「ん」


 まではよかったのだが、数歩歩いたところで小さな魔力の悲鳴が聞こえた気がした。

 被ったフードの中で光る青い目、‘傲慢‘の能力の1つ、魔力感知によって聞こえたその声は確かではなかった。だが、無視するほどに急いでいるわけでもなかったため、ワンピースの裾を翻して道を戻る。


 転移でいつの間にか立っていた白い立派な壁前を通り過ぎる前に、壁の術式に目を留めて立ち止まる。

 そっと彫り込まれたそれを、袖越しのちいさな指で届く範囲だけなぞってみた。


「壁、大きいの、ね」

「是。壁に使われている素材は全て魔物よけとしての効果があるものであり、魔物たちの襲撃を避けるための高さでもあると回答します」

「この壁の術式も魔物よ、け? ……ん。違う、な」

「是。術式により結界を張っているものと考えられます。結界外では世界に電波を阻害されるため、結界内での循環を円滑に進めるためのものであると考えられると回答します」


 白い壁に彫り込まれた幾何学的な術式を青い目で見ながら、世界はいろいろ阻害しているらしいと大きくまとめて咲也子は頷くと、自分の背丈ほどもある草をかき分け足を進め始めた。

 ふらふらと時折低い木々に引っかかりつつもかき分け悲鳴が聞こえた方へと進むと、きらきら輝く赤い湖の湖畔へと出た。先ほどの悲鳴の持ち主を探しに、きょろきょろと辺りを見回す。


 しかし悲鳴の持ち主も気になるのだが、眼前の湖の色が気になって仕方ない。ほぼ引きこもりといってもいいような生活を続けていたが、少なくとも咲也子の知る湖は青かった。ゆえに、なぜ水が赤たりえるのか。思考をフル回転させて考えているものの全く分からず。‘暴食‘の情報収納によって収集した記憶のなかにも答えは、1つたりとも見つけられなかった。

 最後はキメラ12代分の知識に頼るしかないと思ったのだが


「【白紙の魔導書】「否。情報不足、匹敵する情報が検索に引っかからないため回答は見つかりません」」


 空中を浮遊する本はにべもなかった。むしろ質問する隙すら与えてはくれなかった。キメラ12代分の知識はどうなっているのか。

 そこから、ぐるりと一周あたりを見まわす。木々で周囲を囲われた水底の岩まで見えるほどに透明度の高い、赤い水で満たされた湖に。数羽の広口鳥があくびをして浮かんでいる。


 岸向こうには来た時と同じように木々が茂っているだけだ。 きらきらと風がたてる波間が陽光に輝いていて、水面下では小さな青い魚がぱしゃりと水をはねた。 のどかで穏やか、春にふさわしい景色だ。ただ一点、咲也子以外の目から見れば。


 例えば水中の青魚、例えば広口鳥。例えばその他以外の、咲也子以外すべての視線が映さないものを咲也子は見ていた。その‘怠惰‘、事実透視の能力ゆえに。


「ひ……ん」


 しかしかすれた、無意識に出てしまったようなその声を聴いたのは咲也子だけではなかったらしい。

 広口鳥は獲物と感じたのかあたりをしきりに見まわし、その波紋で青魚は逃げてしまった。それでも広口鳥は何も見つけられなかったようで、器用に首を捻っていた。

 咲也子は、少し離れた浅瀬を。そのただ一点だけを見つめて、足を踏み出した。


 うさぎに似た耳はところどころ欠け、竜らしい尾のうろこもぼろぼろ。独特な模様の描かれた3枚の鋭い尾先も力なく垂れ下がっていて。頭の長い毛が血と泥を絡ませ、顔や首元の桃色の毛並を覆っている。前足はヒレになっていて、全体的に猫に近い生き物は。しかし、その明確に汚い毛並みの切れ目から薄桃色にも点滅する青い目がのぞいている。魔物だった。


『目が青くなる』それはこの世界にとっての『加護持ち』の証だ。魔物に与えられることは珍しいが。気づかれないほどに周囲に溶け込むのなら、間違いなく‘虚飾‘の加護による認識齟齬にんしきそごに他ならない。


「蔽いつくしてるんだ、な」


 体をぐったりと横たえながらも血すらにじむ耳は必死に周囲の音を拾っているのだろう、よく動いていた。咲也子の声に敵が近くまで迫っていると感じたのか、逃げようともがく前足のひれも、うろこがはがれかけた尾も力足りず、その身を動かすまでには至らない。

 それでも必死に全身を動かすさまは、いっそ哀れに近かった。

 

 広く赤い湖で、先ほどまで感じていた春の陽気が、どこか遠いもののように感じる。広口鳥はめぼしいものが見つけられないと悟ると飛び去ってしまった。

 いまここにいるのは咲也子とこの生き物で。


「大丈夫、だ」


 小さく呟きながら距離をつめる。

 衣ずれややわらかい草を踏む音、足を運ぶ振動にすら怯えて、水をかく尾の動きが激しくなる。そうすると水しぶきが起こり、もう‘虚飾‘で溶け込もうとすることに意味なんてなかった。それでもただ、逃げるためだけにもがいていた獣は 。


「痛いよ、な」

 

 もう目を開けるとすらできず疲弊しきった生き物は、服の袖越しに触れてくる小さな手にすべてをあきらめたのだった。

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