4月17日(日) 雨

「結局、あのバケツと同じなのよ」


 夜。雨のバス停。並んで座る中学生と巡査。

 急にそう切り出したのは中学生の方だった。


「バケツ?」


 堀田はなんのことか分からず、そうオウム返しに繰り返した。

 低く呻くような遠雷の響き。どうやら雷雨になりそうだ。


「そこの、屋根の雨漏りを受けてるバケツよ」


 堀田はバス停の軒先、足元に置かれたバケツを見た。

 屋根から染みて垂れる水滴を受け、一定のリズムで、ぺてん、ぺてんと間の抜けた音を立てている。


「知ってた? そのバケツ、底に穴が開いてるのよ」


 堀田は立ち上がってバケツを覗き込む。

 なるほど確かに、バケツの底にはサビから朽ちたであろう穴がぽっかりと口を開け、受けた水滴をそのまま地面に垂れ流していた。


「意味なんてないの。存在の意味がない。飲み込んだものを垂れ流すだけ。時々変な音を立てながら」

「自分自身に、意味がない、っていうのか?」

「……」

「なんでそう思うんだ?」

「死ねば良かったのよ。あたしも……。違う。あたしだけが、死ねば良かった」

「……」


 雷光が瞬き、一瞬辺りを真昼のように照らした。

 その光に浮かび上がったサヤカの顔は大理石の彫刻のように白く、どこまでも無感情で、堀田は言葉を失って息を呑んだ。


「何があったんだ? 一体。誰かに、何か言われたのか?」

「違う違う違うッ!」


 彼女は取り乱した様子で激しくかぶりを振った。

 雨は一層激しく降り出した。稲光りは繰り返し瞬き、その度に雷鳴が轟く。


「う、う、う……」


 サヤカは頭を抱え、ベンチに腰掛けたまま、膝に顔を付けるように体を折った。

 初めて見る彼女の感情的な様子に、堀田は狼狽した。

 近づいて、きっかり二秒ためらった後、彼は彼女の背中に手を置いた。


「大丈夫か、サヤカ。何があったんだ? 今日じゃないのか? 君が家族を失くした、事故の日のことか?」


 サヤカは答えない。震える彼女は、ただただ嗚咽を漏らすだけだった。

 

 雷光。刹那の真昼。


 そのストップモーションの中で、彼女は身を翻して堀田に抱き付いた。


 雷鳴が轟き、その空気の振動がトタン板をびりびりと震わせる。


 サヤカの腕は堀田の首にしっかりと回されて、二人のシルエットはぴったりと一つに重なり合った。

「おい、サヤカ……」

「怖いの」

「……」

「雨は怖い。思い出すから! 叔父さん叔母さんはいい人。でも家の中はダメ! だから……だから私……」

「大丈夫だ。もう事故なんか起きない。誰も死なない。終わったんだ。サヤカ。君が苦しむ必要なんてないんだ」

「違うの……そうじゃないのよ。あの夜、あたし……あたしは……」


 サヤカは顔を上げて堀田を見た。

 先程までとは違い、泣きじゃくる子供のようにくしゃくしゃになった顔のその両目から、ぽろぽろ、ぽろぽろと大粒の涙が流れ落ちる。


 何かを言いかけて開いた赤い唇が、わなわなと震えてまた閉じられる。


 彼女は彼を突き飛ばすように離れると、降り頻る雨の中、傘も差さずに駆けて行った。


 主人に忘れられた赤い傘は倒れて、水溜りにその身を浸して横たわる。


 雨は止むどころか、まだ弱まる気配さえ見せなかった。



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