​華乱(四月)

​ 花見酒

 「老狼らおろう、桜を見に行こうよ」

 相棒が唐突にそんなことを言い出したおかげで、狼は汁粉しるこを盛大にまき散らした。

「……は? 一体どういう風の吹き回しだ怜乱れいらん。お前、そういうのは好かんと散々言っていたじゃないか」

「確かに言ってたけど、それより先に言うことがあるんじゃない?」

 目を丸くする狼に、怜乱と呼ばれた少年は渋い顔を向けた。狼の鼻息の被害をもろに受けて、白一色だった少年の着物はすっかり斑模様だ。

 不機嫌そうにたもとから手ぬぐいを取り出す少年に、狼はしまったと耳を寝かせた。

「すまん。こっちも使うか? それともくか?」

「お店の中で火は騒ぎになるだろうから遠慮しとくよ。それに、中途半端な火力で糖分が飴になると三倍面倒だし、自浄作用に任せる」

「そうか。しかし、なんで花見遊山なんだ? 桜なぞ山の中にいくらでも咲いていただろう」

 不機嫌顔の少年が作業するのを眺めながら、狼は改めて疑問を口にする。

「僕もここに来るまではそう思ってたんだけどね。聞くところによると、ここの桜は花が落ちてから葉が出る、ちょっと珍しい種類なんだって。何百年か前に龍鱗りゅうりんの民が東から持ち込んで、徐々に増やしていったらしいんだけど」

 少年の説明に、狼は首を傾げた。

 龍鱗というのはこの大陸の東側にある、死んだ龍の体が陸になった地だ。乾坤せかいが平面になった反動で粉々に砕け散り、今は南北の極地を結ぶ長大な列島として人々に認識されている。

 かつて何度も走り回った地を思い出して、狼は尻尾の先をゆるゆると振った。

「あぁ、確かに龍鱗の民は桜が好きだったな。細工に染め物にとあれこれ使っていた覚えがある」

「で、ここはあちらと定期的に交流があるらしいんだ。人の交流があるとそのうち住み着く人もいるだろう?」

成程なるほど、その関係で、桜も持ってきたって訳か」

 言われて思い起こせば、街中の並木は薄墨色の幹をした裸の木ばかりだった。

 確かに、あの木には見覚えがある。街道筋や堤防の上、村の広場から小さな庭の隅に至るまで。果実を実らせるわけでもない花の木が植えられているのは、龍鱗の里の特徴であった。

「しかし、多少往来に花が咲いているからと言って、上ばかり向いて歩くわけにもいかんだろう」

「まぁ、そう思うよね。けど、どうやら、龍鱗の民はお花見の習慣も一緒に持ってきたみたいなんだ」

「……ほう?」

 いつもより熱の入った怜乱の様子に、狼はゆらゆらと耳を揺らした。

 普段あまりこういうことに興味を示さない少年が、ここまで熱心に狼を誘うのはのは珍しい。

「なんでも、花の下でお酒を飲んだりして騒ぐのがあちら風らしいんだ。老狼、宿を取りづらかったのは覚えてる? あれ、わざわざ街道の向こう端から何日もかけて、花見をしに来る人が大勢いるからなんだって」

「……ほう」

 少し気を引かれて、狼は尻尾を振り回した。

 人が集まって楽しげにしているのを見るのは嫌いではない。しかし、怜乱は祭のたぐいを忌避する傾向が強かったはずだ。わざわざ人の集まっているところに出て行くと言うなら、花見以外に用があると考えるのが妥当だろう。

「街道筋はまだ二、三日かかるみたいだけど、南側の斜面の桜はもう咲き出してるらしいよ。それでね、お酒とか点心おかしも含めて、この時期しか出回らないお店がかなりあるらしいんだ」

 相棒の思惑を探ろうとしている狼とは対象的に、少年はすでに花見に行く気満々のようすだ。首をひねる狼を尻目に、少年は伝票を手に立ち上がる。

「さて、花見に行くのならお酒を仕入れてこないと。老狼、自分の点心おやつは自分で用意するんだよ。じゃ、先に行ってる」

 狼が考えている間に、少年はあっさりと出ていってしまった。


           *  *  *


「老狼」

 三分咲きの桜の中、匂いを頼りに歩いていくと、遠くから少年の声が飛んでくる。聞き慣れた涼やかな声は、花見客の喧噪けんそうの中でもよく通った。

 声がした方に目を向けると、人混みの向こうで振られる怜乱の白い手が見えた。

「や、遅かったね」

「なんだ。もっとにぎやかなところにいると思ったんだが」

 人々の喧噪から少し離れた場所で、少年は敷物を拡げていた。

 花見をするにはいささか場所が悪い、浅くすり鉢状になった窪地くぼちの底だ。そこに立っている桜は、水はけのせいか歳のせいか、花付きがいささか少ない。

 それを口にすると、怜乱は首を横に振った。

「いいのいいの。ほら、この角度で見ると、周りで騒いでる人が見えなくてちょうど良いでしょう? 第一、あんまりうるさいとゆっくりお酒が飲めないじゃない。それに」

「こんにちは」

 そっと微笑んで老狼に頭を下げたのは、白磁の徳利を手にした女だった。年の頃は二十歳過ぎ、龍鱗風の着物をまとったなかなかの美人である。

 老狼は驚いて、怜乱と女とを見比べた。

「怜乱。そっちのご婦人は知り合いか何かなのか」

「彼女? いいや、違うよ。僕が飲んでたら、手酌てじゃくも無粋だろうからっておしゃくしてくれたんだ。おかげで華やかでしょう?」

 言って怜乱は嬉しそうに隣の女に酌を求め、女はにっこり笑って徳利を傾ける。

 その親しげな様子に、狼はぽかんと口を開けた。

「なんだそれは……まあいいか。俺は老狼、おまえさんは」

 ひとしきり呆れたあとで問いかけると、女は少し考えてさくらと名乗った。

「ふうん、さくらさんて言うのか」

 怜乱が彼女を見て頷く。

「おいおい……知らずに酌をさせていたのか。それにしても、あまりこの辺りでは聞かん名だな」

「はい。父が龍鱗の人間でしたので。向こうではよくある名だそうです」

「そうなんだ。あ、僕は怜乱。よろしくね」

「こちらこそ。ところで、老狼さんもご一献いっこんいかがですか」

 一通り自己紹介を終えると、さくらは狼にも酒を勧めた。別に嫌いなわけではないので怜乱に杯を要求すると、彼は老狼には勿体ないんだけどと憎まれ口を叩きながら、瀟洒しょうしゃ玻璃はりさかずきを投げてきた。

 女に注がれた酒は、かすかに桜の香りがした。


           *  *  *


「老狼、花見に行くよ」

 もう出発するものとばかり思っていたのに、怜乱は次の日も、その次の日も狼を連れて花見に行った。

 場所を変えるのかと思えばそんなこともない。毎回同じ桜の古木の下、さくらに酌をさせながらこれといって目的のない話をする。自分ではあまり食べないくせに、あれやこれやと食べ物を仕入れてはさくらに勧めるのも常だった。

 どんな風の吹き回しだろうと思いながらも、老狼はそれにつきあった。もともと目的地が定まっている旅でもないし、人のように残り時間を気にする必要もない。ぼんやり誰かと話をするのは嫌いではなかったし、怜乱がこうも気に掛ける女が何者なのか、いささか興味があったのもある。

 もちろん、屋台で売っている甘いものがなかなかに魅力的だったせいもあったが。


 そして、十日も桜の下に通い詰めたあと。唐突に怜乱は彼女の顔をのぞき込んで聞いた。

「ねえ、さくら。明日も来た方がいい?」

 何を言い出すのかと狼は思った。

 しかし、さくらはゆっくりと首を振る。

「いいえ。……でも、もしあなたが覚えていてくださるのでしたら、いつか。もう一度、ここを訪れてはいただけませんか。きっとそのときには私もこの桜も老いさらばえてしまっているでしょうけれど、それでもよろしければ──いつか」

 さくらの言葉に、怜乱は承諾しょうだくの意を示す。真剣な顔をして頷いて、僅かに眉を寄せて桜の古木を見上げた。

 もったりと花を付けて重そうだった枝はすでに若葉に覆われ、柔らかな枝はさやさやと涼やかな音を奏でている。僅かに残った花は明日には散ってしまいそうなほどしか残っていない。

「わかった。じゃあ、もう明日は来ない。……僕がもう一度来る前に、この木が枯れているといいね」

「はい」

 さくらは怜乱の言葉に、にこりと笑って頭を下げた。

 ふわりと肩に落ちかかる髪からほのかな桜の香りがして──香りとともに彼女の姿も消えた。


 怜乱は軽く溜息をついて立ち上がる。

「……さて。一段落ついたし──そろそろとうか」

「……? あ、ああ」

 さくらが消えた後をぽかんと見つめていた狼は、狐狸にでも化かされたような顔で頷いた。敷布代わりの白い紙を片手に歩き出す相棒を、慌てて追う。

 少し離れてから振り向いたそこには、花もあらかた散り、若葉の萌えだした桜の古木が佇むばかりであった。


 ──────────────


 さて、ここからは僕が聞いた昔話だ。

 昔──と言っても百年か二百年か前の、ほんの少しだけ昔の話。

 この街の片隅に、妻を早くに亡くした男がいたという。男には、体の弱い娘が一人いた。娘は医者には十五まで保たないだろうと宣告されていたが、諦めきれない男は一縷いちるの望みにすがり、高価な薬を買い与えていた。

 しかし、看病の甲斐もなく彼女は十三の秋に息を引き取る。嘆き悲しんだ男は、娘と同じ名前の花の木を、彼女の墓標に選んだ。

 ──そして春。

 墓標のもとを訪れた男は、心なしか周囲よりも濃い色の花を付けた桜の下に、生前よりも血色の良い頬をした娘の姿を見出すのだった。

 ゆうれいでもいいから娘の顔を見たい。

 そう願っていた男は奇跡を喜び、桜のもとに足繁く通った──毎日通うことはできなかったようだけれど。

 娘は毎年花が満開になるころ現れ、花が散り終わると姿を消した。

 娘に会うために桜を訪ううち、男は娘が少しずつ成長していく事に気付く。普通の人間の何十分の一かの早さでしかない娘の成長を楽しみに、彼は毎年桜の元へと通った。

 時が過ぎ、男が死んでからも、娘は春の僅かな期間だけ現れ続けた。美しく成長した娘に何人もの男が声をかけたが、一緒に行こうという申し出には頑として首を縦に振らなかったという。

 中には無理矢理彼女を連れて行こうとした暴漢もいたようだけれど、手を引けども腰を抱けども、彼女をその場から動かすことはできなかったそうだ。

 そんなこともあり、桜下のゆうれいの噂はいつのまにか形を変えていった。


 ──曰く、昔、桜を愛する男がいた。男が愛した桜の木は、人と同じ程度の寿命しか持たないという。自分より先に枯れそうになった桜の木を案ずるあまり、男はその木の下に女をを埋めた。

 殺された女は、自分の血を吸い上げた桜が花をつける間だけこの世に舞い戻ってくるという。そして、その場から動くこともできず、恨めしげに花を見上げている──

 まるで根拠のない空言だけれど、恨み辛みの話は人の口に乗りやすい。もとの形を覆い隠して広がった噂のおかげで、その桜には誰も近寄らなくなったという。


 ところで、男は知らなかったようだけれど、西の大陸には、彼が行ったのとほとんど同じ形の呪詛じゅそがある。

 死者と同じ名前の植物を遺体の上に植えると、死者はその植物の命を糧に、現世に帰ってくる。そして、花の季節の間じゅう死者と共に飲み食いをすれば、死者は再び生を得ることができる、そんな呪詛だ。

 詳しい条件がなんなのかは知らないけれど、男が行ったことは偶然、その呪詛に似通っていたのだろう。


 中途半端に再現された呪詛の成れの果て、それが彼女だった。

 まぁ、彼女が悪いものでなく、特に人に害を及ぼさないなら、僕が手出しすることもない。


 ──それだけと言えばたったそれだけの話。


 ついでに言うと、その呪詛を思い出したらしい老狼が、僕が彼女に惚れていたんじゃないかとしばらく気にし続けたことも付け加えておこう。


  ──────【花見酒 ―樹下鬼譚―きのしたのきのはなし・華乱―・了】

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