第64話その後のカレー曜日は週二回

それから火曜と木曜の“研修”は楽しくて仕方が無くなった。


今まで全く気付かなかったが、彼女とは毎回顔を合わせるようになっていた。


彼女は必ず、10:47にブーツの小気味の良いコツコツコツという音と共に現れた。

教習開始のきっかり3分前だ。


わずか3分の間に、運転の邪魔にならないように、髪を後ろに束ね

前髪を左右に振り分けピンで止め

仕上げに、ブーツを脱ぎ、スニーカーへと履き替えた。



この一連の動作は全く一緒なんだけれど見ていて全く飽きることはなかった。



一度くらい声をかけてみようかとも思ったが、

何て声をかければいいのかわからなかった。

「今何段階なんですか?」とでも言えばよかったのかもしれない。


免許取得という同じ目的を持った人間の間で

初めて交わされる会話としては極々当たり障りの無い、普通の会話だ。


教本やあるいは、教習生への注意事項みたいな冊子に書いてあってもおかしくない。


教習所内での出会いは大切です。

すこしでも気になる異性を見付けたなら積極的に声をかけてみましょう。

その際、いきなり年齢や素性を尋ねるような野暮な会話は禁物です。

まずは、お互い運転免許取得という共通の目的を持った者同士

当たり障りの無い会話が適切です。

相手の教習の進捗具合を伺ってみる等がその一例です。



しかし、僕にとって彼女の教習の進捗具合なんてどうでもよかったのだ。


何故、大型免許を取得しようと決意したのか?

年齢は一体何歳なのか?

住んでいる所はここから近いのか?

連絡先は?


それ以外のことには全く興味が無かった。

まず聞いてみたいのは、以上4点に絞られていた。


しかし彼女はいつも、教習開始のわずか3分前に現れ

運転の邪魔にならないように、髪を後ろに束ね

前髪を左右に振り分けピンで止め

仕上げに、ブーツを脱ぎ、スニーカーへと履き替えた。


全く付け入る隙は無かった。

ましてや気の弱い僕にとって、取っ掛かりを作るのは至難の業だった。

不思議なことに教習後に彼女を見かけることは全く無かった。


出発点は、同じ場所だが教習を終え帰着する場所は全く別の場所らしかった。

毎回教習が終わった後、校内を探してみたが見付けられなかったのだ。




彼女の存在に気付いてから4回目の“研修”だっただろうか、

その日は雨のせいでキャンセルが相次いだらしく、

いつもなら10人は居る待合室が僕含め4人だけだった。

それでも僕は彼女がものと現れると思い込んでいた。

10:47にブーツの音は鳴り響くはずだった。鳴り響かなければならないのだ。

僕はいつものように、ベンチに深々と腰掛け念入りに時計を見つめ

耳を澄ませ腹式呼吸までしながらその時を待った。


僕の左腕で金色のアンティークのRADO GORNERが刻むのは、標準時と5秒以内の誤差さえまずない。

秒針が10:46:30を回った。僕の胸が自然と高鳴る。


10:46:45…

10:47:00…

10:47:15…

10:47:30……



30秒回ったところで僕はよやく気付いた。

そうか、雨が降ったというだけでこれだけキャンセルルが相次ぐなら

彼女もその例に漏れず、キャンセルしていても何の不思議は無い、と…。

自分の馬鹿さ加減を認識させられたのと、彼女は今日は来ないという二重のショックで

自己嫌悪に陥りそうになった。腹式呼吸が深いため息に変わっていた。

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