4月18日(月) 雨

「出てこい! お巡りィ! パトの鍵ば持ってなァ‼︎」


 堀田は一瞬、頭が真っ白になった。

 逃走中の凶悪犯がいきなり交番に来ると誰が思う。

 引き戸の窓から伺えば直前に電話で聴いた通りの人相の男が、どこから手に入れたのか包丁をセーラー服の少女の首に突き付けながら、後ろから抱きすくめていた。


 サヤカだ。


 カッと頭に血が登った堀田は思わず腰のホルスターに手を掛けた。しかし何かに気付いて、はっ、となると、自分が手を掛けた拳銃のホルスターを真剣な眼差しで見つめた。


***


「その子を離せ」


 銃を手に構えたまま交番を出た堀田は、短くそう命じた。


「パトカーの鍵ばボンネットに置け! 早ようせんか! グズがァッ!」


 降りしきる雨の中、逃走犯・兵藤とサヤカの姿はバス停の屋根の下にあった。対する堀田は交番の軒下だ。 

 怯え切って目に涙を溜めたサヤカに、堀田は大丈夫だ、と視線で合図を送る。

 彼は兵藤の頭にぴたりと銃口を指向したまま、胸ポケットから警察のキャラクターのキーホルダーが付いた鍵を取り出した。そして軒下から出て雨を浴びながら、交番の前に駐車してあるミニパトのボンネットの中央にその鍵を慎重に置いた。


「その子を離せ」


 堀田はもう一度短く命じた。冷たく、淡々とした声だった。


「パトカーから離れえ! 俺がパトカーに無事乗り込んだら、こいつは離したらあ‼︎」


 堀田は言われた通り、じり、とパトカーから離れた。

 堀田が離れた分だけ兵藤は、じり、とパトカーに近づく。

 国道の中央を中心に、堀田とサヤカを連れた兵藤は、反時計回りに円を描くようにその位置を入れ替えてゆく。

 ずぶ濡れになりながら、堀田はバス停に、兵藤とサヤカはパトカーの隣に辿り着いた。その間も堀田は、銃の照準を兵藤の頭から一瞬たりとも外さなかった。


「その子を離せ」


 堀田は三度、同じことを命じた。三度とも全く同じ、冷静そのものの声だった。


「お前の魂胆は分かっとる。俺が車に乗る為にこいつから離れる隙に撃つ気やろ。その手には乗らん。銃ばこっちへ投げえ!」

「だめえぇぇぇぇっっ!!!」


 絶叫が響き渡った。これまで聞いた事がないサヤカの叫びだった。


「銃を渡しちゃだめよ! 堀田巡査!」

「だあっとれこの小娘……」

「殺すなら殺しなさい! 今すぐ! さあ!」

 凛、としたよく通る声がぴしゃり、と兵藤の言葉を遮った。兵藤は一瞬サヤカを殴ろうというような素振りを見せたが、堀田の銃口に対して隙を作ることを避ける為にその動作を止めた。


「いいの……あたしは、これで」


 完全に開き直ったサヤカは背筋を伸ばし、雨に打たれながらどこか清々しい表情で言った。


「あの夜、あたしは弟と喧嘩をして、母に怒られたの。父も母と弟の肩を持った。ムシャクシャしたあたしは、家族全員に言ったの。……『死んじゃえ』って」


 涙。


 雨に打たれるサヤカの顔は既に雨の滴が止めどなく流れ落ちていたが、堀田は彼女の瞳から溢れて頬を伝う涙を確かに視た。


「あたしは家を飛び出した。その直後、家は家族ごと泥と岩で埋まった。あたしが言った言葉のままに」


 サヤカは空を見上げて雨に顔を晒した。


「雨の夜は思い出すの。あたしが言った……『死んじゃえ』を。耳の奥に響くの。何度も。何度も。繰り返し。繰り返し。あんなこと……言うんじゃなかった……あたし、父も母も弟も、大好きだったの……あたし……あたしは……」


 彼女は再び顔を降ろして堀田を正面から見た。


「だからいいの。銃を渡せばこの人はあなたを撃つわ。どうせその後、あたしも殺される。この人を撃って。堀田巡査。あたしは死んでいいの。本当はあの夜に、死ぬべきだったんだから」

「……おいポリ公! 分かっとるやろなぁ! 俺を撃ったら最後の瞬間必ずこいつも道連れにしちゃるぞ! 頭を撃っても、倒れながら首ば切り裂くくらいできるけえな!もう一度言う! 紐ば外して、銃ばこっちへ投げえ! 銃ば手に入れてパトカーに乗ったら、こいつは解放しちゃる。お前も撃たん」


 雨がトタン屋根とアスファルトを叩く音。バケツに雨漏りが落ちるぺてん、ぺてんという音。

 十数える程の間、音色もリズムも異なる雨の奏でる様々な音が、その場の全てだった。


「……本当に、その子を解放するんだな?」

「何考えてるの……バカッ! だめよッッ‼︎」


 兵藤はニヤリと笑った。汚物をU字に歪めたような笑みだった。


「ああ。約束する。俺は安全に逃げたかだけばい。余計な人質なんぞ抱えたくなか」


 すっ、と堀田は射線を兵藤から外した。銃のグリップから脱落防止紐を外すと、銃そのものを兵藤の足元に放った。ばしゃっ、と水を跳ねてアスファルトに落ちた銃は回転しながら少しの距離を滑って、兵藤の爪先に当たって止まった。


「だめよッッ!!! やめてッッッ!!! 彼を殺さないで!!! お願いよ!!! あたしをどうしたっていい!!! だから……! だからお願い! どうか彼だけは……!!!」


「……ひゃはっ」


 血を吐くようなサヤカの懇願に対する兵藤の答えは、空気漏れのような嘲笑だった。兵藤は包丁を投げ捨てると素早く足元の拳銃を拾い上げ、その銃口をサヤカのこめかみに押し当てた。


「ええ子や。お巡りさん。自分の危険も顧みず市民の安全を優先する。警官のかがみやなァァ」


 兵藤は言いながら銃口をサヤカから離し、ゆっくりと堀田に向けた。


「ええ子には、ご褒美ばやらなんなァァァァ」

「いやぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」


 サヤカの絶叫。汚物のような笑み。絞られる引き金。起き上がってゆく撃鉄。そして──。


 ──かちん。


 ん? という表情で兵藤が銃を見る。


 ──かちん。かちん。かちん。


「まっ……まさか!」


 かちんかちんかちんかちんかちん……。

 回転式の弾倉を横に開けて中を確認した兵藤は、そこから全ての弾丸が抜き取られていることを知った。


「て、てめえッッッ!!!」


 怒りに燃えた兵藤が堀田に視線を戻すと、堀田は予備ステップを終えて綺麗なフォームで今まさにフリーキックを蹴ろうとしていた。足元の、雨漏り受けのブリキのバケツ目掛けて。


 かんっ!


 抜けるような軽やかな響き。無数の雨を切り裂いて緩い放物線を描いたバケツは回転しながら兵藤の頭に吸い込まれた。


 ぐげんっ!


 どしゃっ!


 兵藤がもんどり打って倒れる。サヤカは這うようにして逃走犯から離れた。たたたっ、と短く駆け込んだ堀田は思い切り足を振りかぶったシュートの態勢で──


 ばきいっ!!!


 ──兵藤の頭を横薙ぎに蹴り抜いた。


 そしてそのまま逃走犯の体をうつぶせに裏返すと、両腕を後ろ手にして手錠を掛けた。


「……ふう」


 しゃがんだ態勢でそう息を吐いた堀田に全力でぶつかってくるものがあった。油断していた堀田は堪らずバランスを崩して、雨のアスファルトに背中から倒れこんだ。

 ぶつかって来た張本人の、ずぶ濡れのセーラー服の女子中学生は、そのまま堀田に馬乗りになると顔と言わず頭と言わず、両手それぞれで拳を作って、ぽかぽかと殴打の雨を浴びせた。


「ばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばかばか……」

「うわっこら、サヤカ、よせ! 痛い! 痛いってば!」

「弾を抜いたならそう言いなさいよ!」

「それじゃ犯人にもばれるだろ」

「本気で、本気で心配したんだから! あなたが、死んじゃうんじゃないかって……」


 そこからは声にならず、サヤカは堀田の胸に顔を埋めて泣き始めた。恐怖や安心の感情が、堰を切って溢れ出したようだった。

 びしょ濡れのアスファルトに倒れて、降る雨を浴びながら、堀田は自分の胸にすがって泣く少女を、しっかりと抱き締めた。


「バカはお前だ。サヤカ」


 雨足は弱まり始めた。雲は所々が薄くなり、夜の闇が端々に透けて見えている。


「お前を育てたご両親と、お前の弟だぞ。知ってるさ。お前が、家族のことを大好きなんだ、ってことくらい」


 サヤカは泣き続けていた。だがその嗚咽の呼吸のリズムは、緩やかになりつつあった。


「今度、一緒に御墓参りに行こう。一言謝るんだ。あの夜は酷いこと言ってごめんなさい、ってな。お前のご両親と弟なら、それできっと分かってくれる」


 一陣の風が二人を撫でた。サヤカの嗚咽は止まっていた。


「だからなぁ、自分に生きる意味がない、なんて言うな。お前が無意味だと言ったバケツも、俺が失くしたと思ってたサッカーも、今日、たった今、人の命を救ったんだぜ」


 小雨に変わった雨が、春の山里に静かに舞い降りる。森の輪郭は白く煙って、遠く街の光は淡く星のように瞬いた。


「生きてるとな、唐突に理不尽な……酷い目に会うこともある。宗教を持ってるなら、神の思し召し、みたいなことなんだろうが……多分、本当は意味なんてないんだ。理由もない。俺の足の怪我も。君の家族を襲った不幸も。誰の所為でもない。何かの罰でも、前世の因縁でもない。勿論、お前の癇癪かんしゃくの所為でもない。世の中ってのはな、残念だがランダムに確率で酷いことが起きるのさ」


 雲は益々薄くなり、月の明かりが透け始めた。雨は最早注意しなければ感じられない程に弱まり、雲の切れ間からは星が見え始めていた。


「大事なのは、その後をどう生きるかってことなんじゃないか? 考えてみろ。お前のお父さん、お母さんなら、今のお前にどんな言葉を掛けてくれるだろうか……って。それに全く同じランダムの確率で、理由のない良いことだって起きるのかも知れない。そうだろ?」

「……雨が、止んだ」


 小さくサヤカが呟いた。確かに雨は止み、雲は大半が風に流れて、夜空にはきらきらと星が瞬いている。


「だけど今夜はもう少しだけ、ここにいさせて」


 囁くように小さなサヤカの言葉。





 堀田はサヤカを、ぎゅっ、と強く抱き締めた。

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