紫荘の人々
中野あお
プロローグ
見守る人
「運ぶ荷物は以上でよろしいですかね。」
引っ越し屋の兄ちゃんが私に問いかける。
「それだけです。あとは自分で運びます。」
学部の一回生の頃から六年間過ごしたこのアパート、それも今日で見納めだと思うと何だかさみしい気もする。今後も通りかかることがあるかもしれないので、正しく言うならば住人として見るのが今日で最後。
住み始めた頃は、新築で真新しかったこの建物が少し古くなってきたことに時の流れを感じ、自分が社会人になってしまう事に驚く。
ついこの間、家を飛び出し大学生としての生活を始めたばかりだと思っていたら、すぐに大学生活が終わってしまったように感じる。
この六年間にいろいろなことがあった、ありすぎた。アパートの住人も毎年変わり、その度に、静かにも、騒がしくもなった。変なことが起こりすぎたこともあったが、それでもこのアパートに学生の間ずっと住んでいて不満はなかった。
それもこれもこのアパートならではだろうし、ここの大家と関わっていたから知れたことも多かっただろう。
今時、大家がいて、その人物が住み込みで管理しているなんてアパートがどれだけあるのかは知らないが、少なくとも、あんなに世話焼きで明るい大家は日本中探してもなかなかいないのではないだろうか。
その大家の存在こそが私がこのアパートに愛着を持っている理由の一つでもある。
「なんだ、
私の考えが漏れていたのか、
「さみしくないといえば嘘になりますね。住民第一号だったこともあってよくしてもらいましたし。日常的に 相談に乗ってもらったり、愚痴を聞いてもらったりと、烏さんには何かとお世話になりましたね。」
「まあ、このアパートができた頃からの付き合いだしな。なんだかんだで、一番話してたのも源さんだしさ。見送ることに慣れてきたと言っても、やっぱり飲み友達が減ってしまうのは悲しいわ。」
「就職で引っ越すといっても、これからも割と近所には住んでますし、ここからそんなに離れてもないですから、誘っていただければ週末ならこちらに来ますよ。」
「そういえば勤務先も遠くないって言ってたな。学生以外も受け入れることにしてたら引っ越す手間かけさせることもなかったかもな。私の権限ではどうすることもできない契約条件だから無理なんだけどな。でも、京都にいるなら毎週呼ぶかもしれないな。源さんも私と飲みたいだろ。」
「一応務め人になりますから毎週というのはさすがに厳しいとは思いますが、平穏に飲ませてくれるなら今後も飲みたいですね。」
烏さんと酒を飲む時間は一回生の当初から楽しいものだった。いや、最初はあまりお酒が好きではなかったからそういうと嘘になるかもしれない。
烏さんは酔うと、この紫荘の住人の話をしてくれる。時には私の引っ越してきた頃の話、また、時には私が会ったことすらない下の階の住人の話などを、プライバシーという概念が欠如したように話し出す。そのせいで、このアパートの住人のことは、大概知ってしまっている。他の住人らには申し訳ないとは思っている。
もし、この人が大家でなかったら、私の学生生活はもう少し静かだったのではないかとは思う。いや、結局、静かで穏やかな学生生活ではあったから、これ以上静かでは困る。騒がしい学生生活を望んでいたのだから。
「そうだ。源さん、時間あるなら今からでも飲まないか。」
「少し早い気もしますが、今日に限っては良い提案ですね。私はもう引っ越しの準備終わってるので大丈夫ですよ。烏さんの仕事がまたほったらかしになりますが。」
「気にしなくていいって、何かあったら電話かかってくるだろ。まあ、実際の所、夜まで仕事持ち込むほどはさぼってないんだけどな。」
性格的には管理人とか大家とはかけ離れて入るものの、このアパートではそんな大した問題はおこらないし、少しの問題ならパパっと解決できる程度にはこの人は有能なのだ。
それでも、ここまで問題が起きないのは大学のレベルというよりも住人が良い人ばかりだからなのかもしれない。あり得ない話だがアパートの住人に関しても入居前の段階で不動産屋に問題を起こさないような人なのか確認してもらっていると言われても信じてしまいそうだ。
「それにしても相変わらず、大家として大丈夫なのか心配になる発言ですね。」
本当に心配しているわけではない。むしろ、安心している。
「いいんだよ。私はこういう性格で大家として慕われてるんだからそれでいいんだよ。とりあえず、いつも通り源さんの部屋でいい?」
「私の部屋、寝具以外の物をほとんど運び出してしまってお酒どころか冷蔵庫もないですし、烏さんの部屋でいいですか。お酒は今から何か買いに行ってきますので。」
「あぁ、私の部屋でいいよ。それなら誰か来ても大家として対応できるし。あと、最後なんだから酒くらい私の部屋にあるのを好きに飲もうさ。源さんと飲むために買った酒がまだ大量にあるしさ。とりあえず、干してる下着だけ片付けてくるから五分待ってくれ。」
相も変わらず、女性らしさのないことを言うと、烏さんは一階へと下りていった。
そして、あの様子からすると、今夜は部屋に返してもらえるかわからないな、という不安がよぎったが、最後なので諦るしかない。何がともあれ、今日で最後なのだから。
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