155 - 王城地下牢にて
『あの子を、守ってあげて』
と、女は言った。
真っすぐに彼の瞳を見詰め、力強く、希う声で。
肩に感じた両手の重みに、託された思いを知った。
『命に代えても守るよ』
と、少年は答えた。
躊躇うことなく、揺るぎない瞳で。
そう、誓いを捧げるように。
だが少年の言葉に、女は「そうではないのよ」と首を振った。
「そうではないのよ」と――。
『居なくならないで』
と、その子供は言った。
消え入りそうな声で。怯える様に、顔を伏せたまま。
彼の服の端を握りしめた小さな手が震えていた。
「傍にいて」でも「一緒にいよう」でもなくただ、「いなくならないでほしい」と。
そんなあまりにもささやかでつましい望みすら、きっとやっとの思いで口にしたのだろう。
応えた彼の言葉に、安堵し緩んだ手を捕まえて。
躊躇いながら彼を見た大粒の瞳は綺麗な涙濡れて。
――込み上げた思いは、優しく激しい愛しさだった。
『あぁ、これが意味と理由だ。オレ自身にとっての……』
それは、周りの全てが信じられず、自分自身の存在すら否定しそうになっていた幼い彼が出会った、この世界を肯定させてくれるもの。
『あぁ、どうか、お願いだから……奪わないでくれ』
命短き人々が永き時をかけて築き上げた都市に、言葉にならない程の感動を覚えた。
それは、故郷と比べて優劣をつけるようなものではなく、あまりに見慣れていた街並みとの圧倒的な差異と目新しさが鮮烈で、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
そしてそこで彼は出会った。
美しく、気高く、花の様に可憐な存在に。
『あぁどうか、ほんの一目でいい……』
――帰リタイ
自分の作るものを、人々は美しいと言った。素晴らしく価値がある、と。
誇らしかった。だが、
『あぁどうか、ほんの一時でいい……』
――ココカラ出タイ
何者の賞賛よりも、喜んでくれる顔が見たかった。
嬉しそうに微笑んでくれる、そんな彼女の傍に居られたら、それだけでよかった。
『あぁ、どうか。どうかお傍に……』
――アノ場所ニ……帰リタイ……
狂おしいほどに胸を焦がす思いが、望郷の念なのか、愛しいものへの思慕なのか、既に彼自身にも分からなくなっていた。
ここ暫く、主に城仕えの者、兵士らの懲罰房や反省房の為に――以前捕らえられていた者たちは皆ギギム山脈での労役に就いた為――使われるようになっていた城の地下牢に収監された四人の旅人達を、宮廷付き司教セヴェリが訪ね去って行って少しした頃。
唐突に、何やら騒がしい声と物音がして、詰めていた三人の兵士らは顔を見合わせた。
金属や固いものを打ち付ける音、『ここから出せ!』という声と、それを諫める様な声に、旅人たちが暴れだしたのだと――恐らく、玉座の間で最も激しく抵抗し、昏倒させられ収監された黒髪の青年が目を覚ましたのだと察した彼らは、慌て一人を残して地下に下りた。あまりにうるさく騒ぐようならば放置せず、多少手荒なことをしてでも静かにさせるよう、常から命じられていたからだ。
旅人達を捕らえてあるのは、最奥の四か所。灯火具の光も乏しい、ほの暗い石造りの空間に声は酷く反響し、その音源をすぐさま判別できたわけではなかったが、黒髪の青年が居るのは向かって左の奥だと知る兵士らは、ずらりと並ぶ無人牢の間を足早に駆け抜けそこに向かった。
「おい! うるさいぞ! 静かにしろ!!」
そう怒鳴りながら駆けつけてみると、騒いでいたのは左の手前、青髪の少年だった。
「うっせぇ! 出せっつってんだろ!!」
「っ!!」
繋がれた鎖を引きちぎらんとする激しさで、狂犬の如く吠え掛かる少年。
その迫力と勢いに、年若い彼は思わず後ずさったが、先輩兵士は厳しい声で怒鳴る。
「国王陛下の御前であれほどの騒ぎを起こしたのだ。そう易々と出られるわけがなかろう! おとなしくしていろ!!」
「なにが王の御前だ! なにが、騒ぎだ!! そうさせたのは、あんたらだろう!?」
少年はひるむことなく語気荒く言い返す。
「バ、バッヘムさん、き、気を付けて下さいっ……」
彼はたじろぎながらそう声をかける。
そういえばこの少年は、先ほど連行されてきた際に護送用馬車からの脱出を試みて、金具を壊したという話ではなかったか。
しかも、枷で拘束されているにも関わらず、魔法を発動させたと誰かが言っていなかったか。
金属と石が、ギリギリと嫌な音を立てている気がする。
あの枷は、本当にこの旅人たちを捕らえておけるものだろうか。
そんな不安が頭をもたげ、彼が思わず更に2歩、3歩と後ずさった、その時、
「!?」
背後からぬっと伸びてきた長い両腕が彼を捕らえた。
その手首に、既に枷は無い。
咄嗟に顔を横にし背後に目を遣ると、それは綺麗な面立ちの青年が、捕まえた、と言う様に薄く笑み、
「俺達を解放するんだ」
強制力を孕んだ声でそう言った。
「放っ!」
「ケウィン!」
「おっと、暴れない方がいい。あんたも、逃げたら彼を殺すよ」
「!!」
格子を隔てて後ろから羽交い絞めにされる形となった年若い兵――ケウィンは抵抗しかけたが、首元に固く冷たいものを感じて息を飲んだ。
武器になりそうなものは全て取り上げたはずだ。
だが、青年の手には光を弾く金属的な鋭い何か――針の様な物が握りこまれていて、
「お、落ち着け、馬鹿な真似は止すんだっ!」
青髪の少年を向いていたバッヘムは、突然のことに驚き狼狽えながらなんとかそう言葉を発した。
そして宥めようとする様に、反射的に手を広げて見せる。
「今なら無かったことにしてやる。彼を放せ……!」
だが金髪の青年は意に介することなく
「鍵は、どっちが持ってるの?――そう、だったら話は早いね。そこの牢を開けて、まず彼の枷を外して」
柔らかな言葉遣いとは裏腹な冷厳とした声で顎を刳って示す。
「……逃げても無駄だ。何にもならんぞ」
「そう、あんたは、俺達に無駄なことをさせない為に同僚を見殺しにするんだ?」
「そ、そんなこと!」
するわけがないだろうとバッヘムは顔を赤くした。
「だったら、早く。それとも俺の言ってる意味がわからない?」
青年は眉を顰め、どこか憐れむ様にも、馬鹿にした様にも見える表情を向ける。
「なんだと!? き、貴様っ!」
「なにも俺は、お願いをしてるわけじゃないよ」
侮辱されたと感じたバッヘムがいきり立って腰の剣に手をかけたのに、彼は体温を奪う冷たい瞳で言い
「ねぇ、そうでしょう?」
瞬時に手をずらし、捕えたケウィンの腿を刺した。
「ぎっ!」
叫びかけたその口を塞ぎ、今度はその鋭い針を眼前に突きつける。
「――次は右目と左目、どっちにしようか」
ぞっとするほどのいい声で、寸分の躊躇いも見せず、まるで楽しむ様に彼は言う。
依頼しているのでも、相談しているのでも、交渉してるのでもない。
そう、命じている――脅迫してるのだ。
ズクンズクンとそこから熱いものが染み出している感触がする。背後には狂気を孕んでいるようにすら感じられる不穏な気配。自らの血で赤く塗れた尖端が、ぼやけて見えるほどに迫り、捕らわれた兵士はぎゅっと両目を瞑った。
「わ、わかった! 分かったから、刺さんでやってくれ!」
バッヘムは必死に頷き、慌て鍵の束を探る。
「そ。よかった」
青年はにこりと微笑み、だがケウィンを放す様子はない。
バッヘムは歯噛みし、そしてやっとの思いで一つを選び出して少年の牢の鍵穴に差し込んだ。
「……無駄なことだと、わからんのか。あの者は既にノルヌ平原に連行された。今更何ができると――」
ガチャリと大袈裟な音を立てて解錠された格子扉が、キイと高音の軋みを上げて開く。
「無駄かどうかは、
「……」
冷たくそう言い渡された男は我知らず唇を噛んだ。
いつの間にかすっかりおとなしくなっていた青髪の少年の牢に足を踏み入れながら、何故悔しい様な気がしたのかは彼自身にもわからなかった。
枷を解かれすぐさま、アレスは目の前の兵に一撃を食らわせ鍵を奪った。
「!!」
素早く牢を出、狼狽するもう一人も同じく殴って昏倒させると、ロルの牢を開け、続けてアーシャ解放する。
「アーシャ、リーを頼む!」
「わかったわ!」
あいつら片付けてくるから、と言うアレスから鍵を受け取り、言われるままにアーシャは黒髪の青年に駆け寄った。
「リー! 大丈夫!?」
枷を外し、ぐったりと力の抜けた様な体を支えてやりながら声を掛ける。
「あぁ。――くそっ、悪い……」
彼は大丈夫だ、と言うようにやんわりとその手を拒み、額に手を当て軽く頭を振った。
「話は聞こえてたんだが、別の声が――ったく、うるせーな。さっきからゴチャゴチャと!」
そして舌打ちしながら立ち上がると、何事かと瞳を瞬くアーシャをよそに牢を出て左手側、出口とは逆の方へ向かう。
「リー? 何、どうしたのよ?」
「そんなに会いたきゃ、自分から会いに行けばいいだろう!」
苛立たし気に言い、リーは地下牢の突き当り最奥部の壁に手をついた。すると、彼が触れた石壁が砂の様に溶けさらさらと崩れてゆく。
「!?」
アーシャが両腕を伸ばしてやっと届くか届かないかといった厚みのある壁に、人が優に通れる程の穴が開いた。その向こう側には、狭くこじんまりとしてはいるが居住空間が設けられている。
何かしら細工に使うのだろう、様々な工具と散らばった素材の数々。そして一人の小さな男が椅子に座って居た。
「!!」
そう、そこに居たのは小さな人間――もしゃもしゃとした眉、それから伸びすぎた髪と髭に顔が半ば覆われ、ムク犬の様になってはいるが、それは確かに――ノーグの男だった。
「な、何なの、これ!?」
「なんだ!? どうした!?」
アーシャが驚きの声をあげ、そして兵士らを独房に押し込み鍵をかけて片付け終えたアレス、ロルが駆け寄ってきて後ろから覗き込む。
だがリーは、自分たちの姿に驚嘆し固まった様に動かないその男に、
「出る気があるなら出ろよ、さっさと。悪いが構ってる暇はねぇんだ。――さ、行こうぜ」
そう言うだけ言って踵を返した。
「え、ちょ、いいの?」
向こう側に見えている金属製の扉は、格子の嵌った小窓までが固く閉ざされている。彼が、望まずにこの場に捕らわれているのであろうことは火を見るよりも明らかだ。
だが彼が何者で、何故捕らわれているのか。そしてリーの言葉と行動の意味も、全く何もわからない。戸惑い、何かしらの説明が欲しいとアーシャは思わずリーの腕に取り縋った。
同時に、
ガタタッ――
言葉はないまでも言われたことを理解したのだろう、立ち上がり彼らに続こうとしたノーグが、椅子に足を取られよろめいた。年の頃は不明だが、わずかに覗く目元や分厚い手は皺深く、随分と老いた印象が見て取れる。
「お、おい、大丈夫か?」
そして咄嗟に手を貸すアレス。
「……」
リーは、ロルから剣を――昏倒させた兵士から奪ったものを――受け取りながら眉間の皺を濃くしてそちらを見遣る。
「会いたい、帰りたいって声が聞こえてたから、出られる様にしてやっただけだ。好きなようにすればいいが、足手まといにはなってくれるなよ」
セフィをこれ以上一人で居させるわけにはいかないという焦りと、自分自身の不甲斐なさへの悔しさもあって、自然と厳しい態度になってしまっているのであろうことは、アレス、アーシャ、ロルらも同じ思いを抱え理解できたから、それ以上の追及は今はしないでおこうと頷き合った。
ノーグの居た小部屋の扉もまた神鐵製らしく、開けられそうになかったため、彼らは兵士らの来た方へと牢を駆け抜けた。
そしてそのままの勢いで開け放たれた格子扉を潜り、上に上る階段に足をかけようとした時、
『お待ち下さい、クルール卿。どうか――」
降りてくる足音と共に声が聞こえ立ち止まった。
『クルール卿は弟です。私ではありません』
二人の男性の声、だが足音の数は定かでない。
彼らは素早く左右に別れて壁に張り付き身を顰めた。
『あ、し、失礼致しました。ですが、あの、やはり二人が戻ってから――』
『そうはいきません。その二人は、彼らを諫めに行ったのでしょう? 彼らがまた意識を失うようなことになっては困るのです』
『で、ですが、その、先ほども申し上げました通り、そもそも何者も面会はさせるなと』
『それは陛下の御下命ですか』
『いえ、その……』
何度か折り返しながら、徐々に声は近付いてくる。
『私が制止を聞かず、勝手に降りて行ったのだと申し開きすればよろしいでしょう』
重なり合う足音に一つだけ軽いものが混じっているが恐らく、三人。前が"クルール卿の兄"、最後尾が見張りの兵士だろう。数ではこちらが優位にある。
「……」
彼らは目配せし合い身構える。
『そういうわけには……』
灯りと共に最後の角を曲がって迷いなく降りてきたのは、声の通りに涼やかな容姿の男性だった。そのすぐ後ろに、10歳頃と思しき淡緑の髪の少年。
それから――
ガッ――ドサッ――!
最後の一人、兵士が降りきるのを待ってその背後に回ったロルが一撃のもとに沈め抑え込む。
「!?」
そして驚き振り返った"クルール卿の兄"にリーとアレスが抜き身の剣を向けた。
「あんた、何者? オレ達に何の用だ?」
威嚇するように低くリーが問うと、反射的に守ろうとしたのか、両手を広げて自分の前に立ち塞がるようにした少年の肩にそっと手を置き、その必要はないと背後に下がらせて男は怖気ることなくまっすぐに彼らを見た。
銀縁眼鏡の向こうの瞳は黒にも似た紫紺。背はアレスよりやや低いくらい、細身で華奢な印象の男性は、癖のない鐵色の髪を耳にかけて、
「――それは此方の台詞です。私と話がしたいと――会いたいと言ったのは貴方達の方でしょう?」
静かな、落ち着きのある声でそう返した。
女性的という訳ではないが、品がありどこか楚々とした彼は何者なのか。
「……! まさか、ラフカディオ、さん?」
僅かに逡巡し、思い至った答えをアーシャはそのまま声に出した。すると彼は、
「全く、相変わらずと言うか。いつまで経っても私の名を正しく呼ぶ気がないようですね、あの男は」
そう言ってふっと笑った。呆れたような、それでいてどこか懐かしみ愛しむ様な表情だった。
「あの男って、ブロムダール卿?」
「正しくない?」
「えぇ。――ですがそのおかげで、私は貴方達があの男の知人だろうと確信を得、会いに来ようという気になったのですけどね」
「……」
刃を向けられても全く動じることなく平然と話す男に気勢を殺がれ、アレスは剣を下した。
リーは油断なく階上を伺い、そしてその向こうでロルが、倒した兵士を手近な牢に押し込み戻ってきたのを目の端で捕らえ、
「さぁ、そんなことよりも早く上へ。見張りが誰もいないと気付かれれば、面倒なことになりかねませんよ」
ラフカディオはそう言って傍の子供と、そして彼らを促した。
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