044 - 悪夢

 肌に突き刺さる冷たい風が灰色の空に渦巻き、非情に吹き付ける。

一方の手で頭巾の前を、もう一方で母の手をぎゅっと握り締めた。

 どこまでも続く葬列の中に彼女はいた。

長く長く続く列の先には、極端に窓の少ない巨大な濃灰の建物。

幾方からも伸びてくる人々の群れを次々と飲み込んで、高くそびえた沢山の煙突は絶え間なく煙を立ち昇らせている。

「あのたてものは、なに?」

自分たちの向かうあの場所は何?

何があるの?

何をしに行くの?

まだ母の腰にも背の届かない、幼い少女は舌足らずな言葉で問う。

母は冷たい横顔のまま答えない。

「……ねぇお母さん、あのケムリはなぁに?」

お空を汚してるの、どうして?

決して速くはない調子で、だが徐々に近づいてきている。

入っていく人の列しか見えないのはなぜ?

出口は向こう側にあるのかしら。

 黒い大きな瞳できょとんと見上げる娘に堪らず、母はひび割れた唇で答えた。

「大丈夫よ、何も心配いらないわ。あそこではお父さまが待っているの」

顔はきっと青ざめているだろう。寒さと恐怖に歯の根が噛み合わずカチカチと鳴っている。

だが、この上なく優しく、愛おしいものを抱きしめるように母は微笑んだ。

「父さまが!?」

首飾りの中の小さな絵でしか会えなかった父。

娘は、ぱぁと顔を輝かせる。胸が痛みながらも癒されているような気がした。

「そうよ。それで、三人で今度は素敵はところへ行きましょうね」


 そうよ。あの人のもとへ行くの

 この子を、この世で守りきれなかったことを許してくれるわよね、あなた

 あなたはたった一人でいってしまったけれど、私はこの子と一緒に……


「ほかの人たちは?」

みんなして、父さまのところへいくの?

母は穏やかな表情で首を振った。

「いいえ。みんな、それぞれの愛しい人のもとへ行くの」

その言葉に、よかったぁみんな幸せね、と安堵し笑う娘。

「そうね」

なんて優しい子だろう。

震えは止まっていた。

零れそうになる涙を堪えるために母は精一杯微笑む。


 愛しいこの子と、愛しいあなたのところへ行くわ。

 きっと神様も優しく迎えてくれるわよね……?


せめてどうか、苦しみのない旅立ちを―――。



 立ち込める暗雲は一筋の光も通すこともなく、雪を落とし始めた。

吐く息は白く、空気は氷の冷たさ。

その空気よりも鋭く冷えた瞳の兵達。

禍々しい建物は、威圧的に自分たちを見下ろしている。

「こんな恐ろしいことは、いつか終わりがくるのだろうかねぇ」

肩を抱いてやった妻が、祈るように呟いた。

私達はもう長く生きた。けれど――

「……」

死への路を成す人々の中には若者や幼子もいる。

前途ある者達。可能性に満ちたその未来が、須(すべから)くが如く摘み取られようとしている。

「神様がお許しになるはずがないのに……」

だが、その信じる神が違うのだ。

老女のしわがれた手を取り握り締めると軽く口付ける。

妻は若い頃のように可愛らしく瞳を細めて身を寄せた。


寒さに凍えた大地を踏みしめて老夫婦は厳つい鉄の門を潜った。

幾筋もの葬列の辿り付いた先、巨大な工場の様な建物を眼前に、広場では人々の選別が行われていた。


――オスとメスは分かれろ!

――ガキと老いぼれは別だ!


 イヤァァ――ッ!


女の鋭い悲鳴にそちらを見遣ると、今まさに幼い娘をもぎ取られたところだった。


 返してっ! お願い――!

 その子は、私の……!


悲痛な叫びをあげ、髪を振り乱し軍服の兵につかみ掛かろうとする。

子の、母を呼ぶ声。

女を叱罵し、腕力に任せて引き剥がす音。

それは決して珍しい光景ではなかった。

「あ、おい……!」

妻がふらりと列を離れる。そんなことをすれば、兵の容赦無い暴力が――

引きとめようとした夫の手を握り締めて、妻は頷くと

「もし……」

女に声をかけた。そして兵の手をすり抜けた少女を招く。


「この子を任せて下さいな。私たちが、預かりましょう。――さぁ、立って。それ以上打たれれば、命を取られかねないわ」


諭すように、静かに、老女は言い聞かせた。

「お嬢ちゃん、名前は……?――そう、さ、おばぁちゃんたちといようね」

お母さんは?

「大丈夫、また後で会えるからね」

小さな手を夫と片方ずつ握り締めて、引き立てられる女に安心して、と微笑んだ。


涙に濡れた瞳が娘と、自分たちを見つめる。


 お願い――


血に赤く染まった唇で女は哀願する。まだ年若い綺麗な顔をした母親だった。


――列を乱すな! さっさと歩け、害虫ども――!!


罵声が飛び人々の群れは進んだ――。



 やつらは触れることすらを嫌った。

『汚らわしい』と言って、少しでも触れた部分を大袈裟に叩く。

その一方で、若い美しい娘や少年を欲望の捌け口にしている。

用が済み、飽きたら腹を裂いて殺した。

 捕らえられた自分が今もまだ命を繋げているのは、美しいからでも媚を売るのが上手かったからでもなくて、この労働に耐えられる体力と精神力があったからだ。

連れて来られた者たちの金目のものを没収し、衣服を引き剥がし、部屋に押し込む。

全てが終わると、遺体を検分して残ったもの――金の入れ歯や隠し持った貴金属、髪の毛すら――を回収し炉へと運ぶ。

 同族の命を奪い、死者を辱める――まさに悪魔の如き行い。

耐え切れず精神を病み、首を吊った者、連れて来られた者達と供に部屋に入っていった者、自ら燃え盛る炉に飛び込んだ者もいた。

いつまで続くとも知れない地獄の日々よりも安息を――

 根絶やしにするのが目的と聞いたことがある。

この辛苦を絶え抜いた後で待っているのが死でしかないのなら――


「おい」

部屋を片付け終え、新たな廃棄物を入れるべく扉を開けろとやつらが命じる。

罪に濡れた両手で鋼鉄の扉を引くと、追い立てられた家畜のように人々が入って来た。

年老いた男女。そして親から引き離され不安気な幼子。

その中に、彼は最も見たくなかったものを見つけてしまった。


 嘘だ……!!


見開いた目は、だが確かにその姿を捉えた。

「おや、――じゃないか……!?」

凝視する彼に気付き、老いた男が声を上げ、妻と見知らぬ幼女を引き駆け寄ってくる。

 両親だった。

これまで出会わなかったから、逃げ延びているか、他の収容施設に連れて行かれたかと思っていたが。

否、いつかこんな瞬間が来るのではと思わないでもなかったが――

老いた夫婦は思わぬところで再会した息子の手を取り無事を歓喜し涙した。


お前が働いているところなら、噂のような場所ではないのだね、と。


心臓を鷲掴みにされたように胸がずくんと軋み、呼吸が詰まる。


 あぁ、父さん、母さん、僕は――


震える唇を叱咤して彼は問うた。

「……その子は、どうしたんだい?」

二人と手を繋ぎ、あどけない表情でこちらを見ている幼女。

黒く大きな瞳が印象的だ。

「この子の母親から預かったんだよ」

変わらぬ表情で微笑む母の言葉に父が付け足し短く説明した。


――おい、そこ、何してる!!


見張りの兵がこちらを見て警棒を振り上げた。


彼は慌て、両親と幼女に言った。

いつものように。


 服を脱いで。シャワーを浴びるんだ。


 汚れを全部洗い流してから、それぞれの房に振り分けられるんだ。


 逃がしてあげることは出来ない。ごめんね――でも、大丈夫だから。


 大丈夫、悪い所じゃないよ――


戸惑いながら、だが人々は従う。同族の者が言うことだ。信用できる。

幼女の胸に首飾りが光った。これだけは外せないのと言う。


 分かった。じゃあ、いいよ。……また後で――


彼は微笑みその場を去った。

そして重い鋼鉄の扉を閉め厳重に鍵をかける。


 あぁ、神様……。


 僕はとっくに罪人だ――



息絶えた人々の山を切り崩していく。

検分し、運び出し、焼却する。

いくら増設しても間に合わない焼却炉は絶え間なく稼動し、全てを灰にする。

そのうち間に合わなくなったら、そのまま埋めることになるなと誰かが言っていた。

その埋め立てる土地も、間に合うかどうか、と。


少女を庇うような格好のまま老夫婦は死んでいた。


手を取ると、まだ少し暖かさが残っていて、せめて抱きしめたい衝動に駆られたが、彼は唇を噛み締めて作業を続けた。

 燃え盛る炉の中に意識無く重たくなったそれらを次々と放り込む。

業火の音に混じって嗚咽が聞こえ視線を移すと、隣の炉の前で男が小さな子供を抱き泣いていた。

 こんなにも可愛いお前を燃やすことなど出来るだろうか、と。

すぐさまやってきた兵士が男を殴り、早く処分しろと言う。

暫しの抵抗も空しく、結局男は自らの手で幼い息子を太陽が如く白く燃える炉へと放り込んだ。


そして彼もまた、その手で両親と幼女を灰にした。


彼の中で何かが引き千切れた瞬間だった――。



 羊毛を刈るように髪を切られた。

狭い1つ部屋に押し込まれ、服を剥がれ、人間を燃料に沸かしたという湯をかけられた。

それから消毒粉を大量に振り掛けられ、粗末な衣服を与えられた。

 そしてこの仕分け作業を命じられて数日。山と積まれたそれらは全て、処分された人々のものだと、誰とも無く話しているのを聞いた。

時計、指輪、首飾り、耳飾り、眼鏡、それに金歯等々。運び込まれてくる品々を、ろくな食事や休養も与えられずひたすら整理する。見張りの兵――というよりも看守と言った方が正しいかもしれない――の冷酷な瞳が常に恐ろしく自分たちを見張っており、少しでも手を休めようものなら容赦なく棒で打たれ、そのまま動かなくなる者もいた。仕事はキツく、身体的にも精神的にもひどく追い詰められていくような状況だった。

 ある時、妙に美しい女が目に付いた。否、確かに豊満そうな体の線は見て取れるが、顔の造作は多少整っているという程度。だが何故か目を惹くような何かがあった。

――そう、健康的なのだ。頬には張りがあり、肌目は整い、唇はふっくらと赤みを帯びている。

こんな環境で、何故? 不思議に思っていると隣の女が教えてくれた。


 あいつは身体使って看守に取り入ってるのさ。

 顔もまぁ、そこそこだし。

 ちょっとした娼婦のつもりなんじゃないかい?


彼女はどきりとした。

ここに入れられてすぐの夜の出来事を思い出したのだ。

夫の他に触れられるものかと、いっそ死んでしまいたいと思ったが、ヤツは言ったのだ。


 娘を助けてやろう、と。


拒むことなどできようか。

娘が助かるなら―― 一縷の望みでもあるのならば――

自らの欲望を満たすことしか頭に無い男の暴力に彼女は耐えた。

身体は軋み、痛み、ひどい痣が残った。


あのおぞましい行為を自ら進んで繰り返していると言うのだろうか。

愛の無い行為は苦痛でしかないのに。


紅を入れているかの様にすら見える女の唇。

あるいは自分も望めばあの様に――

否、自分には娘以外に望むものなど無い。

彼女は頭を振り作業に戻った。


ふと、ある眼鏡が目に付いた。よくある形の、だが見覚えがある。

娘を預けた老夫のものではないか?

いや、そんなはずは――


次の瞬間全身から血の気が失せた。

見間違えるはずの無いものを見つけたのだ。


娘に、持たせていたはずの首飾り。飾りの部分を開くと、愛するひとの小さな絵。

決して、手放してはならないと言っておいたはずなのに。

「あ……ぁ……!」

それが今、自分の手の中にある、その意味を理解する。

無意識に声が漏れた。

「いや……!!」

幼い娘の、愛しい一人娘の、可愛らしい表情が目の前に浮かんでは消えた。

あの男は助けてやると言った。だから自分は言うなりになったのだ。だが、娘はとっくに――

「あぁぁぁ!!」

突然声を上げた彼女の、隣の女が驚きながらも諌めようとする。しかし壊れた自動人形のように彼女は頭を抱え首を振り叫ぶのを止めない。

看守がゆっくりと歩み寄り、彼女を引き倒すと低い声で黙れ、と罵倒する。

「……ろして……」

「あぁ?」

「殺して……」

娘の首飾りを胸に抱き縋るように哀願する。どうかいっそ殺して、もうこの世に生きる意味など何も無いからと。

その言葉に看守は女を口汚く罵り、太い足で蹴り付けるが決定打を与えようとはしなかった。

「殺してどうか、お願い、殺して……死なせて……」

さっさと作業に戻れ、という看守の言葉に従わないまま地面に這いつくばって女は繰り返す。

「そうか。そんなに死にたいか」

看守は冷厳と言い、倒れた女を心配そうに見つめる、隣の席の女の頭に銃口を向けた。

「!?」

純朴そうで、そばかすが目立つ地味な顔立ちの女だ。

彼女は言葉と息を飲んだ。


 ならば殺してやろう。



ズガァァ――ン……!



突然の恐怖に引きつった顔の、瞳が見開かれる。

ドサリ、と崩れ転がる体。

こめかみの黒々とした穴から音がしそうな勢いで噴き出す赤黒い血。


 どうして……!?


何故、自分ではなく彼女を殺すのか。

震え、訳がわからぬまま看守を見上げると下卑た笑みと供に言葉が降ってきた。

「お前は大層具合がイイらしいじゃないか」

 それになかなか見られる顔をしている。

何のことを言われているのか瞬時に理解し、強く頭を殴られたような衝撃が全身に響いた。

尚も男は言葉を続ける。


 勝手に死のうなどと思わないことだ。

 少しでもそんな素振りを見せてみろ。殺してやる。

 端から、順にな――

 俺達が飽きるまで、お前は奉仕するんだよ。


乱杭歯を覗かせ嫌らしく歪んだ口元。冷水を浴びせられ黒布で目の前を覆われたような恐怖が彼女を震わせる。

 どの道皆殺されるのだ。それが少し早くなるだけ――そう思っても、自ら引き金を引くことなど出来なかった。




 それが、本当の地獄の始まり。






 激痛に軋む心に、僅かに差し込む光を手繰り寄せ、セフィはなんとか目覚めへと辿り付いた。

薄く瞳を開くと見慣れた部屋、暖かな色彩、優しい光が触れる。

「夢……」

早鐘のように打つ鼓動を紛らわそうと言葉に出してみても、あまりに実際的に感じられる辛苦。

 だが、そう、いつもの嫌な夢だ。

その内容をはっきりと覚えていることもあれば、全く覚えていないこともある。今回はその前者なのだが、目覚めると決まって泣き出したくなるような恐怖と言いようのない倦怠感に包まれていた。

 幼い頃、怖い夢を見るから眠りたくないと母に縋った。だが自分はもうそんな子供ではない。

目覚めた先の現実をしっかりと掴むように、瞬きぼやける視線を彷徨わせ時計に手を伸ばした。

――午前4時……早すぎる……

そう思うと、落ちてくる瞼に抗うことが出来ず再び眠りに襲われた。



 お前が要らないと捨てた命を俺が拾った

 だからお前は俺のものだ

 お前の生も死も、俺が決める

 俺のために生きろ。

 勝手に死ぬことは、許さない――



「っ……!」

暗闇に響く声で言われセフィは飛び起きた。

全身に絡みつく悪夢は、鋭い棘を纏い重く強く締め付ける。

あの続きを見るのは辛い。身体を起こし、立てた膝に額を置いて溜息をつく。

「もぅ、嫌……だ……」

少しの間そうしていたが、あの情景は容易には消えてくれずセフィは諦めて寝台を降りた。

昨夜遅くまで報告書の作成をしていたから、今日はゆっくりと眠っているつもりだったのに。

眼鏡をかけ、仕上がった報告書をぱらぱらと繰って見てからカーテンに手をかけた。

以前古い文献で読んだことがある、かつて行われた大量虐殺<ジェノサイド>の生々しい様を彼は見た。否、寧ろそれは追体験と言えた。

この上ない恐怖と絶望だけが支配する世界。

 一体いつの時代だったろうか。

そして何故、自分はそんな夢を見るのか。

あの文献を読んだのはもうずいぶんと前だ。それを、あんなにも実際的に想像できるものなのだろうか。


『忘れてはいけない記憶。忘れてはいけないけれど、忘れてしまった記憶を、神様が夢として見せて下さるのよ』


――それでも、あれが自分の失った記憶だとは思えないんです。シスター=マーサ……


また大きく息を吸って吐きセフィは呟いた――。

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