第28話「応酬」

「ちょっとなに何、何なの!」

「――黙れ」

 声と目で凄まれ、楓花は反射的に両手で口を押さえて動きを止めた。子どものころからずっと、そうしてきたように。

 ただごとでないことは、その目と声、何よりこの状況で分かる。だけど鼓動が激しいのは、戸惑いや恐怖なんかじゃない――琉樹の顔がすぐ目の前にある。楓花は彼に抱きかかえられていた。

 心臓がうるさい。頬が自分でもわかるくらい上気している。気づかれたらどうしようと思うほど、いっそう身体が熱くなった。

 そこで席を立った志均と目が合って――息が止まる。だけど取り繕う暇もないくらい、彼は性急に身を返して、階段の降り口に立った。 

 琉樹は楓花を抱きかかえたまま大股で自分の席に戻った――と思ったら、楓花を欄干の向こう側に下ろした。「そこに隠れてろ」言われて、楓花は慌ててその場にしゃがみこむ。

「いいか、絶対声を出すな。そして動くな――珪成、小妹についてろ」

「分かりました!」

 言うなり、珪成がひらりと欄干を越えてきた。そうして楓花の隣に座ると、

「僕がいるから大丈夫です!」

 訳が分からないだろうに、珪成は力強くそう言って、頼もしい笑顔を見せた。

 欄干越し、陶器の重なる音がする。琉樹が茶碗を片付けているのだ。二人の痕跡を消そうとしているのは明らかだ。

 音が止んだ。そのとき。 

「やあ、久しぶりだ」


 ――この声!


 火照っていた心身にいきなり氷水がぶちまけられたようだ。急激に熱が引いた――どころか、身体が小刻みに震えた。どんなときでも、どんなところでも、いつも片隅に付きまとっていた悪夢が一気に引きずり出される。あの、身を切るような極寒の、真っ暗な夜――込み上げるものをどうにかしてこらえようと、楓花は両手で固く口を押さえる。


 すっと目の前に手が伸びてきた。


 見上げるとそこに、欄干に背を預けて立つ琉樹がいた。

 肩越し僅かに振り返り、欄干越し、何気ない感じで投げ出された自身の指先に目を投げる。楓花はうなだれるようにに頷き、その指を握った。懐かしい温もり――泣きたくなった。


「これはこれは。一体何用でこんなところに。永寧みやこからわざわざ」

 志均の声が低く響く。吐き捨てるような口調が、招かれざる客の到来をはっきりと告げている。

「何故そんなところに突っ立ってる。まさか、わざわざ永寧から訪ねてきてやったこの俺を、立たせたままでいるつもりか」

「ああ、お疲れなんですね。でしたらその場にお座りいただいても」

「そこに椅子があるじゃないか」

「では下に席をご用意します」

「おい、ここは我が家の別邸だぞ。家のものを使うのに、誰の許可が必要だ? 厄介者の分際で俺に指図する気か。そこをどけ」

「――春とはいえまだ風は涼しい。石の椅子も冷えておりますし、遠路遥々いらしてお疲れの身を案じての言葉でしたが『指図』とは……。相変わらずでいらっしゃる。そんなにこちらがよろしければ、どうぞ」

 志均はそう言って、つい先ほどまで自分が座っていた席を示した。そうして自分はその隣、先ほどまで楓花が座っていた席に腰を下ろす。

 来訪者は「ああ難儀だった」などと言いながら、示された席に座る。そうして志均に身体ごと向き直ると、

「元気そうだな、宇。医術で随分と稼いでいるそうじゃないか」

「おかげさまで」

 あざなを呼ぶのが普通であるのに、その本名を知り、それで志均を呼ぶあたり、彼が志均の目上であることは明らかであった。

「相変わらず要領のいいことだ。まあ、幼少時の悪癖が活きたということだな。虫だの鳥だの猫だの、何が楽しいんだかと呆れるくらいに解体しまくっていたからな」

 そう、意地の悪い笑みを薄い口元に刻む相手に、志均はうっすらと笑い、

「ああ、そんなこともありましたね。――ところで何か御用ですか?」

「いや、間もなく合格発表だからな。発表後は忙しくなるだろうから、今、諸々の雑事を片付けていてな。所用で楽南ここに来て、ふとおまえのことを思い出したのだ。どうしたものかなと」

「ようやく国子監で得解されたのですね。それはよろしゅうございました。そうですね、発表後はまた勉学に励まなければならないでしょうから、今のうちに羽を伸ばしておこうというわけなのですね、なるほど」

 国子監とは、三品以上の高級官吏の子弟が通うことのできる国立学校のこと。学内試験に合格すると永寧で行われる科挙の本試験の受験資格を得ることできる(これを得解という)。国子監に行くことのできない者は地方の予備試験に合格しなければ得解できず、それに比べれば国子監での得解は比較的容易だとされた。

 男はわざとらしい咳払いを繰り返し


「おや?」


 そこでやっと、目の前に立つ人物に気づいたとばかり声を上げた。

「――おまえは」

 思案声のあとしばしの沈黙。楓花は思わず強く手を握った。するとほんの少しだけ、力を込めて握り返された。

 やがて男は思い出したと声を漏らし、

「どこかで見た顔だと思ったら。そうだ確か、おまえは――」


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