第七話 ​ 使命果たすに過ぎたる刃

1/7 凶刃



 賑やかな往来の片隅。そう広くもない引き込み路、建物と建物の間の胡同ろじに向かって、一人の男が立ち尽くしていた。

 胡同の先に出入り口はない。だから通行人はただいそいそと先を行く。

 平然と流れる人波を背に、男は微かに震えていた。

 彼の視線の先には、一人の老人が倒れている。痩せた胸が浅い呼吸に上下しているところを見ると、辛うじて生きてはいるようだ。しかし半分開いた目の瞳孔は拡散して、意識がないことを示していた。

『──御主人様』

 男の頭の中、彼にしか聞こえない声が響く。急かすようなその声に、男は抵抗するように首を振った。

「──イヤだ」

 食いしばられた歯の間からこぼれ落ちるのはれた声だ。伏せられた顔を覆う前髪の先から、ぽたりと汗が落ちる。暦はまだ眠陽みんやんである。初春から数えてたったの三月みつきでは、気候は汗ばむにほど遠い。

 だというのに、男は額に玉の汗をびっしりと浮かべていた。まなじりが裂けそうなほどに目を見開いて、浅い呼吸を繰り返す老人を食い入るように見つめている。

 男の手にあるのは抜き身の刀だ。腕より少し長い直刀ちょくとうの、鉄に凹凸を刻んだだけの柄を、男は固く握りしめていた。震えるきっさきからは赤いものが滴っている。

 老人の血ではない。

 行き倒れ、薄汚れた身なりではあるものの、老人の身体に外傷はない。赤い染みは老人とは無関係に、地面に水玉模様を描いていた。

『御主人様。早くしないと』

 刀から伝わる振動が、再び男の体内で言葉を結ぶ。

 男はびくりと背筋を震わせて、眉間のしわを深くした。割れた爪から湧きだした赤いものが、刀の先へと伝う。

「──厭だ」

 男は震える手を押さえながら喘いだ。

 それが抵抗の証だとでも言うように、地面に描かれる水玉が増えていく。

『見殺しになさるおつもりですか?』

 責めるように重ねる声に、男はかぶりを振った。

「仕方ないじゃないか……」

 抵抗の声は弱々しい。

 男とて、この哀れな行き倒れを見殺しにしたくて忌避きひしているわけではないのだ。

 自宅へ運び介抱し、看取るだけならそうしただろう。かつての彼は、それをためらうような人間ではなかった。

 だが。

 が男に急かすのは、そんな穏やかな話ではない。

 男の震える視界には、現実には存在しないものが映っている──病み衰えた体にびっしりと絡みつく、どす黒いつたのような植物が。

 それは、刀の見せる幻影だ。刀は病魔を黒い植物に見立て、男の視界に映していた。

『御主人様』

 頭の中の声は男を呼び続ける。

 男の視界の中で、植物は老人の肺を締め上げ、心臓にまで根を伸ばしつつあった。この黒い根が心臓を覆い尽くせば、老人は死ぬ。

 はそれを責めているのだ。手段があるのにどうして行使しないのか、と。

 ──それでも。

 もうあんなことはしたくない。お願いだから、もう止めよう。

 男の唇がそんな言葉を綴るように動く。

 からからに干上がった喉や舌は音を出すことを拒んでいる。しかし男は呟くのを止めようとはしなかった。音声を介さずとも、相手に意思が伝わることは知っている。


 ねえ、お願いだから。そんなことで満足するのはしてくれ。

 君のしていることは──しようとしていることは、違うんだ。

 誰も、尽きた命数を巻き戻すことなんて望んじゃいない。だから。


 男の懇願は届かない。彼の抵抗の一切を無視して、刀を握る腕は高く持ち上げられていく。

涼清りょうせい、止めて……!」

 それが何を意味するかを知る男は、短く息を呑んだ。自分の意志とは無関係にかざされる刀に、必死の形相で抵抗しようとする。

 気付かれれば人が飛んでくるに違いない絵面だ。しかし一帯には何らかの人避けがされているようで、男の凶行を目に留めるものはいなかった。


 穏やかな日常を背に、きらめく紫刃が振り下ろされる。


「あぁ……!」

 魂の折れるような悲鳴を上げたのは、刀を握る男のほうだ。

 体の正中、鎖骨の合わさるくぼみの下に、刀は何の抵抗もなく突き立った。男の手に伝わるのは豆腐のような肉を裂き飴細工のような骨を割る、ほんの軽い感触だけだ。

 蒼白な顔から更に血の気を追い出しながら、男は勝手に動く手を押し留めようとする。

 だが、男の意志と無関係に握られた掌は、決して彼の抵抗を許そうとしない。刀は男の腕を引きずりながら、ゆっくりと老人の胸から腹を切り裂いていく。

「──涼清、お願いだから、止めて」

 既に男の声は哀願に近い。

 彼の目には、刀が幻影の蔦を断ち切る動きをしているのが見えている。

 確かにその植物を駆逐すれば、老人の病をはらうことはできるのだ。それを知らないはずがない。

 しかし、その幻覚の裏では、破壊された組織から溢れた鮮血が、地面を赤く染め上げている。土の地面にじわりと溜まり、徐々に吸い込まれていく赤い染みは既に致死量。拡散しきった瞳孔は、男をぼんやりと映すのみだ。

 それでも、老人の傷はいずれ癒える。それがどう見ても即死に値するような傷でも、いずれ癒える。──そんなことは百も承知している。

 だが、それでも。この凶行は耐え難い。


 必死の抵抗が功を奏することもなく、やがて老人はぴくりとも動かなくなった。

 ようやく解放された男は、糸が切れたようにその場に座り込んだ。己の手でずたずたに切り裂いた死体を呆然と見つめ、ぽろぽろと涙を流す。

 ──もう厭だ。誰か助けて。

 震える唇がそんな言葉を紡いでいる。それでも、彼に目を止めるものはいなかった。

 男はしばらく老人だったものを見つめていたが、やがてふらふらと立ち上がり、その場を去っていった。


 残されたのは、目を背けたくなるような死体がひとつ。

 無惨に胴を切り開かれて、紅黒あかぐろい空洞と肉を露出している。


 普通の街ならば衛士か警邏けいらが飛んでくるはずのそれはしかし、誰にも目を向けられることなくゆっくりと変貌へんぼうげていった。

 朽ち果てるのみであるはずの傷口が、じわじわと修復されていく。

 それに伴って、周りに広がっていた血の染みも小さくなっていくようだった。


             *  *  *

 

 陽が落ちる頃には、死体の傷口は完全に塞がっていた。動き出す気配はないようだったが、顔色も心なしか前よりも良くなっている。

 ほんの少し、最後まで出歩いていた人も家に帰り、床につこうかという時間。じわりと曇ってきた空から、ぼつりと雨粒が落ちてくる。

 その温度に、死体──いや、死体だった老人、は、ゆっくりと身を起こした。不思議そうに辺りを見回して首を傾げる。しかし、疑問は音を立てて降り出した雨に流される。老人は辺りに散らばった荷物を慌てて集めると、雨宿り先を探して去っていった。

 と同時に、向かいの胡同ろじの奥から動いたものがある。

 どうやら長い時間、そこにじっとしていたらしい。影は大きく伸びをしながら、通りへ滑り出してくる。それは険しい目をした小柄な少年だった。彼はすたすたと、先ほどまで老人の倒れていた場所へ近付いていく。

 真っ暗な胡同ろじになにがしかの明かりを浮かべ、少年はその場をひどく熱心に調べていた。

 やがて、彼もどこかへ去っていく。


 ついさっきまで人が死んでいたはずのその場所に、血痕一つ残っていないことを確認して。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る