035 - 涙の理由

 少しすると、丘の上に建つ教会に辿り着いた。

石造りの質素な建物だが、鐘楼や刻まれた十字の紋章はそこが人々の祈りの城であることを示していた。

 裏手には墓地があるのだとイフルが話してくれた。

 今、聖堂内は亡くなったジョゼフの葬儀の準備が整えられ、正面の扉は堅く閉ざされている。二人は教会に付属して設けられた司祭の住まいを訪ねることにした。

 扉を叩くとすぐに返答があり、現れた司祭にアーシャが地図を見せて欲しいと告げる。

「あぁ、それなら」

と司祭は部屋の中に二人を招き入れた。

 そこは本当に生活に必要な限られた物のみの質素な住まいだった。

すぐさまギサノル司祭は棚から、大きな筒状に丸めた羊皮紙の地図と小さな紙切れの地図を取り出し机の上に広げて示した。

「ここがヴィナエの街、そしてホルス街道と……あなたが目指していたフォンティンだね」

ディセイル地方と書かれた羊皮紙の地図の一角、描かれた街の絵と線を指で辿りながら司祭が言う。

「このクミンや他の村々はこの辺りフノッサ丘陵地帯に点在している」

「……小さく名前が書いてあるわね……――あった。クミン……村」

アーシャも地図を覗き込み、しわがれた司祭の指先を目で追う。

「それで、簡単にだがこっちに描き写しておいたよ。もし良かったら……」

言いながらギサノル司祭はもう一方の紙切れの地図をアーシャの前に差し出した。

点在する村と近くの大きな町、ホルス街道の位置関係が描かれた手書きのものだった。

「頂いていいんですか……!?」

「あぁ。もちろんだよ。拙いもので申し訳ないのだが……」

「うぅん、全然! すごく助かります……! ありがとうございますっ!!」

受け取った地図を見つめ、そして嬉しそうに声をあげた姿に司祭も「それはよかった」と満足気に頷いた。

そうしてしばらくの間アーシャはイフル、司祭と一緒になって大きな地図と小さな地図を眺めていたが、不意に司祭が

「――しかし、今はもうしばらく村から出ない方がいい」と厳しい口調で言った。

「……魔物、ですね」

その理由を知っているアーシャは何故とは問わず、神妙な面持ちで司祭を見る。

「詳しいことは解っていないんだが……大型のサルの化け物の様でね。3匹はいたと言っておったよ。……食人種の凶暴な魔物かもしれん」

「村の中は安全なんですか?」

司祭の言葉にイフルが尋ねた。そんな化け物に襲われたら、こんな小さな村などひとたまりもない。思わず恐怖がこみ上げる。

「教会の建物の礎石には、魔物除けの結界石が使われているからね。この教会を中心とした村の中はよほどのことがない限り安全だよ」

青年の表情の強張りにその心中を察し、そして自分の言葉が彼を脅かしてしまったのだと悟った司祭は穏やかな表情で強くそう言った。

みんなにも村から出ないようにと言ってある、と。

司祭の答えにイフルはホッと胸を撫で下ろした。アーシャもまたその言葉には安堵の感を覚えたが

「……でも、いつまでもここに留まるわけにはいかないわ……」

地図を見つめたまま呟く。

「アーシャ……!?」

「それはそうだろうが今は……」

――自分が倒しに行く、と言うとでも思ったのか、二人は慌て引き止めるように言った。

彼らは心のどこかではアーシャが倒すことを望んでいたかもしれない。だがイフルは勿論、司祭も「倒してくれ」とは言わなかった。そしてアーシャもまた自分から「その魔物を倒してやる」とは言えなかった。

簡単に引き受けられるほどの強さが自分にはない。

――悔しい……

 アーシャは「わかってる」と言うように苦笑して頷く。

「別に俺んちは、いつまでいてくれても構わないし」とイフルが照れたように言った。

「……ん。ありがと」

アーシャはイフルに嬉しそうな笑みを向け、そして司祭に

「――ジョゼフさんのこと、聞きました。力になれなくて……」

その場にいた誰もが口に出し辛かったであろう話題を敢えてアーシャは口にした。

無為には出来ない話題。言っておかなければならない気がしたからだ。

「いや、私自身も力が足りなかった……。あなたが気に病むことではないよ。恨むべきは魔物なのだからね。――それに、この話は聞いたかい? ジョゼフは、息を引き取る前に少しだけ意識を取り戻し、アニタに最後の別れを告げることが出来たんだ。これは、あなたが力を貸してくれたおかげ……私一人の力では……」

「そう、だったんですか……」

アーシャは静かに拳を握り締め、瞳を伏せた。

別れを告げられたということ――それが本当によかったのだろうか?

悲しみを増しただけではないだろうか?

自分なら……?

――何も言えずに愛する者のもとを去るよりも……愛するものに逝かれるよりも……やっぱり……



 話が終わるとアーシャは司祭に重々礼を言い、イフルと共に部屋を出た。

そして司祭の家から教会の入り口辺りまで僅かに歩いた頃、前方にこちらに向かって歩いてくる二人の女の姿が目に留まり、アニタとその母だとイフルが小さく言った。

何を言われるかと思わずアーシャはドキリとしたが、司祭の言葉を思い出し、そう、ただ普通に挨拶代わりの軽い礼をして通り過ぎればよいのだと、真っ直ぐに前を向く。

 それまで俯いていた暗い表情の女、アニタと目が合った。瞬間、瞳が大きく見開かれ唇が音を発することなく「どうして」と言葉を刻む。

――どうして、助けてくれなかったの?

「え……!?」

掴みかかられるのではと思う勢いでアニタはアーシャに詰め寄ってきた。

「何故? どうして助けてくれなかったのよ……!――あなた、魔法、使えるんでしょう!? だったらどうして、ジョゼフは逝ってしまったの……? どうして助けてくれなかったの!? イフルの両親は助けたのに……!!」

と、アニタは厳しくアーシャを責め立てた。怒りと悲しみに満ちた瞳からみるみる涙が溢れ頬を濡らす。

「っ……」

何故助けてくれなかったのか。そんな風に言われるとは思わなかった。アーシャは戸惑い言葉を失う。

助けなかった。彼女の目にはそのように映ったのだろうか?

助けられなかった自分の弱さを悔やんだから、感謝の言葉が欲しいなどとは思わなかったがこのように責められるとは思わなかった。

 イフルは、アーシャの頬を何の躊躇いもなく叩いたあの時のアニタを思い出し「ごめん、アーシャちょっと待ってて」と言うと慌て司祭を呼びに走り、アニタの母が娘を諌めようとするが、既に自分の夫が死んだのはこの少女のせいだと思い込んでしまっているアニタには、たとえ母の制止でも効果はなかった。

「フィタニのおじさんとおばさんは、助けたのに……! どうしてジョゼフは!? あんな惨い目に……あぁ……」

片腕を奪われ血に塗れた夫の姿を思い出したのか、アニタは嗚咽を漏らす。

「助けてくれなかった! あなたが見捨てたから! ジョゼフは死んでしまったの……! そうよ、あなた、魔物がいるって、分かるんでしょう!? 分かってたはずよ! なのにどうして放っておくの!? 何故何もしてくれなかったのよ!」

「アニタ、そんな……」

イフルに呼ばれ掛け付けた司祭が、それはあんまりだと口を開き言い終わるより先にアーシャが声をあげた。

「なに、それ」

それこそ何故、自分がそんな風に言われなければならない?

繰り返されるアニタによる理不尽としか思えない言葉。

愛するものを失ったからといって、自分にそんなことを言う権利が誰にある?

「どうしてあたしがそんなこと言われなきゃならないのよ! ――あなたが言うところの何もしてないあたしよりも、あなたは何をしたって言うの? 彼のためにあなたは何をしたのよ!?」

それまで黙り込んでいたアーシャがそう言い返すとアニタは一瞬怯み、声を失ったがすぐに

「祈ったわ! 無事に帰ってきますようにってずっと祈ってた……! 助けて下さいって、他に何もいらないからどうか助けて下さいって、たくさんたくさん祈ったもの!」

「それだけ? 自分では何も行動せずにただ神頼みをしてただけなの? ただ祈ってただけのあなたがあたしを責めるの?」

 神への祈りを「それだけ」というアーシャだが、そこに祈り自体を否定する意図がないことを察し司祭は咎めようとは思わなかった。イフルに呼ばれ、もしアーシャがアニタから一方的に責められているとしたら、仲裁に入らなければと駈け付けたが、今はとてもそんな雰囲気ではなかった。

 ジョゼフが亡くなってから、散々にアーシャのことを責めていたアニタは、その責めた相手である少女の言葉を聞かなければいけない、そう思った司祭は敢えて口を出すのを止めた。

 ジョゼフを助けられなかったからとアーシャが責められるなら、それは自分も同じだろうと言えばよかったのかもしれないが――それでは、双方気が済まないはずだ、と。

「それだけって、何よ……!」

「それだけ、じゃないの。神様に祈ることなんて誰にだってできるわ。あたしだって力を貸してって心の中でずっと祈ってたもの!

――私にはあの人を助ける義務なんてなかったのよ? ここにいたのも単なる偶然で、魔法を使えて、力を貸そうとしたのも私がそうしたかっただけ。誰に言われたのでも義務を負ってたわけでもないの。

分かる? 初めから知らないフリだって出来たのよ? だけどあたしは助けたいって思った。

助けたいと思ったから、できるだけのことをした。あなたの目にそれが、もっと何か出来たはずだと映っても、助けられなかったから、何もしてないって言われても仕方がない。でも、そんな風にあたしを責め立てるあなたはいったい何をしたって言うのよ!?

彼の帰りが遅いなら探しに行く事だって出来たんじゃないの? 村の人に頼む事だって出来たはずよ? それすらしてないじゃない!」

語気を荒げ、反論する隙を与えずアーシャは今度はアニタの非を責めた。

 自分にはジョゼフが魔物に襲われていることに気付けだの助けろだの言うくせに、この娘はただ家に閉じこもって「神様どうか彼を無事にお帰し下さい」そう祈っていただけだというのだろうか?

 神に祈ることを勿論否定はしない。自分だって今までの日々の暮らしには祈りがあった――感謝の祈り、慈悲を請う祈り――だが祈り、神に助けを請うたなら、それが果たされなかった時、何故自分の祈りが足りなかったと思わない?

何故、神に見捨てられたではなく、ただの人間である自分に縋りそして責めるのか?

 アニタはそれでも口を開く。

「……村の外は危険だわ。何かあっても私は戦えない! 魔法なんて使えないもの! それに……そうよ。村の人たちに頼んだとして、その人たちが危険な目にあったら? そんなのダメよ。悲しむ人がいる。私みたいに……!!」

「そう。たとえ愛する彼のためでも自分の命を危険に晒すのは嫌ってわけね」

アーシャはフッと呆れたような笑みを浮かべた。

「悲しむ人がいる? 何を今更……? あたしにはむしろ危険に身を晒し傷付けと言っておきながら?……あぁ、あたしが旅人だから、村人でないから魔物に大怪我を負わされても殺されてもどうでもいいって事ね……?」

「そ、そんなこと言ってないわ!」

「『ジョゼフが魔物に襲われたと知ってたはずだ。助けに行くべきだ』そう言ったんじゃないの?」

「そ、そうよ! だってあなた強いんでしょう!? 魔法が使えるんでしょう!? 魔物を、倒せるんでしょう!? だったら、助けてくれたってよかったじゃない……!!」

「あたしが強い? 何馬鹿なこと言ってるの?!……あたしは弱いわ。あなたのジョゼフさんを助けられなかったんだもの、強いわけがないじゃない!

――大切な人に無事でいて欲しいって言うのは、勿論分かるわ。当然の感情よ。でも、あなたにとって『どうでもいい』あたしにだって意志はあるのよ……! できることなら、戦いたくなんてない……!」

喉の奥がカラカラに乾き、ギュっと締め付けられるように苦しい。アーシャの大きな瞳から透明な涙が零れ落ちた。

「――あたしを、誰だと思ってるの……!? ただの旅人よ。力なく弱い人間。ひと一人助けることの出来ない小さな人間なのよ!?……助けて当然と思われるほどの力なんてあたしにはない。あたしだって魔物と戦うのは怖いの……!! 本気で命を奪おうとするやつらと対峙するのは、本当に怖いのよ! 逃げ出したくなる時だって、あるもの……!

だけど、あたしはそれでも必死に耐えて、自分の力で戦ってきた。死にたくないから、自分のできることは精一杯やってきた。……誰かの目に、あなたの目にそれが不十分だと映ってもあたしには精一杯だったの!」

認めて。よくやったと誉めてくれなくていいから、認めて欲しい。

自分のしてきたことが、自分にとって出来うる限りのことだった。

結果が全てだと言う人がいるかもしれないけれど、結果を誉めて欲しいんじゃない。自分が今まで精一杯頑張ってきたんだって、どうか認めて。

「あなたのこと聞いてるんじゃないっ!……だって、ジョゼフは死んじゃったんだもの! 助けて、くれなかったから……!」

アニタは叫ぶ。

何を言っても通じない、とアーシャは思った。

通じない。彼女にはきっと何を言っても通じないだろう。

まるで聞いたこともないような難解な古代語で自分が何か喚いているようにしか、聞こえていないのではないか。

それでも声をあげずにいられなかった。

アーシャは涙を拭わぬまま、渇いた喉を唾を飲み下して潤し

「正直今の、あたしだったら……もし、気付いていても助けに行けたか分からない」

呟くように言葉を漏らす。

アニタの瞳が「なんて無慈悲で酷いことを」と見開かれ、アーシャを責める。

 これまで、ジョゼフという男の死を目の当たりにするまで、心のどこかで『自分はこんな所で野垂れ死んだりしない』と、死を、遠くのものに捉えていたのかもしれない。

魔物と対峙しても、どんなに怖くても、死にはしないのではないか、と。

だが、今は違う。

魔物に襲われ腕をもがれ、男は死んだ。

それが、自分にも降りかかるであろう死に、この上ない現実味を与えた。

なんて自分は甘かったのだろう。

実感してしまった死と自分の弱さ。それを押し切って、自分の命を自ら危険に晒すことなど、できるだろうか。

「でも……言い訳に聞こえるかもしれないけど、もし、こうなる前だったら、知ってたら助けに行ったわ。助けられなかったとしても、何もしないでいるよりその方がずっといい。

ムルスおじさんとマドーラおばさんを助けに走ったのは、怖くても臆病になりたくないから。気付いたものを放って置くなんて嫌。……そう思ったから。今だってそうは思う。でもそれが出来たのは、あたしの死に関する認識が低かったからって言うのも、すごくあるの。

――あたしがもっと強ければ、ちゃんとジョゼフさんを治すことが出来たはず。うぅん、魔物の気配にも気付いてすぐに助けに走って、その魔物を簡単にやっつけて……出来たはずなの。分かる? それが出来なかったの。それくらいにあたしは弱いのよ」


そして込み上げてくる死に対する恐怖。

誰かのために命を投げ出すなんて事はしないと思いながら、自分はなんと馬鹿なことをしたのか。

人助けが愚かな行為だとは思いたくはないけれど。


そんな風に思ってよいほど、自分は強くない。


本能が訴える不安はなるべくなら避けるべきだと教わった。教わらずとも当然のこと。

生き延びるために闘ってきた。

幸せの場所を見つけたくて、旅に出た。

人助けなど、目的ではない。助けられる確証も無い。

どこの誰とも知らぬものが傷付こうとも知ったことではない。

さしたる力も無い自分が、関わらずともよい危険に身を晒し傷付く必要など、ない。


――彼らの教えは正しかった。


今の自分の弱さの前では、それらは当然従うべき教えだった。

それが、悔しくて堪らなかった。

どうにかしたくても、どうにもならない。


「――そんなあたしに何もかも押し付けないで……!」

アーシャの悲痛な叫びのような訴えを、アニタはうずくまり耳を塞いで聞こうとはしなかった。ジョゼフを失って悲しいのは自分なのに。自分はこんなに辛いのに、とでも言うように。

「……あなたの辛さなんてあたしには分からない。けど、あたしの辛さはあなたには分からないわ……だって、そう、分かろうともしないんだから」

「ひ……ヒドイ……」

アニタが涙をいっぱいに湛えた瞳でアーシャを睨み上げた。

「ひどいことを言ったのはあなたも同じよ。自分だけが悲劇のヒロインみたいに、悲しみに浸って倒錯した考えに溺れて、ひとを、傷つけたじゃない」

見下す姿勢のまま言い、アーシャは自らの涙をぐいと拭った。

アニタがうずくまり「もう聞きたくない」と嗚咽を漏らし、それ以上何も言ってこないのを認めると、アーシャは何も言えず二人のやり取りを静かに見つめていた司祭と、オロオロとした様子のアニタの母に向く。

「お騒がせしました。それじゃ、失礼します」

そして深く頭を下げると踵を返しその場を去って行った。

イフルが慌て軽く礼をし、その後ろを追う。



「司祭様……」

呆然と、だがどこか感慨深くその後姿を見送ったギサノル司祭は傍の女に声を掛けられそちらを見遣った。

 泣き崩れた一人娘を抱く母は、どう声を掛けてよいのか分からず司祭に言葉を請うている様であった。

「……アニタ。まず、さぁお立ちなさい」

言って、娘を立たせると、母がハンカチで涙を拭わせるのを待って

「……アニタ、あなたには何故、あの少女が涙を流したか分かりますか?」

静かに諭すような、だがどこか厳しい口調でギサノルは問う。

「……」

だがアニタは何も言えず、見つめる司祭から視線をそらし黙り込んだ。

「あなたが、責めたから?……あなたに責められたことが悲しかったから?……おそらく、そうではないだろうね――あの子は悔しかったんだよ。助けられなかったことが。力ない自分自身が……。

ジョゼフが亡くなったことによって悲しい思いをしたのはあなただけではない。

あなたの悲しみは確かにあなただけのものだね。誰のものでもない、誰にも分からない。

でも、悲しんだのは、あなただけではない。悲しみの形は人それぞれで比べられるようなものではないけれど、皆がそれぞれに心を痛めた……。

それはまさにジョゼフが、それだけの人に大切に思われていた証拠でもあるのだろう。

誰もあなたと同じ悲しみを味わった人はいないように、あの子の悔しさや悲しみは、あなたには分からない。私も勿論、全く同じ思いを感じることなんて出来ない……けれど、理解することは出来る。

ジョゼフを救えなかったのは私も同じ。悔しくて、悲しい……。

それに、彼女が責められるというのなら私も責められるべきなのだろう。違うかい……?」

「いいえ! 司祭様……でも、司祭様は、助けて下さろうと……」

「それはあの子も同じ。そうだろう? 何故、あの子だけをあのように責めるんだい? 分かっていたはずだろう? あの子が助けようとしてくれていたことを……」

嗜めるような言葉。アニタは肩を竦める。

「今のあなたは失った悲しさに目を塞がれ、不幸な自分、かわいそうな自分しか見えていない。あまりの悲しみをどこかにぶつけたくて……彼女を責めた。都合のいい相手だったから。違うかい?」

「そ、そんなこと……! 私は……」

言葉が続かず口篭もる。

「私は、何だね?」

「……」

「アニタ、自分が傷ついたからといって誰かを傷つけてよいことはないのだよ……。

 それに、ジョゼフがそんなことを望むと思うかい? 確かに、死を悼み悲しむのは亡くなった人のためにも大切なことだろう。でも、そればかりに囚われていてはいけない。――亡くなったジョゼフのためにも、生きているあなたは幸せにならなければ」

「……ジョゼフが……いないのに幸せになんてなれない……」

「そう、ジョゼフと共にあった幸せを得ることは出来ないだろうね。ジョゼフを愛し、そして愛されたという幸福に代わるものは無い……。けれどあなたはこれからまだまだ長い年月を生きてゆくのだよ。その中でまた、数多くの幸福に出会うはず……あなたに幸せになりたいという意志があれば……。勿論、すぐにとは言わない。忘れろ、なんて無理な話だからね。

――神の御許でジョゼフが心安らかにいられるように……あなたはジョゼフの愛したあなたで、そして幸せにおなりなさい」



足早に歩くアーシャに追いつき、イフルはチラと横目にその表情を覗いた。

もう涙は溢れて来はしていなかったが、頬に残るその跡と、赤くなった瞳を見張った表情がきずつなかった。

どんな言葉をかけていいか、わからなかった。

この少女の内にある、あんなにも激しいものを見せ付けられた後では。

そしてアーシャ自身も下手な言葉で慰められることなど望んでいないだろう。

放っておいてくれと、言っている気がした。

だがその足の向かう方向が家の方ではないことに気付き、イフルは恐る恐る声を掛ける。

「……アーシャ……?」

「何?」

もう一度、涙の跡を強く拭う。今は何も、言いたくないし聞きたくない。そう、思ってるのだろうとイフルは感じた。それでもイフルは問うた。

「……どこ、行くの?」

「村、見て回るの。言ったでしょう?」

一度大きく深呼吸して、漆黒の瞳を瞬かせると「忘れたの?」とでもいう様にけろりと言う。確かに、そのような予定ではあったが

「で……でも、大丈夫? 一旦家に帰った方が良くない?」

アニタとのあんなやり取りがあった直後、泣いた跡も残っている。

なんといってもアーシャは病み上がりだ。少し休んだ方がよいのではないかとイフルは言うが

「大丈夫よ。これくらい、何ともない。それに……帰ったっておばさんに何があったのかって心配されるだけだもの」

アーシャは微笑んだ。どこか困った風に見せて、まるで何もなかったと言う様に。

心配かけまいと、無理に見せる笑みなどでは到底無い、明るく澄んだ表情。

その様子に逆にイフルは戸惑うが、いつもの屈託無い笑顔はとても可愛らしく、暖かくイフルの胸を打つ。

「……アーシャ……」

「……ん?」

なんて強く美しい娘だろう。

これまで出会ったどんな娘とも違う。

様々に見せるアーシャの一面一面はどれも容易に想像のつくようなものではなくて、その全ては愛しいと思わずにいられないほど魅力的だった。

「……ごめん。何でもない」

抱きしめて、思い切り泣けばいいよと言ってやりたかった。

だがそれはイフルの独り善がりな感情だろう。

「じゃ、案内するよ。まず……あまり人に出くわさないところの方がいいかな」

なんでもない、と自身の中で片付けた少女だが、それでも涙の跡など見られたくないだろうと思ったイフルは穏やかに笑みそう提案した。

「あははーそうね~その方がいいかなぁ」

アーシャも手を打ってそれに賛成しそれじゃぁヨロシク、と笑いながらイフルの肩を叩いた――。

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