ヘンリーは画材店に足を向けた。ポケットには昨日、手にしたばかりの週給がそのまま入っていた。
――さすがに聖職者というのは、いいことを言うね
耳元で『御使い』が囁いた。初めて会った翌日から、ヘンリーが仕事以外の用事で外出すると肩の上に現れるようになったのだ。もちろん、ヘンリー以外の人間には『御使い』の姿は見えなかった。わずかに感じられたとしても、生き物のような何かが陽炎のようにたゆたってるとしか見えないはずだった。
「戦場に行ってないからさ。戦場で人を殺すくらいなら妄想の中で悪魔と戦っていたほうがいい。そう言う人なんだ」
ヘンリーは日頃感じていることを、そのまま口にした。『御使い』は「ふふん」と鼻を鳴らした。ヘンリーにとって、現実の戦争も国家も取るに足らない物だった。
ヘンリーと少女たちの王国は、現実のシカゴよりはるかに魅力的な場所だったのだ。
――ヘンリー、画材が一通りそろったら、駅へ行ってみないか。
「駅へ?駅へ行って、何をするんだい」
『御使い』の唐突な申し出にヘンリーは面食らった。この数年間、ヘンリーは教会や食堂など、生活のあらゆる場所へ『御使い』を伴って行ったが、ここへ行こうと『御使い』が自分から提案することはまれだった。
「駅は人が一杯いるよ。僕はあまり得意じゃないな」
――ヘンリー。『非現実の王国で』はずいぶん厚みを増してきたが、いま一つ広がりが足りないとは思わないか?絵本に出てくるような森や丘だけじゃなく、さまざまな場所で酷使させられている子供たちもいるはずだ。ヴィヴィアン・ガールズをもっと活躍させようと思ったら、普段行かないような場所も見ておいたほうがいい。
「そんなものかな。……わかったよ、行ってみよう」
ヘンリーは画材店で、安い絵の具をほんの少しばかり買い足すと、数年ぶりに駅へ足を向けた。久しぶりの駅は一段と大きくなり、人であふれていた。ヘンリーは壁際の一角に寄せておかれた木箱に腰かけ、行き交う人波をぼんやりと眺めた。
人に興味のないヘンリーが唯一、目を奪われるのは、よそ行きのドレスに着飾った少女が往き過ぎる一瞬のみだった。
――どうだね。駅も面白いだろう。
『御使い』が満足げに言った。ヘンリーは頷き、ポケットから買ってきたばかりの顔料を取りだした。この赤い色で少女を思いきり描けたら、どんなにいいだろう。そう、広告の写真のように。……だが、そんな魔力を僕は不幸にして持ち合わせなかった。だから『御使い』の力を借りて彼女たちを自由にするのだ。
―――ヘンリーどうだい、君の王国に加えたくなるような魅力的な少女はいたかい?
ふいに『御使い』が俗っぽいことを言った。ヘンリーは少し前に目の前を行き過ぎた、赤いドレスの少女を思った。
「そうだな……これだけ人がいれば、中には目を引く子もいるよ。でも、現実の女の子に近づこうとは思わない。まさか声をかけろっていうんじゃないよね『御使い』?
――そんな必要はないさ、ヘンリー。私が言いたいのは、気に入った女の子がいたら、その姿を君の頭に焼き付けるといい、ということだ。
「焼き付ける?……覚えろって事かい」
――まあ、そうだ。ヘンリー、これから気に入った女の子がいたら、目で追いながら私の教える行動を取るのだ。それだけで女の子の姿を記憶に刻むことができる。なにも話しかける必要はない。
「目で追うって……ここから見てればいいのかい?」
――ああ。見つかったら、腰の後ろで手を組め。背骨から軽い振動が伝わってきて、手が熱くなるはずだ。あとは目的の相手を見つめ、静かに息を吐けばいい。
「なんだか体操みたいだな。……わかった、やってみよう」
ヘンリーは、赤いドレスの少女を探した。幸い、少女の姿はすぐに見つかった。
少し離れたベンチで父親らしい男性と休んでいる少女を、ヘンリーは目で捉えた。
ヘンリーは腰の後ろで手を組んだ。すると『御使い』が言った通り、背中にじんと痺れるような感覚が生じた。ヘンリーは少女の姿を視野に収めつつ、深く息を吐き出した。
――どうだい、うまくいったかい?
『御使い』が愉快そうに尋ねてきた。ヘンリーは「ああ」とぶっきらぼうに答えた。
「よくわからなけど、これでいいんだろう?」
――いいとも、上々だ、ヘンリー。……さあ、駅の風景を目に焼きつけたら、次は学校に行こう。
「学校だって?ぼくはもう、学校に行く年じゃないし、僕みたいな大人が子供の周りをうろついていたら、きっと怪しまれるよ」
――学校の中に入るわけじゃない。学校の前の道を、子供たちに紛れて歩くだけさ。それだけなら誰にも咎められることはない。子供たちをじろじろ見さえしなけりゃね。
「だったら構わないよ。……でも、素敵な女の子がいたら、見てしまうかもしれないな」
ヘンリーが言うと、『御使い』が笑った。何がおかしいんだろう、とヘンリーは訝った。
――ヘンリー、二十歳の男が可愛い女の子を見てどこが悪い?ごく普通の光景じゃないか。立ち止まったり、近くに寄ったりしなければいいのだ。
「そうか。言われて見ればその通りだな。……よし、行こう」
ヘンリーは木箱から腰を浮かすと、目で出口を探し始めた。
「あら、ヘンリーじゃない。どうしたの?田舎から親御さんが出てきたの?」
ふいに声をかけられ、ヘンリーは振り返った。目の前に立っていたのは、ヘンリーと同じ『聖ジョセフ病院』で働く看護師だった。さすがに三年目ともなると、多少の顔見知りにはなる。人嫌いのヘンリーだったが、何人かの職員とは、世間話をすることもあった。
「いえ、別に……たまには変わった景色でも見てみようと思って」
「そうなの。私は叔母を迎えに来たの。シカゴは初めてだっていうから」
「叔母さんですか。いいですね、遊びに来る親戚がいて」
ヘンリーが何の気なしに返すと、看護師は眉を曇らせた。ヘンリーが天涯孤独であることを知っていたからだった。
「ヘンリー、あなたにもいずれ、愛する人がきっとできるわ。……そうだ、これ、読み終わったから、あげる。学校にあまり行ってないそうだけど、詩ぐらいなら読めるでしょ」
看護師はそう言うと、ヘンリーに一冊の本を手渡した。
「誰の本です?」
「アポリネールよ」
「アポリネール?……わからないな。学者ですか」
「詩人よ。とにかく気が向いたら、開いてみて。……それじゃあね、ヘンリー」
看護師は本を押し付けるように置いてゆくと、足早に去っていった。
―――ヘンリー、良かったな。よい文章を読むことは君の「王国」を豊かにする。
「あいにく詩には興味がないな。……まあいいや、行こう、学校へ」
ヘンリーは『御使い』を促すと、駅の出口へと向かった。
〈第十八話に続く〉
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