第五章 恋と友情の鎖

19.心配する者される者

週明けの月曜日。なんてことない一日に、しかし確実な違和を芹香は感じ取っていた。

三王子仲間の玲音の機嫌が妙に悪い。彼が機嫌を損ねること自体はそう珍しいことではないが、それが一日中続くとやはり気になるのだ。放課になってすぐどうしたのかと聞いたが、「なんでもない」と一言で話を終わらせられてしまった。

もうひとり、大切な女友達である真愛の様子もいつもと違う。常に仏頂面だった玲音と違い、彼女の異変は分かりにくかったが、それでもふとした瞬間に悲しげな表情を見せていた。

友人二人の顔を浮かべながら、放送室の椅子に寄りかかる。そのままの格好で天井を見上げた。


「喧嘩でもしたのかな?」


ぼんやりと呟いた。部屋にひとり、誰に聞かれているはずもない――と、芹香は思い込んでいた。


「――それは貴女にとって好都合なのでは?」


すぐ後ろから、聞き慣れない男の声が耳に届く。

神経が逆立ち、反射的に椅子から飛びのいて臨戦態勢をとった。芹香が座っていた椅子のすぐ後ろに、見た事のない格好をした男が立っていたのだ。玲音や優と張るほどの、恐ろしく整った美形の男。腰まである、人間には珍しい真っ赤な髪、頭部に生える角。


(悪魔だ!)


すぐさまそう感じ取った。


「俺は貴女の秘密を二つ知っている」

「は?」

「恋と友情のどちらを取るか、悩んでいるのだろう?」


カッと芹香の顔が朱に染まる。その顔を見れば、誰も芹香を男と思ったりしないだろう。


「なに言ってんだ!」


精一杯の虚勢を張る芹香を気に留めず、悪魔は続きを話す。


「俺に協力しろ。そうすれば」

「断る!」相手に最後まで言わせなかった。「うちは確かに悩んでるけど、それでも悪魔に頼るほど腐ってないからな!」


揺さぶられた心を立てなおそうと、声を張り上げ否定した。勇敢にも、悪魔に対して軽蔑のまなざしを送る。


「本当に貴女は腐っていないのか?」

「なに言って……」

「俺は貴女の秘密を二つ知っていると言っただろう」


瞬きを一回している間にスーッと近づいてきた悪魔に、反応できるはずもない。固まったままの芹香の耳元に口を寄せ、悪魔はそっと囁いた。


「貴女が人間を裏切り、悪魔に手を貸したことを、俺は知っているよ」


生の心臓を握りつぶされたように、呼吸が止まる。

誰にも知られたくないと思っていたことをなぜ、赤の他人であるこの悪魔が知っている?

すべて終わったことだと思っていたのに、悪魔によって罪の意識が呼び起され、勇気や意志、理性を打ち砕いていく。

目だけ動かし悪魔を見ると、彼は大変愉快気に笑った。


「もう一度言う。――俺に協力しろ」



☆ ☆ ☆



照りつける日射しが日増しに凶暴性を帯びていき、本格的な夏がすぐそこまで来ていることを感じさせる。衣替え後しばらくはブレザーやカーディガンを羽織る生徒がちらほらいたが、今はもう見かけることがない。真愛も他の生徒同様、ブラウスの上に綿のベストと夏用スカートという装いに変えていた。

季節は着実に移り変わっていくが、真愛と玲音の関係に変化はなく、もう一週間以上玲音と口をきいていない。こんなに長く彼と口をきかなかったことは長期休暇中を除いて、今までになかったことだ。同じ学校、同じ教室。同じ空間を共有しているのに、距離が遠い。

関係が険悪になった最初の頃こそ不機嫌な様子の玲音だったが、今では普通に談笑しているのを真愛はよく見掛けていた。玲音が笑っているのを見ては話しかけに行こうとするが、彼は真愛の姿を視界に入れるとあからさまに態度を硬化させる。時間が経てば経つほど気まずくなっていくのは分かりきっているのに、玲音の近づくなと威嚇するような瞳に睨まれると、真愛の中の勇気がしぼんでしまって行動できなってしまう。

しかし、そんな言い訳を続けてはいられない事態が三王子の周りで起こっていた。

優のファンはほとんどが女子。芹香のファンはやや男子多めで女子もそれなり。玲音のファンは男女半々。それが、三王子の勢力図だったのだが……。


「足りない」


疲れと落胆を感じさせてそう言ったのは、空き教室で休憩中だった優だ。声から滲み出る疲労と、長い脚を優雅に組んで椅子に座る姿には大きなギャップがある。

澄まし顔の優を眺めて、どうしてこの男と二人でいるのかと不本意に思い、真愛は腕を組んで首を傾げた。

正確には二人きりではなく、もう一人、フィードがいることにはいるのだ。三王子のファン層の変化をフィードに話したところ、調査すると張り切って付いて来た。と、そこまでは良かったのだが、久々の学校に疲れてしまったらしく、今は紙袋の中で眠っている。

久しぶりにフィードを連れていたのを目ざとく見つけた優によって、真愛は教室に引っ張り込まれ、その上フィードが眠っていることに対する不満をごちられるという迷惑かつ理不尽な目にあった。

優が憂いを帯びた顔をして息を吐く。


「女子が、足りない」

「……もう少し言葉を選んで」


顔に似合わない言葉に慣れたとはいえ、今のは聞き逃せない。いくらなんでも学園の王子様がそんなことを言ったら幻滅必至だ。それは優自身分かっているようで、他の生徒には隠し通している。それなら自分にも隠していて欲しかったと真愛は思うのだった。


「……女が欲しい」

「悪化した!」


ここまで来たら上履きでも投げつけて、己の言葉を自覚させてやった方が親切かもしれない。

とはいえ文句のひとつも言いたくなる優の気持ちも、分からなくはない。


「最近変わったもんね」


今まで女子に囲まれるのが常で、それに喜びを感じていた優が、なぜだかここ数日は男子生徒に囲まれることが増えたのだ。傍目でそう感じるのだから、当事者である優にはもっと大きな変化に感じるはずだ。一応笑顔を貼り付けて対応しているが、少し引きつっているし腰も引けていた。

その様子を思い出してふふふと低く笑う真愛の頬を、優がつねった。


「笑うな。不愉快だ」

「ひぃふふぃん!」


「理不尽」と言うつもりが、頬を摘ままれてるせいで口の端から息が漏れ、気の抜けた言葉しか発せない。


「すごく馬鹿にされている気がしたから」


(……エスパーか)


心の中で面白がっていたのだから反論できない。

再びニヤケそうになるのを押さえるために、意識を別の人物へ移す。優以外の二人の様子も思い返した。

芹香は優ほど露骨な勢力変化ではなかったが、それでも男子が減って女子が増えていると言っていた。男女ともに人気だった玲音は、今ではほとんどのファンが女子になっている。

そう、それが今真愛を一番悩ませている問題だ。

ここ数日、玲音は女子生徒と一緒にいることが格段に増え、そんな姿を見たくないのに目に入ってしまう。女子生徒に囲まれ黄色い声を浴びる玲音が脳裏に浮かんだ瞬間、止めようと意識する間もなく溜め息が出た。


「玲音のこと考えてるの?」

「だからエスパーか!」


今度は声に出していた。

脚を左右組み直し、優は表情を変えないままで真愛の顔を覗き込むように見やる。


「真愛は分かりやすいよ。そんな悩ましげな表情してるんだから、原因は玲音しかないでしょ」


グレーの瞳にまっすぐ射抜かれた真愛は、顔に手を当て首を捻る。そんなに分かりやすい表情だろうか。


「結構長いこと話してないみたいだけど、玲音と喧嘩したの? 芹香も心配してたけど」

「喧嘩っていうか……喧嘩なのかな?」

「僕に聞かれても分からないよ。でも玲音の方もピリピリしてたし、仲直りしたいんじゃないかな」

「本当にそう思う?」


最近話せていないことと玲音の態度が自信を削ぎ、考えがネガティブな方に引きずられがちになってしまった真愛は、優の言葉にすがるように問い返していた。


「玲音は真愛を大切に思ってるからね。ちょっとやそっとのことで嫌いになるはずもない。何があったか詳しくは知らないけど、玲音はまた君と普通に話したいと思ってるはずだよ」

「……」


真剣に後押しの言葉を言ってくれる優を、真愛はただじっと見つめ返した。頭の中で「良かった」と「本当?」がせめぎ合って揺れている。優の後押しを受けてなお、完全に前向きになるには至らなかった。


「玲音が」


再び優が口を開く。


「真愛を大切に思っていることは、本人である君が一番よく知ってるよね」

「……」

「他人である僕にも分かるくらいなんだから、真愛が気付いてないなんてあり得ないと思うけど」


どこか責められている様な気がして、真愛は視線を逸らした。

優の言う通り、幼い時から時間を共にしてきた真愛は自分が玲音に好ましく思われていることは知っていた。


(でも……)


それは今までのこと。今回の一件が きっかけで嫌われてしまっているかもしれない。他の誰かといる時は普通にしていて、けれど真愛が近づくと拒否するように態度を変える玲音を目の当たりにすると、そうした不安が一層強くなる。


「嫌われるようなことをした自覚でもあるの?」

「え……」


煮え切らない真愛に焦れた優がそう問うた。無意識に目を逸らしていた現実を否応なく突きつけられる。

ことの始まりは、フィードを追い出せと迫る玲音を真愛が拒否したことだ。


(じゃあ……フィードを追い出せば良かったの?)


それは違う。悪魔だがフィードは約束を違えることなく、真愛たちを守ってくれている。彼を追い出す理由が真愛には見当たらない。


「……どうすれば良かったのかな?」


自分の選択に後悔はない。だからこそ玲音に謝ることができなかった。

こちら側からは埋めることのできない溝を抱えて、真愛は身動きが取れなくなっていた。

――嫌いだ。

大好きな玲音が、冷めた顔で、嫌悪の瞳で、拒絶の言葉を吐き捨てる。……しなくてもいい想像をしてしまった。

目頭がカッと熱くなって、その熱を実感した時にはもう雫が流れていた。

突然泣き出した真愛に、優は焦りの表情を浮かべハンカチを差し出した。


「ごめん、なにか傷つけるようなこと言った?」

「ち、違……、根岸くんは悪くない」


悪いのは自分自身だ。ハンカチを借りる資格もない。差し出されたハンカチを固辞し、袖で涙を拭う。


「驚かせて、ごめん。なんでもないかんんっ!」


言い終える前に、顔に何かが押し付けられる。その何かが優のハンカチであると認識できたのは、手では拭い切れなかった涙を綺麗にふき取っていった後だった。


「なにするのっ?」

「なんでもないわけがないでしょ」

「根岸くん? え……」


――ギュッ。

拒絶する間もなく、真愛は優に抱きしめられていた。

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