波の柱

 一段と強い風が吹いてきました。飛ばされないように雲にしがみついているだけで精一杯な状況です。

 雷太郎君はもう一度稲光先生たちを見ました。表面の雲がすべて飛ばされて、体の半分以上が外に出ています。それでもよっぽど疲れているのかまるで石のように目を閉じたままです。このままでは飛ばされてしまうかもしれません。


「駄目だ、放っておけない。二人を起こさないと」


 雷太郎君は雷次郎君を抱かえたまま二人の方へ動こうとしました。その時、再び強い風が雷太郎君に吹きつけてきました。


  ブオオオオー!


「兄ちゃん!」

「しまった!」


 雷太郎君が左腕に力を入れた時にはもう手遅れでした。猛烈な風が雷太郎君の腕の中から雷次郎君を奪い取ると、空高く吹き上げたのです。


「じろおー!」

「にいちゃーん!」


 雷太郎君は雷次郎君を助けるために立ち上がろうとしました。しかし吹き荒れる風の中でそんなことをすれば、自分の体まで飛ばされてしまいそうです。雷太郎君は雲の上に這いつくばったまま悔しそうにつぶやきました。


「次郎……」


 雷太郎君は自分自身を本当に情けなく思いました。雷次郎君を守ってやれなかった自分。助けることもできず、こうやって雲を掴んでいるだけの自分、そんな自分がとても腹立たしく思われました。風と雨はまるで雷太郎君を打ちすえるかのように激しく襲いかかってきます。


「これ、どこへ行く」


 遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきました。雷太郎君は顔を上げました。もう辺りはずいぶん暗くなっています。その中に何かうっすらと光るものが見えます。誰か立っているようです。


「動くなと言ったのにのう。まったく」

「い、稲光先生!」


 それは稲光先生でした。稲光先生は薄暗い残照の中、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてきます。左腕には雷次郎君を抱えています。


「先生、いつの間に」


 雷太郎君は自分の目がまだ信じられませんでした。確かについ先ほどまでは石像のように眠っていたのです。いったいいつ目を覚まして飛ばされた雷次郎君を捕まえたのでしょうか。


「おお、太郎か。情けないのう、これしきの風に次郎を持って行かれるとは。まだまだ修業が足りんぞ」


 稲光先生はまるで風など吹いていないかのように、平気な顔をしてこちらへ歩いてきます。稲光先生の腕の中では雷次郎君がぐったりしています。気でも失っているのでしょうか。


「先生、私たちは少し眠りすぎたようですよ」


 雷太郎君の後で声がしました。振り向くと光太さんが立っています。


「こ、光太さん」


 雷太郎君はまた驚きました。光太さんもすでに起きていたのです。


「うむ。確かに起きるのが遅かったかもしれん。しかしこれからの仕事など容易いものだからな」


 稲光先生は雷太郎君の横を通り過ぎて光太さんに近づくと、雷次郎君を抱えたままそのすぐ前に立ちました。


「それにしても地上の雷は大したものですね。これほどの風を起こせるとは。これはもう合格間違いなしでしょう、先生」

「いやいや、雷の道を作るまでは分からんぞ」


 雷太郎君は吹いて来る雨や風と戦いながら、必死で雲にかじりついていました。それなのに光太さんも稲光先生も、雨や風など吹いていないかのように平然と立って話をしているのです。


「凄いや、二人とも。ボクなんか、まだまだ……」


 雷太郎君は雲の上に這いつくばったままつぶやきました。やがて光太さんの体が青白く輝き始めました。稲光先生も光太さんも真剣な顔で足元の雲を見つめています。いや、見ているのは雲ではなく、雲の下にある何かを見ているのです。


 ふいに光太さんがこちらを向きました。しかしすぐに顔を戻してまた下を見つめています。雷太郎君は光太さんの言葉を思い出しました。


(太郎君、今度、地上から雷が来る時には、最初から目を閉じていなさい。そうすればもっとはっきりと見えるはずです)


「そうだ、目を」


 雷太郎君は目を閉じました。何も見えなくなりました、光太さんも稲光先生も雲も雨も。すると不思議と気持ちが静まり、いつもの平常心が戻ってきました。


「見える」


 雷太郎君には見えていました。それは目を開けていた時には見えなかった何かでした。風のように流れて青い光に向かって行きます。青い光は光太さんです。


「同じだ、光太さんが来た時に見えたのと同じだ」


 しかし、その流れは一つではありませんでした。雲の遥か下、地上からこちらへ向かって来る流れがありました。そこにも青い光があります。その光はどんどん大きくなっていきます。


「波……確か光太さんはそう言っていたっけ」


 雷太郎君は自分の中から何かがあふれ出して来るような気がしました。


「光太君、どうじゃ、手を貸そうか」

「いえ、私だけでなんとかなりそうです」


 雷太郎君はまた別の波を感じていました。それは自分に向かって流れて来る波でした。その波が雷太郎君の体を取り囲むのです。雷太郎君は目を開けました。自分の体がうっすらと光っています。雷太郎君の目にはもう波の流れしか映りませんでした。風は吹いていないのと同じでした。叩きつける雨も感じません。風の起こすうなり声も耳に入りません。

 雷太郎君はふらりと立ち上がりました。光太さんの放つ光がますます大きく激しくなっています。雷太郎君はその光に向かってゆっくりと、荒れ狂う風雨の中を歩き始めました。


「いよいよじゃな、光太君」

「はい」


 光太さんと地上の雷との間にはおびただしいほどの量の波が流れ、それはまるで柱のようになっていました。雷太郎君は自分に何が起きているのか、自分が何をしようとしているのかまったく分かりませんでした。ただ何か抗し難い力が雷太郎君を捕らえ、雷太郎君を引き寄せるのです。雷太郎君はゆっくりとその波の柱に近寄りました。


「では、先生、私は行きます。判定の方を……」

「兄ちゃん!」


 今まで稲光先生の腕の中でぐったりしていた雷次郎君が大きな声を出しました。稲光先生と光太さんははっとした顔をすると、後ろを振り向きました。雷太郎君がもう光太さんのすぐ近くまで来ています。その全身は激しい光に覆われています。


「いけない、太郎君」

「太郎、離れるんじゃ」


 光太さんと稲光先生は大声で叫びました。二人とも顔が青ざめています。しかし雷太郎君には二人の声は聞こえませんでした。まるで何かに操られてでもいるかのようにゆっくり波の柱に近づくと、その中に自分の手を入れました。瞬間、とてつもない力が雷太郎君の体にかかりました。


「太郎君!」

「太郎!」

「にいちゃーん!」


 三人が叫んだ名前は雷太郎君の耳には届きませんでした。雷太郎君は波の柱に飲み込まれると、恐ろしい力で地上へ引き落とされて行ったのです。

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