雲居の月

なだ

 持ちかけたのは、むしろしなの方だった。彼女は静かに微笑を湛えて、夫を手招く。

「どうした」

紅華くれはな様の体力が限界にございます。これ以上、憔悴してゆく妃のお姿を黙って見過ごすわけにはいきませぬ」

 紅華は、このところ水を口にするのも苦労していた。彼女が限界に近いのは、供の誰もが危惧していたことである。

 故に科が言外に含んだものを悟るにはそれで充分だった。灘は気負いもせずに、肩を竦める。

「俺は構わないが、科がいなくなった時の紅華様のご心労は測りかねん」

「たとえ心に支障をきたそうと、少なくとも一夜はゆるりと身体を休めることはできましょう」

 もしもの時は同仁どうじん殿が力ずくでも眠らせてくださるはず、と科は灘を見上げて同意を求める。

「わたくしは、紅華様の影にございますれば」

 口の端を上げた科の顔は、誇りに満ちていた。「ただ」と彼女は灘の右腕に手を添える。

「あなたを巻き込むこと、申し訳なく思います」

「なんの。戦場でも病でも、独りでぽっくりあの世へ行くのは、心細いと常々思っていた。科がいるなら心強い」

「まぁ、なんと頼りがいのない」

 科はくすくすと打ち笑う。引き寄せた妻の頭を、灘は胸に抱き寄せた。

「震えるな」

 ふと微笑をとり零して、額を押し当てた科は目を閉じる。

「目の前で無残に切り刻まれる灘を見るのは、やはり、とても、恐ろしい」

「つい最近まで、“くたばれ”と思っていたくせによく言う」

「あら。ご存知でしたか」

「科」

「はい」

「同仁には、俺から言っておくから、紅華様には間際まで知らせるな」

 あとは、と灘はからりと言った。

「実己がうるさそうだなぁー」

「確かに」

「いいか、科。逃げられるところまでは逃げるぞ。じゃないと、怒られる」

 科は可笑しそうに顔をあげる。元よりそのつもりで、と彼女は首肯した。



 一行の姿が芥子粒ほども見えなくなって、灘は「さてと」と息を吐いた。

「見たか、科。実己の奴こーんな顔をしておった」

 灘は己が顔を挟んだ両手を下に押し下げる。皮膚ごと引き下がった顔は、何とも情けなく珍妙だ。

 科は鈴のようにころころと澄んだ音色で笑い転げる。

「またそのようなことを。弟のように可愛がっておいででしょうに」

「まっこと。阿呆ほど可愛いとはよく言ったものだな。あれほどむさくるしいのはないと言うに」

 遠くに立ち上がり始めた砂塵。こちらの存在に感づかれるまで、もうわずかだろう。

「では、行きますかね。我が妃殿」

 灘はひらりと馬にまたがり、手を差し出した。添え重ねられた己とは異なる者の手。彼はそれを握って、科を馬上へと引き上げる。

 彼らは、一度互いを見合うと、どちらともなくいたずらめいた笑みを浮かべた。

 そうして二人は、矢を射かけてくる追っ手と着かず離れず、元の行き先とは逆の方向へと駆けて行った。

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