5/9 人型

 嵐は去った。

 暗雲が風に吹き払われ微かな星明かりが地面に届くと、獣道の途中に人影があるのが判る。何かを抱きしめじっとうつむく姿を、霧のような光が取り巻いていた。

 ──それ・・は、人というよりもむしろ幽鬼ゆうきのようだった。

 百人に見せれば百人全てが『整っている』と評するだろうその姿はしかし、それが人かと問い直せば皆一様に首を横に振るに違いないものだ。

 この国では、白は所属のない空白──即ち、死者のまとう色、葬色そうしょくとされる。

 にもかかわらず、その人型はまとう着物のみならず、細い背中を流れ落ちる髪や肌、爪先から瞳に至るまで、全てが雪で染め上げたようにただ白かった。

 それに暦は凄嵐せいらんから隷慎れいしんに変わろうとしている。

 春から始まる十六月の、そのうち十三月を越せば時節はすでに冬も最中さなかだ。木々に残った雨は雪よりも冷たく、刃物のような風が木々を蹂躙じゅうりんしている。普通の人間なら濡れそぼったままでいれば命が危ない。

 容赦なく体温を奪っていく風に身をさらして平気な顔をしているものが、まっとうな人であろうはずがなかった。



 ────。



 人型がふいと空を見上げる。

 その仕草に誘われるように、はやし立てるような木々の声がふと途切れた。

 しんとした静寂に空気が凍る。

 凍った空気の只中で、人型はゆら・・と立ち上がった。

 その動きで、細い腕に抱かれた何かの子細が明らかになる。

 くたりと力ない動きでこぼれたのは人の腕だ。投げ出された腕にも、切り裂かれた着物から見える肌にも、大小無数の傷と傷跡が刻まれている。

 血の川が絡みつく右手には、一本の筆が握られていた。無骨な男の手には不釣り合いな、奇妙にねじれた細筆だ。繊細な穂先の形から、文字ではなく絵を描くためのものだと知れる。

 その先から、ぽたぽたと赤いものが滴っている。

 絵具ではない。

 どんな材料でも表すことのできない鮮やかな色の液体は、腕を伝う鮮血だった。

 縦一文字に深く割られた背中から、それは止めどなく流れ続けている。

 色を失いつつあるからだはもうぴくりとも動かず、鼓動を止めた肉体から離れようとする魂魄が、蛍のように周囲を漂っている。

 ──即ち。人型が抱いていたもの・・は、人間の屍体であった。

 血塗れの屍体を抱いているというのに、人型には一点の染みもない。

 その真白い人型が口を開く。

「──飛龍ふぇいろん──」

 それは男の名であった。

 人型は風のような声を唇に乗せ、ゆっくりと腕を開く。


 飛龍と呼ばれたそれは、重力に逆らうように地面から僅かに浮いていた。

 その胸元から、大量の紙がこぼれ落ちる。雪崩なだれのように止めどなくあふれる銀と白の紙片が、血に染まった地面を覆っていく。

 明らかに男の懐には収まりきらない量──何百枚、いや何千枚と滑り落ちた紙片は、ある程度遠くまで流れると端からめくれて舞い上がる。そして人型と屍体を囲むように渦を巻いた。

 その渦のただ中で、人型は辿々たどだとしい動作で膝をつき、手を上げる。男の胸の上にかざされたそれは、男女どちらともつかない人形の手だ。

 薄い唇が開かれ、美しく形作られた歯が覗く。色のない舌の動きで僅かに押し出された空気が、言葉を紡ぐ。

飛龍ふぇいろん──我が前身──解けよ」

 人型を取り巻く光が囁きに反応するように微かに明滅し、男の躯は末端から光に解けた。螺旋を描きながら魂魄の光を取り込み、人型に絡みついていく。周囲を舞う紙もそれに混じった。


 人型はひざまづいたまま身動みじろぎもしない。

 しかし変化は劇的だった。

 色を持たなかった形に、幾何いくばくかの生気と色が宿ったのだ。

 服装は相変わらず簡素なものであったが、えりや袖には色が差し、符のような装飾が地模様に浮かぶ。性別すらはっきりしなかったからだはどうにか少年と思しきものに。肌は薄いながらも本来あるべき色へ。髪は相変わらず白いままだったが、白髪というよりも雪のような銀白へと変わっていた。

 それでも、その人型は人間からかけ離れていた。纏う空気があまりにも違いすぎるのだ。

 静謐せいひつに過ぎるそれは、死者に通ずる厳格さに近い。

 しかし、瞳だけが、他の白を基調としたものとは違っていた。意思の光を溶かし込んだような、濃いとび色の瞳。人の形を持つにも関わらず人からほど遠い雰囲気を、その眼光は無理矢理生者の域へと引き戻していた。

 それでも、その形には何かが足りない。

 周りを取り巻く淡い光を反射する目は、確かに生気と意思を色濃く宿している。にもかかわらず、それは人と呼ばれるには決定的な何かが足りなかった。


 人型はどこかぼうとした視線を、中空を漂う光の玉に向ける。

 それは『飛龍ふぇいろん』と呼ばれたものの魂の断片の、最後の一つであった。

 頼りなく漂う光の玉は、その身を震わせて音をつむぐ。

「我が魂魄は血を以て名に封じる。が名は、『怜乱れいらん』。

 我が魂を継ぎ、我がいしを継げ。後は──頼んだ」

 怜乱、そう名付けられたよばれた人型は初めて目を一つしばたいた。

「──、」

 薄い唇が開きかけ、そして思い出したように息を吸い、胸の内に渦巻く空気に驚いたように動きを止める。

 しばらくそのままでいたあと、彼はまるで試すように言葉を紡いだ。

「──賜りました」

 細いがよく通る声が空気を震わせる。

 その声を聞き届け、光は力尽きたようにぼやけて散った。


 静まりかえっていた森が、再び音を取り戻す。


 

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