アイリスの魔術によって手足を拘束された状態で彩華の部屋に残されたアイネ・ウルタールは混乱していた。


「ごめんね。私にはこの拘束は解けないし、流石に君を自由にしてあげる程、警戒を解いてるわけじゃないんだ」

「いや……」


 十分解いてるだろう。そう言いたかったが、自ら警戒心を煽るような事を言う訳にもいかず、アイネはされるがままに片手を上げた。


「でも流石非科学、衣服を透過して身体の自由だけを奪うなんて凄いね。はい、もう片方もばんざーい」

「……初歩的な拘束の魔術と同じだ」


 服に袖と首を通し、感心した様子の彩華に答える。すると彩華はさらに瞳を輝かせた。


「これが初歩! 進歩した科学は魔法と変わらない、とは言うけれどまだまだその域には達していないんだね。あ、ドライヤーするけど、熱かったら言ってね?」

「っ……」


 ブォォォォと背後から当たる熱風に一瞬肩を強張らせたが、すぐにそれが心地よく感じて来る。さらに優しく櫛で梳かれれば、思わず目を細めてしまった。

 アイネ・ウルタールと天音彩華。ただいま風呂上り。なにせ思い切り水を掛けられのだから。


(……これは、既に魔術では?)


 ドライヤーと他人の櫛。アイネは初めての経験にそんな事を思ってしまう。感情を表す尻尾はゆらゆらと左右にゆっくりと揺れていた。


「アイネちゃんの髪は綺麗だね。でも少し傷みがある……さてはあまり手入れをしていないね? 勿体ない。神様もきっと綺麗な人の方が好きなんだから、こういう所にも気を配らなきゃ。ナルキッソスのように、とまで言わなくとも鏡を見て自分を磨く事を忘れちゃいけないよ」

「『クタニド』様は見目で人を判断はしない。あの方が愛するのは善良な心だ」

「誰かの為に綺麗であろうとする心は、きっと善だよ」


 通す櫛の手つきと同じく優しく、諭すような口調。彩華の言葉全てを肯定は出来なかったが、否定する気にもなれなかった。


「はいお終い……あっ、イタタっ。駄目だよ、当てすぎも良くないんだから」

「……?」


 何を言っているのか、と思うアイネは自らの尻尾がさらなるブラッシングを催促するように彩華を叩いている事に気付いていない。


「さて、言ったように私にはアイネちゃんの拘束を解いてあげられないけど、詠歌君やエリュンヒルテ様のような事をするつもりもない。……反省しました」


 小さく呟かれた反省の言葉も人ならざる耳を持つアイネには届いていたが、何の事かは分からなかった。その時はアイネも彩華を気にするどころではなかったのだ。


「だから、嫌じゃなかったらお話をしないかい?」

「……彼にも言ったように、私は司祭様や『クタニド』様を裏切り、お前たちに味方するような事は言わない」

「勿論だとも。信仰の自由が許されたこの国で、君に神を裏切らせるような事はしないよ。何でもいいんだ。君が信じる神様の事でも、君が今まで神の教えの通り、どんな善行を積んで来たのかでも。私はそれが聞きたいし、私も私の事を話したい。言ってしまえば互いの事を知って、仲良くなりたいんだ」

「……私はあなたを襲おうとしたんだぞ?」


 アイネの言葉に困ったように笑う。


「そうは言うけど、実感はないんだ。詠歌君が守ってくれたからね」

「だが事実だ。今もこの拘束がなければ私はあなたを押し退け、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを追っていただろう」

「それでも歩み寄れる可能性はあるよ。詠歌君とエリュンヒルテ様のように。同じ人間同士なら、尚更だ」

「……私が人間に見えるのか? この肉体は既に普通の人間から逸脱している。内に宿った獣性、『クタニド』様の御加護を御し切れないこの私を……お前は同じ人だと言うのか」

「君が自分を人でないと言うのなら、それを尊重しよう。でも、私の対応は変わらない。人であるなしに関わらず、君の人格は否定されないんだから」


 この人は優しすぎる。アイネの理性がそう告げる。彼女の言葉に耳を傾けてはいけないと。

 彼女の優しさは、人に成り切れず、人をやめきれない自分には甘すぎる。


「……以前、同じ事を言われた。あの人は私の異常を神の加護、神に愛された証拠だと言ってくれた。私の怒りを、信仰に変えてくれたんだ」


 それを話してどうなる。優しさにつけ込み、情に訴えるなど浅ましい。そう思っても、動く口を止める事は叶わなかった。


「だから私は『クタニド』様に信仰を捧げる。その愛に応える為に。だから私は信仰を捧げる。その愛を教えてくれたあの人に報いる為に。……『クタニド』様と司祭様は、私の全てなんだ」


 そう語るアイネを彩華は慈しむような眼差しで見守っていた。

 非科学神の愛を解明するのではなく、証明する。それが彼女たちの目的なのだから。




 ◇◆◇◆




 爆心地。そう呼んで差し支えない程度に、教会だった場所は破壊されていた。

 残された瓦礫と十字架の破片が、辛うじて此処が教会であった事を証明している。


「来たか」


 爆心地の中心。其処に立つ鎧姿の金髪の騎士。その腰には黄金色の輝きを放つ剣が携えられている。

 騎士は此方に向かって飛来する影を認識し、顔を上げた。


「……まさか、貴様が地上に堕りて来るとはな」


 騎士の正面に飛来した影――アイリスは忌々しげに騎士を睨みつけた。


「恋人にせがまれでもしたか? ……勇者エインヘリヤル、シグルズ」


 シグルズ、と呼ばれた騎士の表情は変わらない。ただ憮然とアイリスを見つめるだけだ。


「お前の行動は役割から逸脱している。宝物殿から宝を奪い、地上に堕ちては遣いの勇者エインヘリアルたちを斬り捨て、さらに対攻神話プレデター・ロアと接触。見過ごせるものではない」

「その文句は対攻神話プレデター・ロアの狂信者にあっさりと斬り捨てられた有象無象の勇者エインヘリアル共に言うんだな。そもそも奴らの報告を素直に信じたのか? はっ、どうやら奴らは余程私を亡き者にしたいらしい。自らの失態をこの私に見られたのだから、それも当然だろうがな!」

勇者エインヘリアルを斬ったのはお前ではないと?」

「ブリュンヒルテの奴の一撃がなければ、私がやっていたがな。ああ、惜しい事をしたものだ!」


 顔を覆い、笑いを耐えるアイリスだが、それもすぐに収まった。


「それで? 私をどうするつもりだ? 役割を捨てた装置は斬り捨てるか?」

吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア戦乙女ヴァルキュリアと同じ主神の子よ。お前に代わる者はいない。共に天上へと帰還せよ。オレが戦乙女ヴァルキュリアに課された使命はお前を連れ帰る事だ」


 銀のガントレットに覆われた右手を差し出し、シグルズはアイリスに迫る。


「天上に帰還か。時代と世界が違えど、貴様の帰る場所は此方であっただろうに」

「オレは戦乙女ヴァルキュリアに見定められた勇者エインヘリアル。既に地上に帰る場所はなく、お前にも此処に居場所はない。お前のあるべきは天上の荒野だ」

「いいや、否!」


 差し出された手を拒絶し、アイリスは後方に飛び退くと大仰な動作でマントを翻す。


「地上にも、天上にも、最早我が在るべき場所はない!」

「……ならば、どうする」


 拒絶された手は、腰の剣へと収まった。

 北欧神話に属する勇者エインヘリヤル、シグルズ。その名は地上にも残っている。北欧だけでなく、欧州全土で名を変えてその伝説は語られる。

 竜を屠り、その血を浴びて不死と鳥たちの言葉を解する知性を得た英雄。

 名高き名剣、グラムを携える者。戦乙女ヴァルキュリアに愛された者として。


「知れた事! 我が名の通り、主神がそう創りあげた通り、悪を為すだけだ!」


 紅と黒の魔力がアイリスの肉体から溢れ出る。あの夜、アイネとの戦いで見せた輝きよりもさらに強く、シグルズを威圧する。

 しかし、それを気にする様子もなく、静かにシグルズは剣を抜いた。


「オレはオレの役割を果たそう」


 鞘から抜き放たれた剣――グラムはアイリスが奪い、詠歌に与えた聖剣よりも厚く、巨大だった。詠歌では恐らく振る事も出来ないだろうその大剣を構え、その構えが揺らぐ事はない。


「お前を斬り捨てようと、お前を天上へと帰還させる」

「やってみろ、勇者エインヘリヤル! だが今の私は天上とは違うぞ?」


 アイリスの両手に魔力で編まれた二本の槍が出現する。

 聖剣を持つ以前、天上で多くの勇士を屠り、その悪名を響かせた吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア。彼女本来の戦闘法。


「自らの意志を捨て、役割に従うだけの勇者エインヘリヤルとは違う、真の勇士足る者を見つけたのだから!」


 開始の合図は、アイリスの手から放たれた。作り出した槍の一本を投擲し、その後を追うようにシグルズへと肉薄する。

 放たれた槍はシグルズを貫く事無く、グラムによって切り払われ、魔力は霧散した。同時にアイリスは二撃目を放つ。手にした槍による突き、しかし急所へと向かうそれも最小限の動作で払われ、その衝撃だけで二本目の槍も霧散する。


「お前ではオレに傷をつける事すら出来ん。まして地上に堕ちたお前では」


 既にアイリスの手には三本目の槍と長剣が新たに握られていた。彼女が聖剣を惜しまなかった理由はこの戦い方にある。

 魔力を束ね、それを無数の武器として扱う。本来であれば一合で霧散するような物ではないが、グラムが相手では彼女の魔力武装は余りに力不足だった。


「聖剣はどうした。アレであれば打ち合う事も出来るだろう」


 突き出された槍を躱し、柄を握りつぶす。長剣による一撃は繰り出す前にグラムによって破壊された。


吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアたる私が、聖剣など使うか!」


 ならば、とアイリスは再びマントを翻した。そのマントの内から、無数の鎖が意思を持つ蛇のようにシグルズへと殺到する。

 鎖はシグルズに辿り着く前にグラムによって払われ、霧散するが数本の鎖がグラムにまとわりついた。


「我が力はこの身に宿る魔力のみ、それだけで十分だ!」


 次に出現させたのは巨大な鎌。鎖を手繰り、その勢いと共にシグルズの首元へと迫る。


「驕るな、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア。手に入れた力ならば、それもお前の力。全力を以て挑め」


 挑発ではなかった。シグルズの言葉は本心からのものだ。全力を出し、それでも尚自らには届かないと確信している。

 それを理解しているからこそ、アイリスの表情は怒りに歪む。

 振り下ろされた鎌はあっさりとガンドレットに阻まれ、消えた。


「ほざけ! 私を――見下すなッ!」


 作り出した武装の悉くが届かず、霧散していく。アイリスとシグルズの間には歴然とした実力の差があった。

 今度はシグルズがグラムに絡まった鎖を一気に手繰り寄せた。鎖を霧散させようとするが、間に合わない。

 シグルズの必殺の間合いへと成す術もなく引き寄せられていく。


「くっ……!」


 自身に掛かる影を作る、振り上げられたグラムを見て、せめてと盾を生み出す。それが何の気休めにもならないであろう事は分かっていた。

 だが、足搔かずにはいられない。それが彼女の在り方なのだから。


「この一撃でお前と地上との繋がりを断つ」


 左手でアイリスの首を拘束し、右手のグラムが振り下ろされる。


「如何な聖剣、魔剣であっても私の意志までは断ち切れん」


 たとえそうであっても、その一撃はアイリスの肉体を両断するだろう。如何に彼女の意志が鋼であっても、それが宿る肉体は、シグルズの前に立つには脆すぎる。

 一刀の下、アイリスは呆気なくその命を散らす。それが運命。それが吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの宿命。

 ――その、はずだった。


「あぁぁぁぁぁああああああ!」


 絶叫と共に、シグルズに向かう人影があった。聖剣を携えた、アイリスの認めた勇士が。


「……!」


 その姿を認め、アイリスの瞳が見開かれる。そしてシグルズの意識が人影に向いた一瞬の隙にマントの内から無数の武装を針山のように出現させた。


「む……」


 それを避ける為にアイリスを放り投げ、すぐ背後にまで迫る聖剣を後ろ手に回したグラムで受け止める。


「アイリスッ!」


 二撃目を放つ事はせず、彼はアイリスの名を呼んだ。

 それが何を意図してのものなのか、本人にも分からない。だがアイリスはその呼び声に応えるように大地に手を着き、シグルズの周囲を覆うように鎖を大地から出現させた。鎖が出現した瞬間、彼も飛び退き、鎖の範囲から逃れる。

 そして蠢く鎖がシグルズを完全に覆い、その動きを止めたのを見てからアイリスへと駆け寄った。


「何をしに来た? もう貴様に興味はない、疾く去るがいい」


 立ち上がったアイリスは膝の土を払いながら、目を合わせずに言う。


「……僕はただ、この剣を返しに来ただけだ。こんな物、いつまでも持っていたくない」


 そして駆け寄った詠歌もまた、目を合わせようとはしない。ただ突き返すように聖剣をアイリスに差し出す。


「これは貴様にくれてやったものだ。もう私に必要ない」

「それが迷惑だって言うんだ。いなくなるならなるで、後を濁さないでくれ」

「っ、ええい、分かった。そうまで言うのならそれを置いて立ち去れ。それで今度こそ終わりだ」


 焦るような口調に、まさかと背後の鎖の繭を見た。動きを止めていたはずの鎖がキシキシと音を立てている。


「早くしろ。巻き込まれたくはないだろう」

「……いいや、まだ用がある」


 何を、と苛立ちを隠そうとしなかったアイリスの動きが止まり、同時に鎖の繭が破裂する。


「宝物殿の聖剣……人間に貸し与えていたのか」


 其処から現れたシグルズには無数の鎖で締め付けられていたにも関わらず、傷一つない。

 剣を振るう事も出来ない拘束から、単純な腕力のみで脱したのだろう。

 余りにも呆気なく脱され、詠歌は差し出していた聖剣を再び構えた。


(男の戦乙女ヴァルキュリアが居るはずもない。ならこいつは……勇者エインヘリヤル


 だが明らかにあの夜見た勇者エインヘリヤルたちとは違う。直接は勇者エインヘリヤルたちと相対していなかった詠歌ですら感じる、目の前の勇者エインヘリヤルから発せられる威圧感。これが、この男こそが真に勇士と呼ばれる者なのだろうと理解する。


「其処を退け、少年」


 敵意も殺意も向けられていない。だが気を抜けばその言葉に従ってしまいそうになる。逆らうな、と本能が訴えている。


「癪ではあるがシグルズに同意してやる。退け、人間」

「シグルズ……この人が」


 アイリスの言葉にも従わず、ただシグルズの名を聞いて納得する。北欧神話において、彼ほどの勇士は居ない。自らが感じるこの本能からの恐怖も無理からぬ事だろう、と。


「待ってくれ、僕はこの剣を返しに来た。突然斬り掛かるなんて真似をした事は謝罪します。けれど、話を聞いて下さい」

「……いいだろう。吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを庇ったとはいえ、君から悪は感じない」


 詠歌の言葉に、シグルズはグラムを下ろした。それだけで安心出来るはずもないが、剣を向け続けられるよりは幾分と威圧感が収まった。


「ありがとうございます。僕は久守詠歌。この数日間、彼女、アイリスと行動を共にしていました」


 詠歌も聖剣を下ろし、口を開く。油断なく、しかしその警戒など何の意味もない事を理解しながら。


「詠歌ッ、貴様、私を無視するな!」

「……僕は偶然、地上に堕ちた彼女と対攻神話プレデター・ロアの戦いに居合わせ、其処で彼女に命を救われた。それが原因で対攻神話プレデター・ロアから狙われる事になった僕は、彼女自身と彼女から借り受けたこの聖剣のおかげでさらに二度も命を繋ぎました」


 威圧感に震える手でアイリスを制し、言葉を続ける。


「僕にはあなたたちの事情は分からない。でも、もしもあなたが彼女を斬るというのなら、お願いです。彼女は僕の恩人なんです。……あなたには遠く及ばないけれど、アイリスは僕を勇士と呼んだ。過程はどうあれ勇士の魂を見定めるというその役割を彼女は――」

「……やめろッ!」

「ぐっ――!?」


 アイリスのマントから出現した鎖が詠歌の首を絞めつけた。息苦しさに呻きながら、アイリスの方を振り向く。

 その表情は身勝手に間に割って入った詠歌に対しての怒りに染まっている――そう思っていた。だが、違う。

 彼女の表情は怒りではない。苦虫を噛み潰したような、耐え切れない、そう言うような表情だった。


「アイッ、リス……!」

「これ以上、私に関わるなッ! 必要ないというのなら聖剣を置いて今すぐに消えろ! それも出来ぬと言うのなら、今此処で貴様をくびり殺すまでだ!」

「がっ、く……!」


 酸素を求めて喘ぎ、視界が酸欠による涙で歪む。それでも詠歌は聖剣を放しはしなかった。むしろその逆に聖剣を握り締め、自身を拘束する鎖を断ち切ろうと振り上げる。


「まだっ……話は終わってない!」


 名も知れぬ聖剣。しかしそれはグラムに劣る事のない切れ味で鎖を断ち切った。


「っ、はぁっ、はぁっ……! コレを返すのはっ、その後だ!」

「貴様に庇われて堪るものか! 最早貴様と私には何の貸し借りもなく、作るつもりもない!」

「この聖剣と同じだ! 僕が勝手にする事に、君が借りだと思う必要はない!」


 首に残る鎖を投げ捨て、聖剣を向けて言い放つとシグルズへと向き直る。


「お願いです。彼女は自分の役割を捨てた訳じゃない。地上に堕ちても、それを果たそうと――」

「ッ!」


 しかし、それをアイリスは許さない。さらに多く、シグルズを拘束したのと同数の鎖を出現させ、詠歌に向けて放つ。それは詠歌が反応できる速度を越え、仮に出来たとしてもその全てを切り払う事は叶わない。……詠歌には。


「……」


 鎖を払ったのはシグルズだった。詠歌には何が起こったのか理解出来なかった。背後から鎖が迫る事に気付いていても、伝えるべき事を彼に伝えようと目を放しはしなかった。それでも消えたとしか思えない速度だった。


「シグルズ……!」


 忌々しげにアイリスが彼の名を呼ぶ。


「勇気ある若者を欺くなど……これ以上、恥を重ねるな」


 一瞬にして詠歌とアイリスの間に入ったシグルズが冷たく言い捨てる。


「生まれついての悪性であるお前に罪過は問わない。だが、お前にも恥じ入る心があるならば」

「黙れ……っ」

「僕を、欺く……?」

「黙れ……!」


 言葉の真意を探り、詠歌はアイリスの瞳を見つめた。その瞳は、表情は、黒髪に覆われ窺い知れない。

 だがその声は怒りからなのか、震えている。


「本来の役割に戻れ、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリア

「黙れッ!」


 アイリスの叫びと共に、再度出現した鎖がシグルズの周囲に何重にも交差する。アイリスの感情に呼応するような、先程よりもより強固な拘束。

 しかしそれはシグルズを拘束する事は叶わない。攻撃も拘束の役割も果たせず、触れる前から霧散していく。

 そして鎖の間を縫うように、シグルズは突きの構えを取った。


「待っ――!」


 そこから放たれるであろう一撃を想像し、詠歌は声を上げる。だがそれが言い切られるよりも早く、再びシグルズの姿が詠歌の視界から消える。


「ッ、ぐぅ――!」


 次にシグルズの姿を認めた時には、アイリスが呻き声と共に崩れ、欠け落ちていた十字架に磔刑のように右腕をグラムによって縫い付けられていた。


「アイリス!」


 詠歌の声に反応はしないが、グラムを抜こうと暴れているのが見える。

 だがグラムを持つシグルズが何事かを呟くと、アイリスがアイネに施したものと同じ、拘束用の魔法陣が彼女の残る手足と首元を縛り上げた。

 拘束を確認した後、シグルズはグラムを抜き、鞘へと納めた。声も出せず、もがく事すら封じられたアイリスはただそれを睨みつける事しか出来ない。


「これで邪魔は入るまい。君の話を聞こう……だがその前に名乗らねばな。オレの名はシグルズ。同胞が迷惑を掛けた」


 そう言ってシグルズは詠歌に対し、目礼した。この場において、アイリス以上の上位者である彼のその対応に、詠歌は尻込みしてしまう。

 けれどこれならば、とシグルズに対する交渉に希望を見出せた。


「そしてオレも、勘違いをさせてしまった事を詫びよう」

「勘違い……?」


 シグルズは僅かに目尻を下げ、困ったようにも見える表情を見せる。


「君はオレが吸血戦姫を討ち滅ぼしに来た、そう思ったのだろう」

「ええ。……それは違うと?」

「ああ。オレに吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアを滅ぼす事は許されていない。アレは天上にとって欠かす事の出来ない存在だ」


 表情にこそ出さないが、詠歌は驚愕する。だが納得も出来た。神話として伝わっていなくとも、ブリュンヒルテや主神オーディンさえも見下したような発言をするアイリスが、天上において下位の存在であるはずもない。


「勇気ある少年よ、吸血戦姫ヴァンパイア・ヴァルキュリアの企てとはいえ、巻き込まれた君には知る権利があるだろう。アレが話さなかったのなら、オレが代わりにその責任を果たそう。無論、アレを連れ戻すというオレの役割は果たさねばならないが」


 シグルズの言葉に安堵する。交渉するまでもなく、シグルズは詠歌が望んだ通りにしてくれた。

 アイリスの命が保証され、その上で事情の説明までしてくれるなら、もう詠歌が望む事はない。残された対攻神話プレデター・ロア、アイネという懸念はあるが……不本意とはいえ彼女の弱点も知る事が出来た。完全に安心は出来なくとも、待ち望んだ日常へと戻る事が出来るだろう。


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