146 - レオニード司祭
フェンサーリルでの救貧院や孤児院の運営状況を聞かせて欲しいとレオニード司祭に請われ――その言葉の裏には、「働きすぎだから、ちょっと休んでよ」という彼の気遣いが透けて見えていたから――セフィとアーシャは誘われるままに司祭の執務室で一息ついていた。
朝から働き詰めの彼らを労って司祭が手ずから入れてくれた紅茶を前に少し話し、途中出会った修道士に呼びに行って貰った二人がまだ来ないから、様子を見てこようかと司祭が立ちあがった時、セフィは異変に気付いた。
急激に襲ってきたどうしようもなく抗い難い程の眠気と共に、景色がぐにゃりと歪んだ気がして瞳を巡らせる。
すぐ横で赤毛の少女が既に突っ伏して意識を手放してしまっているのに、どうしたのかと声をかけ手を伸ばそうとした、その手首を掴まれ、
「全く、さすがと言うべきか。警戒心が強くて困るね」
同時に、口元から鼻を覆うように布を強く押し付けられ塞がれる。
「!?」
反射的に引き剥がそうとしたがかなわず、思わず吸い込んだ甘い香りの不快に逃れようと抗って自然見上げる格好になった、すぐ傍に司祭が立っていた。
「……君の化け物じみた力は脅威だからね」
ガチリと続けざまに二度、鈍い音がして全身から力が抜けていく。
それが両手の自由を奪う枷であることを、それでも瞬時に理解してセフィは咄嗟に白狼に呼び掛けた。
だが、応える声は酷く遠く、
「悪いね。ことを荒立てたくないから、さ」
代わりに息がかかるほどの距離で司祭がそう言った。悪いとは欠片も思ってなどいない様な声と表情で。
首の後ろでもう一度、金属の音がする。
声を出せぬまま何故と問う瞳で見つめれば、司祭は首を傾げ
「君も聞いて、知っているでしょう? 人ならぬ瞳持つ者を捕えよとのお達しなんだ」
膜が張ったような視界ながら、瞳を細め覗き込む様にしているのが分かった。
「見つけ出して連れて来いってね。さもなければ、あの惨劇が再び王都に降りかかる……分かるかい? 君のせいで、また人が死ぬんだ」
「……!!……」
先の襲撃はお前のせいなのだという、その言葉に、セフィは打ちのめされる思いだった。
「ねぇ、君は紛れもなく魔性の存在だよ。その瞳が何よりの証拠。粛清されるべき、"神を冒涜せし不浄なるもの"――でも、もう大丈夫。魔物は、屠られることでその罪を贖い許されるのだから」
司祭は善意に満ちた瞳で蔑む様に言いながら、綺麗に微笑む。
『憐れむべくは犠牲となった人々と、それから君に魅入られ惑わされた君の仲間たちだろうね……』
司祭の言を否定する言葉を、セフィは持たなかった。既に舌は凍り付いたように動かず、寧ろその通りだと、心の奥底で感じていたことを改めて突きつけられても、詫びることすらできずに沈黙するしかなかった。
「……」
思考が霞み、瞼が落ちてくる。
むせ返るような甘い香りの闇に、彼の意識はただ静かに沈んでいった――。
司祭の豹変を――否、司祭が露わにした本性と本音を、あり得ることだと心のどこかで気付いていたロルとリーは、欺かれたことへの驚きや怒りよりも、それを訝りながらもまんまとその手に乗ってしまった口惜しさと自己嫌悪に言葉もなかった。
意識を奪われ、手枷足枷のみならず、まるで罪人や獣にそうする様に首にまで重たげな拘束具を填められたセフィが、巨躯の兵士に軽々と抱え上げられ裏庭への扉を連れ出されて行くのを、成す術無く目の当たりにし彼らは唇を噛んだ。
「っ……」
全く油断していなかったと言えば嘘になる。
自分以外に頼りとできる者が居るというのは、思わぬ心の隙を生んでいたのかもしれない。
そして、そもそも聖職者である司祭が自分達を貶めるために親しげに近づいてくるなど考えも及ばなかったアレスは、司祭のその清廉潔白さが偽りであると思う訳が無かった。
彼自身信じていたし、仲間達も彼の信じる気持ちを踏みにじるまいと思っていた。そこにつけこまれたのだ。
「大人しく、してくれるよね」
瞳閉ざし、ぐったりとした少女の細い首に鋭利な刃を突きつけながら司祭はにこやかに脅迫した。
「……」
彼らは反射的に身構え握り締めた剣の柄から手を放し、命じられるままに両手を肩の高さに揚げる。
司祭一人なら、どうにかできたのかもしれない。
だが、司祭が手引きし呼び込んでいたらしい屈強な兵士達は10人も居て、僅かな微動すら許さないかの様に油断なく彼らを取り囲んでいた。
白狼は、呼んでも恐らく出てこないだろう。
魔物の襲撃を受けた人々の恐怖心を慮って、また、怯える人々から白狼の魔物を守るために、影の中に潜んでいる様セフィが言いつけていたからだ。
「……騙したのか」
唸るようにアレスは声を絞り出した。
人の善いような顔をした司祭に気を許したことを、彼は激しく後悔していた。寧ろそれはあまりに能天気で甘い考えでいた自分自身を許せない気持ちだ。
「騙すだなんて、心外だなぁ。僕はただ、魔性の存在である彼を捕えるために最良の策を講じただけだよ」
それはもう悪びれることなく言った司祭の言葉に、アレスは自らの耳を疑う。
「何言って――」
「"邪悪を滅するために用いられる手段は如何様でも許諾されて然るべきである"。そうでしょう?」
そして然も当たり前だろうと微笑む、その曇りのなさに背筋に薄ら寒いものが走った気がした。
最初から司祭は、淡紫の瞳持つ者を――セフィを手に入れるという明確な目的を持って自分達に近付いてきたのだ。
偽ったのでも、騙したのでもない。偶然を装って声を掛けて来たことも、彼らの良心につけこんだことも全て、必要最善策であり、目的を達するためにただそれを粛々と実行したに過ぎないのだと司祭は言う。
だがそれは、アレスにとって到底受け入れられる言分ではなかった。
「セフィは、あんたに頼まれたから、ここに来て手伝ったんじゃないか。そのセフィの、どこを見て魔性の存在だなんて言えるんだよ! 心から、助けたいと願ってるのがわからないのか!?」
魔物を退けるという目的の為ならば、どんな手段を使ってもいいのだということも、そしてセフィを滅するべき存在だとみなしていることも、アレスには全く承服できない。
拳を握り声を荒げたアレスに、
「本当に。偽善的行為も甚だしいよね。自分のせいで傷ついた人々を救おう、だなんて」
「偽善!?」
司祭が呆れた様に言い、少年は強く返す。
すると司祭はまたも邪気のない笑みを浮かべ、
「どこを見てって言うけどさ。そんなこと、明らかじゃないかい?」
そう言ったのに、ロルは静かな声で既に答えを知っている問いを向けた。
「瞳が、淡紫だから?」
「そんなの、単に珍しい色だってだけだろ!? なんで、一体誰が、その色が魔性の証だなんて決めたんだよ!」
"淡紫の瞳"が魔性の証であるということは、アレスも漠然とした知識として知っている。だが、その理由は知らない。
司祭が頷くより先に、その理由を知っているなら言ってみろと反発の声を上げるアレス。
「誰が決めた? そんな議論は必要ないよ。だって淡紫の瞳は人ならぬものの証。人が持つはずのない色。つまり、彼は神が御造りになったのではない、異形なんだから」
「異、形!?」
頭に、カッと血が上った感覚。
少年には、もはや司祭が何を言っているのか分からなかった。
これ程までに善良な顔をしながら、これほどまでに酷薄に他者を侮蔑する意味が理解できない。
「何もこれは、僕の個人的見解じゃない。人々が当然として持つ共通の認識だよ。それを知るから彼自身も、その瞳を隠しているんでしょう? それにね、彼が意図して呼んだかどうかはこの際問題じゃないんだよ。それよりも、彼の瞳が確かに、人々に嫌悪と恐怖を抱かせる汚らわしき魔性の顕れであるということ、そして、その存在が同族を呼び寄せるということは明白な事実なのだから」
「!!」
人々の噂など気にする必要はないと、瞳の色がどうであれ関係ないと、言った同じ口から語られる台詞とは思えなかった。
魔に属する者は、排除し粛清するべきであると。ただそれだけが――それこそが、司祭にとって重要であり、それこそが真実正義に適っているのだ。
そして、レオニード司祭にとってセフィは"魔物"以外の何者でもない。そう、理解したアレスは、だが余りに受け入れられない司祭の理念と主張に、震えるほど強く拳を握りしめ言葉を失う。
心の全部が、司祭の言葉を否定し拒絶したがっている。だが、何と言って良いかわからない。
思いを言葉にすることが出来ずにアレスはぎりりと歯噛みをした。
「僕にしてみれば、彼の存在を肯定できる君たちの感覚の方が理解できないよ」
「――理解できないのはお互い様、ってことか」
リーが呆れた様な冷笑と共に言った。
「あぁ、そうか。君たちはもう既に、彼に惑わされ囚われてしまっているのだったね。それなら仕方ないか。それじゃ、お喋りはこの辺にしておいて」
だが司祭は浮かべた笑みを憐れみのそれに変えて、一方的に話を打ち切る。
「さぁ、あの方がお待ちだよ」
抵抗することは許さないと言う様に、少女の喉元に張り付けた刃を顕示しながら司祭は、あくまで朗らかな表情で兵士達に彼らを拘束し捕える様命じたのだった。
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